第57話 濃厚海老味噌ラーメン
「わっ、何やってるのよ。ちょっと、大丈夫?」
正面にあるティッシュでカウンターの上を、バッグから出したハンカチで泉くんの口の回りを拭いて……自分で拭いてっ!
「ゲホッゲホッ……こここ、小麦さんが急にあんなこと言うから……」
「だって、覚えてないもの。どうやって帰ったのかも、何で下着で寝てたのかも」
言いながら、穴が空くほど真っ直ぐ泉くんの目を見る。探りを入れるように。
彼は私の視線をかわすように目玉をグリングリンと動かす。怪しい。
「え――っと……」
「した?」
無言。
女にここまで言わせて逃げるなんて男らしくない。お店中に聞こえるような声で聞いてやろうかしら?
……そんなことしたら、泉くんは二度とこのお店に来られなくなるからやらないけれども。
「やった?」
「し、してませんっ! 何も、小麦さんを送っただけで……」
「嘘……」
「ごめんなさい!」
早いな。鎌をかけたのは私だけれども。前も謝っていたから絶対に何かあるとは思っていたんだ。さあ、キッチリ話してもらいましょう。
泉くんが私に何をしていようと覚悟できている。
「タクシーで小麦さんをアパートまで送ったんですけど、ひとりじゃ歩けないくらい酔っていたので部屋まで運んで……」
「私の服を一枚一枚剥ぎ取って……」
「本当に何もしてませんって! 帰るなり服を脱ぎ始めたから……えっと……その……下着は……見てしまいましたけど……」
ゴニョゴニョと言葉を濁した泉くんが、私から視線を逸らして顔を赤らめる。
「あわよくば胸とか触っ……」
「……てません!」
「覆いかぶさっ……」
「……てもいません!」
「キスくらいはして……」
「……ませんって! もっと飲むって下着姿で騒ぐ小麦さんを落ち着かせて、脱ぎ散らかした服を畳んで、自分で鍵をかけてくださいってお願いして部屋を出ました。ちゃんと鍵がかかったのを確認して帰ったので、それだけです」
「それ――だけ?」
「はいっ!」
真っ直ぐ見つめた泉くんの瞳には一片の曇りもなく、まるで青空のように澄み渡っていた。
そうか、そうなんだ。何もなかったのか。
ふたりっきりの部屋で、目の前に下着だけの私がいたのに何もしなかったのか。
私はたとえどんなに酔っ払っていても、まったく気のない人の前で脱いだりはしない。と思う。多分。
そんな前後不覚になった無防備な半裸の私を前に、泉くんは触りもしなければキスすらもしなかったのか。
チッ……これだから女心のわからない唐変木は……時には酔った勢いだって大切なのに。そこから始まる関係だって、大人にはあるんだ。
そりゃあ清水さんだって犯罪スレスレの強行に出るわ。今なら彼女の気持ちもちょっとだけわかる気がする。
「意気地なし……」
「は!?」
「お待たせしました、特製濃厚つけそばのお客様は……」
ハッとして手を上げた泉くんの前に、店員さんがお盆を置く。すぐに私の濃厚海老味噌ラーメンも運ばれてくる。
本当によかったね、泉くん。これ以上この話が続かなくて。
自分の気持ちに気づいて開き直った今の私だったら、泉くんの男としての尊厳までケチョンケチョンにしていたかもしれない。
手を出さない
世の中の女がほしいのは、手を出す誠実な男なんだから。
早々にスマホを構えて撮影する泉くんを眺めて小さなため息を吐き、私も手早くラーメンの撮影を済ませる。最近やっと麺リフトも慣れてきた。
さあ、熱いうちに食べよう。
着丼したときからずっと漂ってきている濃厚な海老の香りにゴクリと大きく喉を鳴らす。
スープはエスプーマされていて味噌なのに乳白色でクリーミー。レンゲで掬うとかなりトロみがあってふわふわ濃厚だ。
ひと口啜ってみると……海老だ! これはもう海老そのものだ!
「美味しいっ!」
あー、染みる。味は優しいのに旨味が濃い。
味噌のうしろに海老の出汁があるんじゃなくて、海老の風味を味噌が後押ししている感じ。簡単に言えば、海老風味の味噌汁じゃなくて、味噌で仕立てた海老スープって感じだ。
ここまで濃厚な海老スープは飲んだことがない。
私が今まで食べたラーメンの中でもトップクラスに入るくらいの美味しさだ。おまけに、メニュー名も海老というパワーワードで分かりやすい。
流石、ラーメンGP濃厚スープ部門暫定二位のメニューだ。
トッピングは二種類のチャーシューとネギとモヤシ、メンマ、あとはコクを出すための油かす。麺は味噌ラーメンには珍しいプリッとしたストーレート平打ち麺。
真ん中に盛りつけられた辛味噌を食べながら溶いていくと、味はより濃厚に、さらに辛味を増して、パンチが効いた味噌ラーメンに変貌する。
見て美しく、味わって美味しく、食べて楽しい。
これがカップ麺で販売されたら確かに買ってみたい。
愛知のレベル、なかなか侮れない。
……他の県のラーメン事情を知らない私が偉そうに言うなって話だけれども。
ラーメンGPノミネートメニューとしての楽しみ方はここまで。あとはお待ちかねの〆だ。
いつもはたまにしか頼まないご飯も、今日は最初からちゃんと食券を買った。
営業中師範――泉くんの過去レポを見て勉強したから。
「すいません、リゾットお願いします」
店員の女の子が元気に返事をしてスープの残った私のどんぶりをさげる。
ほどなくして出てきたのは、丸く分厚い器に入ったグツグツと煮えたぎるリゾットだった。
あかねでは、すべてのメニューの残りスープを使ったチーズリゾットというメニューがある。
チャーシュー丼や鶏マヨ丼という魅力的なメニューと並ぶ大人気メニューだ。しかも嬉しいことに……
「海老だっ! 小海老が入ってる! みっつも!」
香ばしさを加えたスープで煮込んだご飯に、糸を引くように伸びるトロトロチーズに小海老なんて、美味しいに決まってる。
はっ、はふっ……あつっ……うーんっ……ううっ……
「な、何で泣いてるんですか!?」
泉くんがギョッと目を向いて、リゾットを食べて悶えている私を見る。
「ふっ、あつっ、ふひのなはやへとしはー」
「何やってるんですか、早く水飲んでくださいっ!」
慌てて私のコップに水を足してくれる。ありがとう。
でも、よく通じたな。
「大丈夫ですか!?」
「だって、美味しくってー」
まるで子供だ。恥ずかしい。
こんな調子でも、私たちは今、敵対している。お互いの譲れないものを賭けて。でも、それはそれ。
美味しい一時を目いっぱい楽しんで、私たちはお店をあとにした。
駐輪場までの短すぎる道すがら、気になっていたことを思い出す。
「ねえ、泉くんは何で、自分が師範さんだって黙っていたの? みんなに口止めまでして」
この間のサブさんやロンリーさんを見て確信した。みんな知ってたのに私には黙っていたんだって。
「…………かったんです」
「えっ?」
俯いた泉くんの耳が真っ赤になっている。
「恥ずかしかったんですっ!」
ヤダ……どうしよう……可愛い……胸がキュンってしちゃった。
年下の男の子って、いいかも。
私の顔を見られないまま、泉くんはゴーグルとヘルメットをかぶり、両手にグローブをはめる。
それを眺めて私は少し気持ちを落とす。
「それじゃあまた……」
どこかで。
会社では相変わらず滅多に会えないし、約束する間柄でもない。ピオッターのDMは送れるけれども、泉くんの個人の電話番号なんかは聞いていない。
魔法がかかった楽しい時間はもう終わった。また日常がやって来る。
「イロトリドリに行きましょう」
「は?」
え、何? 急に……
「ラーメンGPのメニューを食べるんですよね? 特濃煮干しそばはもう食べましたか?」
「食べたどころか、まだ一度も行けてない……」
「なら案内しますよ! ゆっくり走るので僕のあとをついてきてください」
ゴーグル越しに目を細め笑みを浮かべると、泉くんはバイクに跨がりエンジンをかけた。
どうやらまだ、魔法はかかったままのようだ。
本日のラーメン――
濃厚海老味噌ラーメン……千百五十円。
チーズリゾット……二百五十円。
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