薄明を告げる鐘の音

桐谷瑞香

プロローグ 穏やかでない道中

プロローグ 穏やかでない道中


「それじゃあ、行ってきます」


 晴れ晴れとした空が広がる中、栗色の髪の娘は墓石の前で立ち上がり、挨拶をした。

 雲一つない青空は、まるでこの中に眠る人間の性格を表したような天気だった。

 他にも墓石は並んでいるが、ここの石は比較的新しい方だ。


「――私自身の道を広げるため、そして――真実を明らかにするために行ってくる」


 彼女はそう言い切ると、首から下げている、花が描かれたペンダントに触れた。

 可愛らしい花をいくつもつけた、スズランの絵だ。それを手から離すと、墓石に背を向けた。


 彼女が見つめる先は、これから向かう西の方角。ちょうどそこを厚い雲が覆い始めていた。あの雲は雨を降らせながら、やがてこちらに移動してくるだろう。

 雲が来る前に、彼女は足早にそこから去っていった。




 * * *

 



 馬車が激しく上下する衝撃で、テレーズは眠りから叩き起こされた。

 規則正しく走っていた馬車が、途中で石か何かに乗り上げたのだろう。その衝撃の後は、再び同じ揺れを保ちながら、馬車は走り続けている。


 車内の座席は左右の窓に沿って二列、他の客と向かい合うようにして座っていた。

 目の前の女性はテレーズが眠りにつく前と同じように、本を読んでいる。

 馬車内はランタンから漏れる、レソルス石から作られた光のおかげで、やや暗い中でも本を読むことができていた。


 他の乗客もこちらのことを気にかけた様子はない。どうやら寝ている最中に、妙な言葉を口走っていないようだ。

 一本に結った栗色の髪から、脇に垂れさがっている髪を耳にかけ、ぼんやりと馬車の外を眺める。ちょうど森の中を走っていた。


 夢を見ていた、白い空間の中に立っている夢を。そこで誰かと話をした気がするが、何も思い出せなかった。

 似たような夢は過去に何度か見たことがある。

 しかし、雰囲気だけはぼんやりと覚えていても、それ以外は記憶に残っていなかった。


 気を紛らわすために、鞄から本を取り出す。題名は『都市の成り立ち』。これから向かう場所の手引書のようなものだ。

 本を開こうとした矢先、唐突に馬車が止まった。その勢いで乗客たちは態勢を崩す。

 テレーズはとっさに座席を掴んだため、席から転がり落ちるようなことはまぬがれた。


「おいおい、いったい何だ? 気をつけろよ!」


 座席から落ちた男性は、悪態をつきながら立ち上がった。

 御者ぎょしゃが座っていた方に目を向けると、乗客たちは驚きの声や、小さな悲鳴をあげた。

 テレーズは眉間にしわを寄せて、正面を見る。

 馬車の前には猪よりも一回り大きい、巨大な牙を持った真っ黒い生き物が立ちふさがっていた。瞳の色は真っ赤である。


「ま、魔物だと!? もう少しで森から出るっていうのに!」


 パニック状態の男は、次々と思ったことを口に出していく。

 他の乗客たちもその言葉を聞き、途端に顔が青ざめたり、その場に座り込んだり、さらには体を震わす者も出てきた。この混乱状態はよくない。

 テレーズはとっさに声を張り上げた。


「皆さん、この馬車には護衛も同乗しています。ここは彼に任せましょう!」


 なるべく不安な心理をあおらないように、選んだ言葉を発する。


 通常の動物より遥かに凶暴で、目が赤く、全身が黒い生き物――魔物。

 森の中にはそれがいる可能性が捨てきれないため、通常よりも安い乗車賃の馬車だった。

 その事実はあらかじめ知らされているので、遭遇する可能性があるのはわかっていたはずだ。

 それなのに、この慌てようとは。

 自分に都合のいいことしか受け入れられない人間の存在には、困ったものである。


 御者の隣には、護衛の青年が座っていたはずだ。

 視線を移動すると、彼は既に馬車から降りて、鞘からロングソードを抜いているのが見えた。

 彼は魔物の出方を見ながら、じりじりと近づいていく。猪の魔物は何度か前足で地面を蹴ると、一気に突進してきた。


 青年も少し遅れて走り出す。そして目潰しの砂を放ち、魔物の動きが一瞬鈍ったところで横に移動し、横っ腹を深く切った。

 切られた魔物はその場で倒れ込む。

 青年はさらに何回か手早く切ると、魔物は血を流しながら痙攣し始めた。

 あの状態では、息絶えるのも時間の問題だろう。


 恐れもせず、鮮やかな対処の仕方であった。心強い護衛がいて、一安心した。


 ほっとしたテレーズは、座席に腰をかけようとした。

 だが、馬車の後方から地面を蹴る音が聞こえて、とっさに振り返った。何かが近づいてきている。まさか魔物がもう一匹いたのか。


 護衛の青年に声をかける時間がない――そう判断し、座席の下に置いていた筒状の布袋を取り出して、制止の声も聞かずに外に飛び出した。

 迫ってきたものは、視覚で確認できる範囲に近づいていた。先ほどと同じ種類の魔物だ。

 袋からショートボウと矢を取り出し、躊躇いなく弦を引く。


(石よ、お願い!)


 祈りに似た叫びを心の中でし、矢を放つ。矢は魔物の片目に突き刺さった。

 動きが鈍くなったところで、さらに二本矢を放つ。

 それらは吸い込まれるようにして、魔物に突き刺さった。


 その場で動きを止めたのを見て、弓をおろす。用心を重ねて、もう一本放つかどうか思案する。

 その時、木々が広がる右側から別の猪の魔物が飛び出てきた。意識が前方にしか向いていなかったため、気付くのが遅れる。


 腕でとっさに顔をかばおうとすると、護衛の青年が魔物の動線に現れた。

 彼は足を肩幅まで広げ、両手で剣を持ち、盾のようにして突進を受け止めた。


「危ないから、下がれ!」


 鋭い口調で言われる。テレーズは歯噛みをしながら、馬車の傍に下がった。

 青年は剣を振り回して、魔物と距離をとる。

 そして流れるように踏み込んで、深々と突きをした。魔物は即死だったのか、すぐに動かなくなった。


 絶命したことを確認した彼は、剣を引き抜き、血を払ってからテレーズに目を向けた。きつい視線を向けられ、言葉が詰まる。

 彼は肩をすくめ、剣を鞘に収めながら近寄ってきた。


「弓の腕に自信があるようだな」

「……少しはあります。自分の身は自分で護れと言われましたから」

「弓で己を護るのか? また物騒だな」

「体術も多少はできます」

「そうか、まあいい。今後は先のことを考えずに馬車から降りるのは、やめてくれ。弓だと接近戦になった場合、不利だろう」

「……わかりました。気をつけます」


 上から目線の態度に、少し不愉快になっていた。彼の手助けをしたつもりが、なぜ注意されなければならないのか。


 むすっとした表情を向けていたからか、すぐ横に来た彼の眉はさらにひそまっていた。

 青年の瞳の色は、漆黒の髪に生えるような、群青色。服を着ているが、そこからでも引き締まった体つきというのは容易に想像できた。歳はテレーズと同じ、二十代前半だろうか。


「あともう一つ言っておくと、俺は猪の魔物が複数いるのはわかっていた上で動いていた」

「え……」

「群れで行動する種だから、少なくとも親の雄と雌、そして子の合計三匹いるのが定説だ。一匹目を速攻で仕留めたのも、そういうことを考えているからだ。他の人の助けがなくても、残りの魔物も倒すつもりだった」


 青年はポケットから、まきびしを取り出した。それで動きを攪乱するつもりだったようだ。


「魔物相手には力だけでなく、知識もないと勝てない。自衛ができるとは言っても、どちらかが不足していれば、怪我をする。それに下手に攻撃して刺激したことで、他の人間たちが襲われる可能性もある。……こういう時は何もせず、護衛に任せてくれ」


 青年は最後にテレーズを一瞥してから、馬車の先頭の方に歩いていった。


 テレーズは言い返せず、拳を握りしめる。

 魔物のことをよく知らなかったのは、自分の勉強不足だ。石のことばかり勉強していれば、知識が偏るのは当然である。

 こういうときは、手を出さずに、戦いの専門家に任せるのも手だろう。言い方は厳しいが、的を射た発言だった。


 乗客の一人が馬車から顔を出してくる。そろそろ出発するそうだ。テレーズは動かなくなった二匹の魔物を見返した。

 人間が踏み入りにくそうな森や砂漠などに、魔物は現れると言われている。そのため、今、通っている森でも出る可能性はあった。


 ただ、この森はまったく人が通らないというわけではない。

 もう少しで人間たちが大勢暮らしている都市に辿り着く。そんな至近距離に現れるということは、近年にはなかったことではないだろうか。


 もしかしたら、これから向かう場所も、絶対に安全と言える地域ではなくなっているのかもしれない。


 鐘の音がかすかに聞こえる。

 あと少しで目的地である、アスガード都市に到着するだろう。

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