春光

@usagi327

ある春のカフェ

それはある春の日のこと。

彼は気分転換に散歩をしていた。


桜を眺めていれば、この心の中で続いている捉えようのない不快感が消えるのではないか。少なくともその存在を無視できるのではないか。そう、ふと思い立ったのだ。


公園で花見をする家族。

寄り添い歩く恋人達。

犬の散歩をする少年。


彼らを眺めているとこの世は素晴らしいと錯覚できた。


こんな瞬間が、こんな欺きが自分には必要なのだ。


少し乾いた空気が、ほのかに香る珈琲の香りが彼をそばにある喫茶店へと導いた。


いつもと同じ種類のものを買い、優雅な自己欺瞞を再開しようとしたその時だった。


彼の瞳に、それ以後の彼の中枢となる人物が映ったのは。


彼女はラップトップを眺めていた。


まさにこれから人生における最も重要な決断を下そうとしている。そんな様子だった。


彼の瞳に映る彼女は、勇敢だった。

この世のどんな不幸も全身で受け止めそうな程に勇敢な戦士だ。


彼は自分が何のためにその場にいるのかを忘れ、呆然と彼女の席の近くに腰掛けた。


それが彼にとっての始まりだった。



それはある休日のこと。


彼女は自分の人生を反芻していた。

これから自分は何がしたいのか、どうありたいのかを。


今日は軍事寄宿学校の願書締め切り日である。

今日、決断しなくては。

もう後には引けない。


彼女は市役所で働く父と警察庁で働く母との間に生まれた。

彼女の人生のレールは、彼女自身が「人生とはなんたるか」を知る前に、考える前に敷かれていた。


公務員になるのことは、朝起きて学校に行くのと同じように当たり前のこととして彼女の頭に擦り込まれた。


だが、いずれ彼女は気づくことになる。

自分の人生は自分で決めていいのだと。


だからこそ、敷かれてレールを歩み始める直前になって、彼女は躊躇しているのだ。


「本当にこれでいいのだろうか」と。


願書はとっくに完成していた。

あとは送信するだけだ。

なのに、それができない。


頭の中で声がする。

「よく考えろ!本当にこれがお前のやりたいことなのか?」と叫んでいる。


でも彼女にはわからない。

他にどうすればいいのだろう。


他にやりたいことなどなかった。

彼女は何かに満たされたことがなかった。

常にやるべきことをある程度は難なくこなし、

不自由ない人生を送ってきた。

それ以上を求めるつもりもなかった。



では、なぜあと一歩が踏み出せずにいるのだろう。


気づけば喫茶店にいた。

不安に駆られるといつもここに来てしまう。


マグカップを両手で持ち、ふちを口元に付けて眉間に皺を寄せながら、彼女は考える。

これでいいのだろうか。


先に見える道が一つしかないなら、することも一つに限られる。

前進するのだ。


送信完了を表示する画面をただ呆然と眺める。


しばらくして、ようやく帰宅する気力が湧き起こり、席を立った時、鋭い視線に気づいた。


斜め前に座る人と視線が交わる。

彼女はその瞳に何か大切なものを射抜かれた気がした。


それが彼女にとっての始まりだった。

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