第3話 真実は近づき遠のく
(1)遺言めいた言葉
「なあ、マチアスってさ、本気で人を好きになったことはあるか?」
いつの日か、ギルベール先輩と酒を飲み交わしたときに、唐突に出された言葉だった。真っ赤な顔の彼から発せられた言葉は、ただの酔っぱらいの戯れ言にしか聞こえなかった。
同じく酔いが回っていたマチアスだったが、彼の言葉は鮮明に覚えていた。
「……恥ずかしながら、そういう経験はないですね。いい歳ですけど」
二十歳も過ぎた男が恋というものを経験していないのは、言いにくいことだった。
だが、話題を振った青年は、笑い飛ばしもせずに、しみじみと顔を見てきた。
「そうか。なら、これからマチアスが好きになる人間は幸せなことだな」
「どういう意味ですか?」
「初めて好きになる相手は、お前にとって唯一無二の存在となる。そしたら、優しいお前のことだ、すごく大切にして、愛情もたっぷり注ぐことになるだろう。そんなことされたら、女は誰でも惚れちまうぜ」
にかっと笑い、マチアスの髪をわしゃわしゃと撫でてきた。髪がぼさぼさになるのが嫌なので、腕で先輩の手をよけた。
少しだけ酒を飲み、美味しそうにおつまみを食べているギルベールに顔を向ける。
「先輩はあるんですか? その……誰かに愛情をたっぷり注いだことは」
「男女の愛からっていうのは経験したことないな。
「どうして、そんなに妹さんが大切なのですか?」
ときどき思う。妹を大切に想っているのはわかるが、度が過ぎるのではないか。ただの兄と妹の関係を超えているのではないかと、穿った考えをしてしまうときもある。
ギルベールがグラスを揺らすと、氷が当たり、カランと音が鳴った。
「……色々あるんだよ、世の中な。少し歳が離れているから可愛がっていたのもある。外見が可愛いっていうのも、まあ事実だ。そんなことよりも、妹の人生は……妹自身で決めて欲しいんだ」
そして遠い目をしながら、グラスを手に持つ。
「いびつな現状、それに頼らざるを得ない仕組み、誰かが不幸になる結末……。そういうのが嫌なんだ」
残っていた酒を飲み干し、ギルベールは両腕を机の上に置いて、マチアスを見上げた。
「もし妹と会うことがあったら、よろしく頼む。お前なら安心して任せられそうだ」
まるで遺言めいた言葉は、いつまでもマチアスの耳に残っていた。
* * *
光がうっすらと瞳の中に入ってくる。目覚めろと言っているような光が。
それに促されて、テレーズはゆっくり目を開けた。カーテンの隙間から薄明を告げる光が射し込んでいる。その光だけでは日の出前なのか、日没後なのか、わからなかった。
昔のことを夢で見ていた。六年前に兄に助けてもらった出来事を。
あれ以降、最低でも年に一回は家に帰ってきた。その都度、誕生日祝いはもらったが、今でも身につけているのは、あのペンダントだけである。触れるとほのかに温かい気がして、落ち着くからだ。
軽く身じろぐと、ベッドを枕代わりにして、顔を乗せている漆黒の髪の青年が動いた。彼はおもむろに顔を上げ、テレーズと視線が合うなり、勢いよく立ち上がった。
「テレーズ! ……大丈夫か?」
「マチアス……、頭はまだぼんやりしているけど、悪くはないかな。私、どうしたの?」
「魔物たちを退けた直後に倒れた。レソルス石の力を解放した反動で、かなり体力を消耗したらしく、過労で倒れたということだ。一日半近く眠り続けていたから、少し焦った」
マチアスは椅子に座り込み、カーテンに目を向けた。
「……夜明け前か。他に変なところはないか? 体を酷く打ったとか、打撲を負っているとか」
「それはないと思う。あとで軽く体を動かして確かめてみる。あの後、どうなった?」
徐々に記憶が鮮明になっていく中、テレーズは起き上がった。見慣れた光景が広がる。都市で寝泊まりしている、寮の部屋だった。
マチアスは椅子を近づけて、ざっと話してくれた。
テレーズが意識を失ったあと、マチアスはテレーズを背負い、病院へ向かおうとした。その途中でヤンと合流し、相談した結果、寮に医者を派遣してもらうことになったのだ。
万が一、入院した場合、警備の人数を病院側に割かなければならないが、それを出す余裕はない。
寮であれば警備団の人間が常に出入りしているため、侵入など愚かなことをする人間はいないだろうとの判断だった。
提案に同意したマチアスは、ヤンに魔物の事後処理を任せて、寮へと直行した。
その後、医者に見てもらい、安静を言い渡されて、今に至るというわけらしい。
「魔物の死体は解剖に回されたが、よくわからない構造をしていたと聞いた。臓器の位置はめちゃくちゃ、まるで作られた生き物ではないかとぼやいていた」
「作られた……ね。的を射ていると思う。あんな動物、見たことがないし、本でも読んだことがない。あれを連れていたあの男、いったい何者なのかしら?」
「わからない。探しているが、見つかっていないようだ」
魔物というのは、動物などが何らかの影響でレソルス石の力を強く受けて、発生する生き物だ。
一般的に能力が格段と引き上げられ、多少は形が変わるが、未知のものに変形したという話は聞いたことがない。
「生き物を密集させた場所で、レソルス石からの力を瞬間的に膨大に受ければ、合体はできるかもしれないけど……。そんな力を引き出せる人間はいないと思う」
テレーズはマチアスが腕に包帯を巻いているのを見て、あっと声を漏らした。
「それ、突進を受けたときの傷よね。ごめん、援護が遅くなって」
「いいや、テレーズが石で助けてくれなければ、俺は死んでいた。本当にありがとう」
「こちらこそ、ありがとう。マチアスなら倒せると思ったから、安心して石の力を解放できたよ」
お互いに礼を言い合うと、少しだけ空気が和らいだ。それから少しして、目を伏せた。
「言ったかもしれないけれど、私が石を変わった使い方をすることは、他の人には言わないでね」
「特殊だから?」
「そう。手放しですごいって褒めてくれる人ばかりじゃないの」
「俺はすごいと思えるけどな」
その言葉は、今のままでいいと言ってくれている気がして、とても嬉しかった。
テレーズが視線を上げると、マチアスは背筋を伸ばして、こちらを見つめていた。いつになく真剣な表情を向けられ、ドキリとする。
「どうしたの?」
「すまない、ずっと黙っていたことがある。少し長くなるが、聞いて欲しい」
「……わかった」
了承の返事をすると、マチアスはポケットから、一冊のすり切れた抑えられた赤色の手帳を取り出した。
テレーズはそれを見て、目を丸くする。過去に目にしたことがあるものだった。
「俺は五年前、警備団に入団し、ある人と三年間共に行動するようになった。俺はその人のことを親しみを込めて、先輩と呼んでいた。先輩の名は――ギルベール・ミュルゲ、テレーズのお兄さんだ」
彼は声を振り絞りながら続けた。
「二年前のあの日も一緒に行動していた。あの爆発の時、先輩はとっさに俺をかばって――亡くなった」
ぽつりぽつりと懺悔のように、マチアスは手を握りしめながら、兄との日々を、そしてあの事件当日のことを話し始めた。
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