第8話

水の中から取り出された少年はプルプルと体を振って、濡れた髪から水を絞り出す。


「犬か、お前は」


少年が飛ばしてきた水をうざったそうに羽織で防ぎながら、男はネレウスに声をかける。


「ネレウス様、このまま海底を這っていくように泳いでいただけませんか?」


男がそう言えばネレウスは左の眉毛をくいッと上げて男を振り返る。


「辰馬、いいのか?海底に行けばいくほどお前にかかる負担は大きくなるぞ?」


「かまいません、そのくらいの体力なら残っていますから――」


「おじさんの名前、辰馬って言うの‼」


「……めんどくせ」


ネレウスと男の会話に相変わらず目を輝かせながら割り込んでくる。

そんな少年を見て、男は顔を歪めた。


「……ちげぇよ、あと俺はおじさんじゃねぇって何度言ったら――」


「それ名前だよね!上‼上の苗字は?」


少年は男に駆け寄ってこようとするが、男は眉間に皺を寄せながら少年の頭をつかんでそれを制す。


「うぜぇから近づくんじゃねぇ……」


辰馬の額に青筋が入る。


「いいじゃん!いいじゃん!教えてよ!」


そんなことは気にしないように少年は辰馬に駄々をこねる。

少年と男が言い争っている間にネレウスは下へ下へとどんどんもぐっていった。

深くなればなるほど光が遠のいていっているにも関わらず、ずっと言い争いをしている二人にネレウスは機嫌よさそうに、鼻歌を歌いだす。


「……穏やかじゃな。昔のようじゃ」


ぼそりと呟きながら、歌が水の中に響く。

するとさっきまで男にくっつこうとバタバタ暴れていた少年がだんだんと動きを遅くしだし、ポテンと尻もちをついてしまった。


「なんだ、おねむか?」


急に大人しくなった少年の顔を覗き込んで辰馬は嘲笑しながら少年をつつく。

しかし少年は気にしないようにうとうとと瞼を瞬かせた。


「そうだよ……辰馬」


そう言い終わる前に少年は寝息を立てながら、パタリと辰馬の方へと倒れてくる。

そのまま倒れれば辰馬の胸に倒れこんでいたのだが、辰馬は咄嗟にサッと後ろに下がったために少年は甲羅の上にそのまま突っ伏す。

そのままスヤスヤと寝始める少年に辰馬は大きなため息をついた。


「本当に変なガキだ」


ふと辰馬は少年の頭を草履の足で踏みつける。

すると少年は幸せそうに笑った。

それを見た辰馬は、顔を歪ませ、引いた顔をして、すぐに草履を頭から避けた。


「変と言うか……気持ち悪いな」


辰馬が少年を踏んだ草履を脱いで羽織で拭きながら、そうボソッと呟けば、ネレウスはハッハッハッ‼と大きな声で笑った。


「面白い子じゃないか、わしは好きじゃよ?」


「大きな声をできれば出さないでほしいです……こいつが起きたら面倒ですから」


「まるでこの子の父親じゃな、お前さん」


そう言われた瞬間辰馬は悪寒を感じて体をぶるっと震わせる。


「やめてください、気持ち悪い」


ハッハッハッとまた辺りに大きな笑い声が響く。しかしネレウスはふとした瞬間に、遠くを見るような目をしだした。


「それに……この子を見ているとわしは懐かしくなる」


ネレウスのその言葉にピクッと辰馬は耳を動かす。

しばらく二人の間に沈黙が流れ、辰馬は静かに水面を見上げた。


「こいつは俺が殺すんです。それ以上も、それ以下もこいつの評価にはいらない」


それにネレウスは答えなかった。

それからしばらく沈黙。

いつのまにやら湖底までついていたらしく、辰馬は上げていた顔を戻した。


「……洗い物を……してもよろしいですか」


ネレウスもさっきと変わらない様子で返事を返す。


「……あぁ構わんよ」


辰馬は血まみれの羽織を脱ぐ。

それを腰に括り付けていた紐に慣れた手つきで懐から取り出した針と糸で縫い付けて、同じように着物やら襟巻やらも縫い付け、その紐をネレウスが泳ぐ方向と逆方向に泡を通り抜けさせて、水の中へと流した。男の服を魚たちがつつきだす。それをぼうっと見つめながら、過去に隣にいた彼を思い出す。紐の先は手にくくりつけていたのだがふと、辰馬の視界の隅に少年が入る。


「……」


辰馬は少年の体に紐をくくりつけた。

その少年と言えば、全く気にしないように寝返りをうつ。


「のんきなもんだな。自分を殺そうとしてるやつの前で寝るなんて」


と辰馬はツンと少年をつついた。

すると少年が不意に


「……ルナーエ」


その寝言に辰馬は少年をつつく手を止めた。


「やっぱガキだな。こいつも」


と少年を見つめながら辰馬は一つ今日何回目かわからないため息をついた。


「……刀の手入れでもしよう」


そして深海には刀同士が擦れる音しか聞こえなくなった。

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