第1話 学者の卵と敏腕警備

(1)突然の強襲

 円を描くようにして壁で取り囲まれている都市、アスガード。

 都市の中にある煙突からは、蒸気が空に向かって絶え間なく出ていた。大半が白い煙であったが、たまに黒に近い煙も見えた。


 外部から都市に入る際は、東西南北いずれかの門をくぐる必要がある。その時に名前や出身地、用件などを書類に記入しなければならなかった。

 不審者と見なされなければ、入るのを拒否されることはない。

 だが、さらにもう一枚壁を隔てた中心部――ゼロ街に行くとなると、特別な身分証が必要になるため、なかなか入れないとのことだった。


 テレーズは門番の指示に従って、書類に名前などを書き、簡単な手荷物検査を済ますと、他の人たちに続いて南門をくぐった。

 まず、目の前に広がったのは、大きな広場。ここでは都市の中を走る馬車の乗降場があり、多くの馬車が行き来していた。

 さらにたくさんの人間たちが待ち合わせをしている。ここは都市内でも人が多い、有数の場所のようだ。


 地方の街の出身であるテレーズは、人の量を見て、途端に圧倒されてしまう。

 入り口近くで突っ立っていると、後ろから歩いてきた男と荷物が当たってしまった。男は舌打ちをしながら去っていく。

 テレーズも慌てて邪魔にならないところに移動した。

 石畳でできた広場の周りには、そこを囲むようにして、食堂や宿屋、様々な市場が展開されていた。


 テレーズは広場の中心にある時計台と、時間などを書き写したメモを見比べる。まだ待ち人との約束の時間まで余裕があった。

 鞄を持ち直して、広場の中をゆっくり歩き出す。


 今日は出身の街でお世話になっている学者、スカラット先生と都市で合流するために、街から出てきた。

 もともと先生はテレーズが住んでいたホプラ街の生まれだが、さらに知識を広げるために、都市に出てきたそうだ。

 今では大部分を都市で過ごし、たまにホプラ街に帰ってきている。そこで知り合いになり、都市に来ないかと誘われたのだ。


 テレーズは道を歩きながら、店の中を眺めていく。

 するとある店で、こんがり焼かれたパンに鶏肉やチーズなどを挟んだものを持っている人が目に付いた。

 その人はそれを美味しそうに食べている。それを見て、ごくりとつばを飲み込み、惹かれるままに店に入った。


 店はこぢんまりとしていたが、多くの人で賑わっていた。テレーズのように女性一人という客もいる。少し気が楽になった状態で、案内されたカウンター席についた。

 お品書きをざっと見てから、先ほど気になったパンを注文した。食事が出るまで、水を飲んで店内を見渡す。


 食事を楽しみながら会話に花を咲かせる女性二人組、地図を広げてどこに行こうか話し合っている男女、一人で本を読んでいる女性、そして物思いに更けている人など、様々な人がいた。

 ここは人々にとって、くつろぎの場なのかもしれない。


 間もなくして、店員が注文した品を持ってきた。机に置かれたそれを見て、テレーズは目を輝かせた。

 トマトソースを絡めた、蒸し焼きの鶏肉とチーズ、ブロッコリーなどが、パンの間に挟まっている。溶けやすいチーズなのか、パンから少し飛び出ていた。


 早速熱々のものを一口食べると、肉汁とまろやかな味わいのチーズが口の中に広がった。

 長旅の間に空いたお腹は、ずっと食べ物を求めていたのだろう。

 当初は味わっていたが、すぐに夢中になってしまい、あっという間に食べ終えてしまった。


 お腹が満たされたところで、ゆっくりと紅茶を飲みながら、店内に置かれている時計を見る。約束の時間まであと少し。

 ちょうど馬の出入りがない時間帯なのか、広場は先ほどよりも混んでいなかった。

 テレーズは紅茶を飲み干すと、支払いを済ませて、五分前に時計台の下に向かった。


 まだスカラットは現れていない。時間までには来るだろうと思い、周囲に目を配りながら待った。

 待ち合わせの時間になると、鐘の音が耳の中に飛び込んできた。

 振り返ると、内壁の向こう側に見える塔から、音が鳴り響いている。都市の象徴とされている鐘塔だ。都市のどこにいても聞こえるような、はっきりとした音だった。


 鐘が鳴り止んでからも、さらに十分、三十分と待った。しかし、待ち人は現れない。


「どうしたんだろう……。まさか約束の時間を間違えた? いや、手紙にこの時間が書かれているのは確認した」


 念のために、鞄の奥に大切にしまっている、スカラットからの手紙の内容も確認した。そこにも今から三十分前の時刻が書かれている。

 スカラットは時間には厳しい人だ。以前、テレーズが支度に手間取ってしまい、十分遅れて現れた時、小言を出された経験がある。



 無限なものは何もない。時間も有限なのだから、大切にしなさい――と。



 そんな相手が約束の時間を過ぎても現れず、連絡すら寄越さない。

 もしかしたら、先生は何かに没頭して、約束を忘れている?

 それとも、何か事情があり、待ち合わせ場所に来られない? たとえば――病気にかかったとか。


 年齢も六十過ぎなので、その可能性はある。そう考えると、いても立ってもいられなくなった。

 手紙を改めて見返し、そこに書かれた住所と、予め購入した都市の地図を片手に、テレーズは足早に広場から出ていった。

 


 大通りを歩く度に、一本に結った栗色の髪がゆらゆらと揺れていた。

 肩よりも長く、癖のない髪は、友達から羨ましがられた記憶がある。

 肩からかけている大きな荷物が目立つのか、時折往来する人の目が向かれた。その視線を相手にせず、黙々と進んでいく。


 通りを歩き、書店の角を左に曲がった。地図で位置を確認しながら、さらに直進していく。中心街に近づいているのか、鐘塔が視界の中で大きくなっていた。

 やがて何度か曲がると、馬車が通らず、人もあまり歩いていない通りに出た。

 大きな建物の裏手なのか薄暗い。今の場所を地図で把握し、方角を確かめると、鞄を握りしめて進んだ。


 少し歩いたところで、テレーズは唐突に立ち止まった。後ろから聞こえる足音も止まる。

 眉をひそめながら歩き出すと、後ろの足音も同じような動きをした。


(まさか、尾行されている?)


 地図を見る振りをして、再び立ち止まる。やはり足音も止まった。


(やっぱり尾行されている……)


 小さく肩をすくめた。誰かに狙われる覚えがない。まだ都市に来たばかりなのだ。

 テレーズはハッとし、自分の荷物を見た。この都市に住んでいる者では考えにくい、荷物の多さである。


(もしかして旅行者を狙った、盗っ人とか? それはあり得ない話じゃない。しょうがない、面倒なことにはなりたくないし、振り切るか)


 考えをまとめて、地図から大通りに行ける最短の道を選び出す。どうやら来た道を戻るよりも、少し進んで裏路地を突っ切った方が早い。

 その後は、人混みに紛れてしまえば、尾行者はテレーズのことを見失うはずだ。


 早歩きで進み出すと、後ろにいた人間も歩き出した。目的の曲がり角を見るなり歩調を早め、さらには駆け出し、裏路地に入った。

 意表を突かれた追っ手も慌てて走り出す。


 テレーズは手近にあったゴミ箱を引き倒し、障害を作った。

 一瞬、振り返ったとき、追っ手の姿が見えた。二人組の男性で、襟が高い黒色の服を着ている。

 暗い色のレンズの眼鏡をかけているため、顔はわかりにくい。


 向こう側の通りが見えて、ほっとしたのも束の間、突然頭上が暗くなった。

 顔を上げると、何かがテレーズに向かって落ちてくる。このままでは衝突すると思い、慌てて立ち止まった。


 すると正面には、真っ黒で巨大な猫科の動物が降り立った。腰くらいの高さの生き物で、瞳の色は赤い。

 後ろから追いついた男たちが、肩で息をしながら、声をかけてくる。


「お嬢さん、危ないから、こっちに来なさい」


 男は諭すように言ってくる。彼らの声音や様子から、慌てた雰囲気は感じられなかった。

 魔物を見慣れているのか、それとも――。


 思考を巡らせる暇もなく、魔物が地面を蹴って、突進してきた。


 テレーズは荷物を脇に置いて、短剣を取り出す。接触する寸前に、近くにあった棚を駆け上って、突進をかわしながら背後をとる。

 振り返ると、魔物は男たちの手前で止まり、体を回転して、こちらに顔を向けてきた。

 魔物は男たちを襲おうとしない。やはり、あれは彼らが飼い慣らしているものなのか。


「二人と一匹が相手……」


 護身程度しか短剣を触れないテレーズにとっては、この数が相手となったら逃げるしかない。

 これだけの至近距離では、得意の弓の利点も生かせないからだ。

 しかし、魔物に背中を向ければ、あっという間に追いつかれ、襲われるに違いない。


 逃げるにしても、魔物は怯ませる必要があると結論づけた矢先、魔物が動いた。

 噛みつこうとしてきたため、刃の腹に左手を添えて、両手で短剣を持った状態で牙を受け止める。

 だが、押してくる魔物の方が力は上だった。

 見る見るうちに短剣の刃は押され、左手に刃が食い込み、血が滴り始める。

 歯を食いしばりながら耐えるが、限界に近かった。


 不意に魔物の牙が短剣から離れた。予想していなかった動きをされ、テレーズは判断が遅れた。

 次の瞬間、腹部に魔物の頭突きを受ける。


「……っく!」


 まともに攻撃を受け、地面に背中を打ち付けながら転がった。

 起き上がろうとすると、魔物がテレーズのすぐ横まで移動していた。少し身じろぐなり、威嚇してくる。

 しかし、動かなくなれば噛みつこうとはしてこなかった。まるで調教された動物のようである。よく見れば首輪をつけていた。


「……ったく、てこずらせやがって」


 男たちが近づいてくる。手には縄が握られていた。


「一緒に来てもらうぞ。テレーズ・ミュルゲ」


 名前を知っている。

 つまり相手は通りすがりの旅人を狙った盗っ人ではなく、何らかの理由があって、テレーズを狙っているようだ。

 魔物を睨みつけると、逆に牙を近づけられる。人の喉元など簡単にかみ切ってしまいそうな牙だ。


 鼓動が速くなる。

 男が近づいてくる。

 どうする――


「――こんなところで男二人と獣一匹で女をいたぶるとは、あまりいい趣味じゃないな」

 低く、重い、よく響く青年の声。その声には聞き覚えがあった。


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