第7話

バシャーン‼


少年の耳元で大きな水しぶきの音が聞こえる。

しかし肌に触れる水の感触も、凍えるような冷たさも感じない。

少年はゆっくりとその目を開けた。


「わぁ!」


彼が目にしたのは、自分を囲むガラスのようなドームの外に引かれた、月光が差し込む群青色の水と青白く光る洞窟の境界線。

水面が揺れるたびに何度も形を変えて洞窟の壁に反射するその光はまるで満点の星空のようだった。

少年が夢中になって身を乗り出し、それに手を伸ばせば、彼の首根っこが捕まれ、ぐっと引き戻される。


「落ちるぞ」


そう言って引き戻したのは先ほど少年を抱えて崖下に飛び込んだ男だった。

少年はしばらくじっと男の方を見つめると、ふとニパーっと効果音が付きそうな笑みで彼に飛びつく。

「おじさんみーつけた!」


「うお!?気色悪い!!くっつくな!?」


男が驚いたように声を上げ、彼を振り払うように投げれば重力に従って少年の体はお尻からすとんと落ちた。

少年は投げられたことが意外だったのか、目をまん丸とさせてその場で固まっている。

――しばしの間、沈黙が流れた。


「おい……急に黙ってどうしたんだよ……」


男が戸惑いながらそう聞けば、少年は「くっくく……」と喉の奥からそんな声を出し、次の瞬間には


「あはははは!」


と大口開けて大笑いしだした。

男はもう何がなんだかわからないというように少年を引いた目で見つめている。


「投げられたのなんて初めてだ!こんなに楽しいなんて知らなかった!ねぇおじさん!もう一回やって‼」


「やるか!……ってひっつくんじゃねぇ!?」


静かな洞窟に男の怒号と、少年の笑い声が響くという混沌とした時間がしばらく流れていたが、それにぴしゃりと水を差す者がいた。


「殺そうとした相手、殺されそうになった相手同士とは思えない和気あいあいとした時間じゃな」


その声が聞こえた瞬間、少年と男はピタリと動きをとめた。


「申し訳ございません、ネレウス様。うるさかったでしょうか」


男はその場にきれいなあぐらをかいて、両手の拳を彼らが何故か乗れている水の上に立てながら進む方向へと頭を下げた。

少年は声の主を探してきょろきょろと辺りを見渡していたが、男に「お前も頭を下げろ!」と頭を半強制的に下げさせられる。


「はっはっは。いいんじゃよ。お前さんが物騒なこと言ってないのは久しぶりじゃからな」


少年はその声は前から聞こえていることに気が付いて、頭を下げるふりをしながら、ちらりと前を盗み見る。

するとそこには水の波紋に紛れて明らかに自然では出来えない水の波が水面から見え隠れしていることに気が付いた。


「おじさん、あれ何!?水が亀みたいな頭してる!」


少年がまた目を輝かせながら見たものに指を指せば、男はピシャリと少年の頭をはたく。


「馬鹿野郎!頭下げとけって言っただろうが‼」


少年は


「えーだって気になるじゃん。おじさんは堅物すぎ」


「はっはっは!誠に愉快な子供よ!わしに向かってそんな軽口叩くのは初代以来じゃな!」


ネレウスと呼ばれた水亀の笑い声が響くたびに水面からシャボン玉がぷかぷかと浮いてくる。

男は頭を押さえながらフルフルと首を振った。


「あーもう殺してぇ」


「殺せてたら僕ここにいないでしょ?」


ニヤニヤとからかうように少年は男を見つめる。男ははぁっと大きなため息を1つついて、頭に青筋を作りながら少年に、にっこりと笑った。


「そういえばお前、水は好きか?」


男が少年の首根っこを捕まえる。

少年はされるがままである。


「え!大好きだよ!しかも今日から水がもっと大好きになった!」


男はにっこりと目を細めながら、彼らを包んでいるドームの壁へと向かっていく。


「そうかそうか。それはよかったな。じゃあ……」


男はそう言い終わる前に少年をドームの外へと天高く投げた。


「大好きな水の中で死ね」


バシャーンとくぐもった水音が洞窟に反響する。

そんな男の行動に


「はぁ~……よかったのか?」


ネレウスが戸惑うようにそう聞いてくるが男はまだ揺れている水面を見ながら、ふんとそっぽを向いた。


「水に入れたら死ぬかもしれないでしょう?」


「いや、そうじゃなくて」


ネレウスが唇らしきところを引き結ぶ


「もし死ななかったら逃げられないかの?」


「あ」


――――


ボコボコと少年の体が沈んでいく。

少年は徐々に沈んでいく体を浮かせようともがいてみるが、もがけばもがくほど沈んでいくことに気が付いて、手を動かすのをやめた。

この感覚を少年は知っていた。

いつ感じたのか、何をしてこの感覚を味わったのか覚えていなくても。

――大丈夫、いつかは底に足がつく。

のんきにもそんなことを少年は考えていた。

肺の中に入れていた空気がすべて抜けきったのか口から泡が出なくなる。

しかし足がつくような気配はまったくない。


水の中は冷たくて、暗くて、静かだ。

少年は流れに身を任せて目をつむる。

何も聞こえない水中に耳をすませながら。


――あぁ、やっと静かだ。


……ボコボコ。


ふと泡の音が聞こえた。

少年は閉じていた瞼をすっと開けてみる。

するとそこにはネレウスと――こちらに太刀の鞘をのばしている男の姿があった。

それをただ見つめていれば男はハンドサインで鞘をつかむように命令する。

それを素直に聞き入れて鞘をつかめば強い力で引っ張り上げられ、少年は無事、ネレウスの上へと戻ってこられたのである。


「……なんだ死んでねぇじゃねぇか」


愚痴るようにそう言う男をじっと少年は見つめる。

耳を澄ませば恨み口を少年に向ける声。

生まれてから教会で聞いてきた声よりもそれはまだ聞いていられる声だった。


「お前本当にどうやったら死ぬんだよ。ここ水深何メートルだと思ってる」


男が眉を下げながらそう聞いてくる。


少年は男の困ったような顔を見ながらクスリと笑いをこぼした。


「おじさんともっと一緒にいたいからな―いしょ」


彼らの不思議な旅はまだ始まったばかり。

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