第十一章 濃厚海老味噌ラーメン

第52話 トラウマ

 らぁ麺わかばの若槻大将を説得してラーメンGPを辞退してもらおうなんていう私の浅はかな案はものの見事に玉砕した。

 私がラーメン嫌いになってラーメンを大好きになった大切なお店を出入り禁止になるかもしれない覚悟で挑んだのに。それでも若槻大将は「また食べに来てくださいね」と笑って、私と佐伯さんを優しく見送ってくれた。

 本当に恥ずかしいことをした。穴があったら誰か突き落として!

「ごめんね、佐伯さん。変なところ見せて。折角美味しいラーメンを食べたあとなのに」

「何言ってるのよ、らしくない。こうなったら私も会社のみんなを巻き込んでてんやわん屋の応援するから、ね!」

 駅までの帰り道。私の横を歩きながら佐伯さんがグッと両手を握る。可愛い。

 梅雨なのが信じられないくらい今日は綺麗に星が見える。

 頬を撫でるそよ風も乾いていて気持ちがいい。

 佐伯さんの膝丈のスカートがふわりと揺れる。私もパンツスタイルばかりじゃなくてたまには可愛い格好をしようかな?

 そんなことを考えながら佐伯さんと少し歩くと、大きな公園に突き当たる。迂回するか突っ切るか。この時間になると人通りはない。

「すいません……」

 公園の門柱の向こう側で影がふらっと動いた。

 こんな時に、また……

 サブさんとロンリーさんが何とかするから心配いらないって言ってくれたから安心しきっていた。それに、今日はひとりじゃないからって気が緩んでいた。

 おかしな噂を信じた人の相手なんてしていられない。私のせいで佐伯さんに何かがあったら大変だ。すぐ逃げないと。

 佐伯さんの手を握る。いざ走り出そうとしたそのとき、暗がりから街灯の下に影が姿を現した。

「こんばんは、小麦ちゃん。いや、フラワーさんかな?」

「う――そ……」

 そんな……まさか……何で?

 足がすくむ。立っていられないくらい体がガクガクと震えてくる。視線が定まらない。胸が、痛い。心臓が転がるように動いている。

 佐伯さんにもたれかかるような格好でジリジリと後ずさる。

「どうしたの!? 打木ちゃん、大丈夫!?」

「かかか彼……元彼の……」

「え、元彼ってあの、打木ちゃんをラメーン嫌いにした張本人?」

 視線を元彼に向けたまま、何度も何度も頷く。震えに合わせて何度も何度も。

「驚いたよ。俺に恥をかかせやがったと小麦ちゃんが顔見知りだったなんてね。仲がいいらしいじゃん」

 頭にパッと思い浮かんだのは、元彼がコンビニに違法駐車して警察を呼ばれたときの光景だった。とは泉くんのことに違いない。けれども……

「誰――にそんな、ことを……」

春菜はるなが全部教えてくれたよ」

 はる――な? って、誰? そんな人、知らない。聞いたことも、ない。

 元彼は相変わらずの一見爽やかそうに見える顔でフフッと楽しそうに笑った。

「あー、打木ちゃんって基本面食いなのね。ラーメン好きなだけに。こういうタイプの男はプライドが高くって大変よ? 俺様大好き世界一だから」

「うるさいっ! 少しばかり整った……少し? 整った顔をしてるからっていい気になるなよ高飛車女が!」

「ありがとう、褒め言葉として受け取っておくわ」

「褒めてないっ!」

 佐伯さん、つよい。相手があの元彼でも、いつもの彼女とまったく変わりがない。

 そのおかげで、ちょっと震えが落ち着いてきた。けれども、お願いだから相変わらず挑発するのはヤメて。相手は暴力だって振るってくるかもしれないから。

「あいつと仲良くラーメン食いに行ってるそうだね? いいねえ、フラワーなんてラー垢まで作って」

「そもそも何で私のピオッターのアカウントまで……っ!?」

 そうか。そうだったんだ。はるな――って、もしかして、春?

「スプリングさんだ。じゃあ、改名前のラーくん垢はやっぱりあなたのだったんだ。でもどうしてあなたのアカウントをスプリングさんが?」

「俺の使ってたアカウントなんて、何年も前に春菜にやったよ。フォロワーの土台がほしいって言うからね。とかなんとか、おかしな噂が広まって面倒くさいことになってたから丁度よかった」

 自業自得だ。どうせ五年前のあのときような横暴を繰り返してきたに違いない。

 泉くんが五年前のあのときの男の子だと知ったらもっと逆上しそう。

「何の目的で、そのはるなって人の垢をスプリングに変えさせてまで私に嫌がらせをしたの? 酷いよっ! 私が誰とでも簡単にみたいな噂を流して……」

「嫌がらせ? 小麦ちゃんに? 春菜にはあいつの日常を滅茶苦茶にしてやれとしか言ってないけどな。だから小麦ちゃんから言ってやってくれない? 俺に土下座して謝れって」

「イヤッ! 誰がそんなこと!」

「あいつが俺に恥をかかせたのに?」

「何であなたが被害者ぶってるのよ! 悪いことをしたんだから警察呼ばれて当然じゃない! 泉くんや私を巻き込まないで。いい迷惑よ!」

 言えた。ついに言えた。元彼の顔を見ただけで動揺して何もできなかったのに、思いのほか言いたいことを思いっきり言えた。

 私はもう、ラーメン嫌いだった頃の私じゃない。佐伯さんや、おばけ会長さんとかサブさんとかロンリーさん、ピオッターで知り合ったたくさんのラー友さん達がいる。仲間が、いる。

 佐伯さんが後ろから私をキュッと抱き締めてくれる。頭をよしよしと撫でてくれる。ありがとう、勇気が出るよ。

「そうか、残念だな。じゃあ、小麦ちゃんが土下座する?」

「は? 何で私が?」

「あいつの代わりだよ。俺の気が済まないとこれからも大変だけど、いいの?」

「脅迫? やっぱりあなたの差し金じゃない! 泉くんも私も何も悪いことなんてしていないのに、会ったことすらないスプリングさんに嫌がらせをされる謂れなんて……」

「そういうところがホントむかつく! 悪いのはあんたなのに」

 女の人の――しかも、この聞き覚えがある声は……

 公園の門の向こうでフラッと影が動いたかと思うと、ひとりの女の人が街灯の下に現れた。

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