第2話

少年はその夜も静かに窓を見つめていた。

今夜は曇夜空、時々月が顔を見せれば少年の部屋に月光が差し込んだ。

ルナーエも夜の祈りに出ており、部屋には誰もおらず、シーンと静まり返っている。

少年はただぼーっと窓の先に見える街の明かりを見つめていた。

何もかもに興味がないような子供に似つかわない、冷めきった無表情。

聖女が部屋にともさせていったいくつかのほのかな燭台の明かりが部屋を照らす。

その光がガラスの窓に反射して鏡のように少年の顔が窓にうっすら映った。

少年は少し見えづらくなった景色を目を凝らしながら見る。

すると驚くことに、その窓に映った顔が少年の無表情とは打って変わってにんまりと意地悪そうに笑ったのだ。


「相変わらず無愛想な顔だな」


そう窓の中から話しかけてきた自分の分身に驚きもせず、少年は変わらず外を眺めている。

すると窓の分身は不満そうに顔を曇らせた。


「おい、なんとか言えよ。それでも世界を救う救世主様か?あーあ、面倒くさ」


すると少年はちらりとそちらに目をやって昼間から一度も開かなかった口を開いた。


「ウル、うるさい」


少年がそう言うとウルと呼ばれた少年の分身は満足そうにニンマリと笑った。


「うるさいと思うならいい加減答えなよ、いまだに自分すらわからない出来損ないのくせに」


ウルはそう言うと窓の中から手を伸ばしてきて、少年の頬に手を添えてくる。


「問一、お前は誰だ?」


少年は答えない。

するとウルはニンマリと笑いながら少年の頬から手を放して、窓の縁に足をかけ、軽やかに窓の中から飛び出てくる。

少年の着ている服や身長まですべてが一緒の身なりだった彼は一度体を軽く伸ばしたかと思うと、部屋の方へと歩いていった。

少年はウルに触られた頬を袖で拭いながら、ウルを目で追いかける。

ウルが向かった先は燭台が並んだ背の高い机だった。

彼の身長よりもはるかに高い机の上で静かに火をともし続ける燭台を見上げながらウルはふと少年を振り返る。


「お前が答えるべき質問はあと100個」


ウルが手を叩けば、部屋の中には100個の蝋燭が宙に現れる。

ウルは床を蹴り、その蝋燭が浮かんでいる中心にふわりと浮かびながら、馬鹿にするように少年を見下した。


「お前が答えられた質問の数に伴ってお前に能力の権限を少しずつ返してやるって言ってるのに、これまで生きてきてたったの一度も僕の質問に答えられたことがない。こんな出来損ない、初めてだよ」


少年は黙って、そんなウルからフイッとそっぽを向くように窓にもう一度目線を移す。

ウルはさっきの顔とは打って変わって、無表情でそんな少年の背中を静かに見つめた。


「お前が考えるための時間はお前が考えている以上に少ない」


ウルはそう言いながら床に降りてきて、指を鳴らす。

すると部屋にたくさん浮かんでいた蝋燭だけでなく、蠟燭が短くなり、炎が消えかけている一本立ての燭台を残して、すべての燭台が瞬きの間に消えてしまったのだ。

部屋が月の光と一台の燭台の明かりだけになる。

少年はただ、静かに外を眺めるふりをして、窓に反射しているウルを見つめた。

するとウルはその一本だけともっている燭台を浮かばせて、自分の前へと持ってきた。

少年に見せつけるようにその燭台をウルと少年の間に浮かばせるとウルは燭台へと歩きながら話し始める。


「いままでこの世界はいろんな手を使ってその寿命をつぎ足してきた。ある時は隕石の衝突で、ある時は人間どもが作った道具で。それは何度も何度もこの世界は燭台の火を絶やさないように次の蠟燭を用意して壊れる世界を守ってきた」


その燭台の前へつくと、ウルはどこからか取り出した火のついた新しい蝋燭をその燃えている燭台の上にのせる。

消えかかっていた火がまた勢いを取り戻しごうごうと燃え出した。


「しかしだ、いくら新しい蝋燭があってもお前みたいな火のつかない蝋燭じゃあ、意味がない」


ウルは少年の目を見ながら燃えている蝋燭の上から今度は火のついていない新しい蝋燭を立てる。

すると火は少しだけ蝋燭の下を溶かして、あっけなく消えた。


「燃える蝋燭になるか、燃えない蝋燭になるかはすべてはお前に託されてる。今のこの世界の寿命はさっきの蝋燭のまんまだ。ちょっとは慌てろよ」


ウルはそう言ってひらひらと手を振る。

少年が瞬きをすれば燭台が空中からガタンと落ちる音がして、ウルはもうそこにはいなかった。

少年はふーっと一度息をついて、また窓の外を眺める。


この不思議な少年の分身は彼が物心ついた時から傍にいた。

誰もいないときに窓の中や鏡の中から話しかけてきて、誰かがくれば、薄くなって消えるか、窓や鏡の中に戻っていく得体のしれない人物。

しかし誰とも、たとえそれが小さな頃から自分の面倒を見てくれていた母親代わりの聖女にすら口をきこうとしない自分が唯一口を開く相手。

そんな彼は少年が生まれたころからたった1つの質問をことあるごとに課してきたのだ


『お前は誰だ』


単純すぎる問い。

しかしこの質問は少年にとってあまりにも難しすぎる悪問だった。

少年にはルナーエが名付けた名前だってある。

しかし彼はその名前を憶えていないのである。

なぜなら彼の傍に彼の名を呼ぶものはいないから。

返事もしない、しかも地位だけはこの国で教皇の次に高い子供に誰が名前を呼べたのだろうか。


少年は生きてきて特段に感じた欲も、感情も、衝動もなかった。

それはまるで意思を持たない人形のように。

そのことは今まで彼を世話してきた周りの人間も気が付いていることで、気味悪がったり、逆にどうやったら彼の中から感情や衝動を起こせるのかと熱心に解明しようとするものもいた。

過去に心に大きなケガを負ったわけでも、感じるための脳の機関に問題があるわけではない。

ただ空っぽなのである。


「ねぇ、ウル。僕は誰なの」


少年はいなくなってしまった自分の分身に話しかける。

しかし返事は帰ってこない。

窓の先には彼の無表情すら映らず、きらきらと輝く街がみえるだけだった。


「わからないから、誰かに教えてほしいのに」


少年はまた静かに窓の外の街を見渡す。

星が瞬く夜空から視線を下に流していけば、昼間とはまた違った人の動きが見えた。


――彼の周りで起きたすべてが彼の右から左へと流れていく。


それが神殿での少年の評価だった。


その評価はただのうわさなどではなく、彼の本質を見抜いた正しいものだった。

彼の中にためられていくはずの思い出には感情と言う名の色がなく、少年にとってはとっかかりのない、取るに足らないものでしかなかった。

しかしいつもあふれて仕方がない何かが入るはずの場所に、何もない状態と言うのは気分のいいものではなくて。

そのぽっかり空いた空間が手持無沙汰に感じ出した5歳頃。

気が付いてしまった穴をを埋めるためにあの窓の外に広がる、くすんだ色をした街を眺めだしたのである。

だれもが笑い泣きもがき苦しみ、喜怒哀楽を見せるその少しほこりっぽくとも活気にあふれた街を見るだけで彼の心はほんの少しだけ彼の胸を通り抜ける風の冷たさを感じないような気がしたのだ。


「お前はほんとうに出来損ないだよ。力を使えないばかりか、神から与えれるはずの感情すら持ち合わせずに生きている。そんなの人間以下だ」


ある日少年の湯あみを手伝っていた若い神官にそう言われたことがある。少年は特に取り立ててそれを誰かに話したりはしなかったが、彼は今では少年の世話役を離れ、神殿もやめさせられたと少年は小耳にはさんでいた。

――感情

それは少年にとって一番程遠く、いつまでたっても体に慣れ親しまない異物。

その事実がなぜか無性にむず痒い。

しかし彼に感情を教えてくれる人物などいない。

普通なら生まれた瞬間から持っているものであり、教えられるとしたら生命をこの世界に作り出す神ぐらいだろう。


「――僕が人間以下なら、どうして僕は世界を救わないといけないの」


ぽつりと無意識に零れ落ちたその言葉。

少年は特に考えもせずにその言葉を口にしていたのだ。


バサッ……。


後ろで何かが落ちるような音がした。

バッと少年が驚いて後ろを眺めれば、そこには床に散らばった大小様々な絵本と――。


信じられないものを見るような目で少年を見つめているルナーエの姿があった。

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