第50話 ビッチのくせに!

 ドアベルの音と大将の声を背中に聞きながら店を出た。

 外はこんこんと雨が降っていて、視界をボンヤリと霞ませていた。

 ラーメンの食べ歩きを始めてまだ二ヶ月程度の私にできることなんてたかが知れている。私ひとりの力じゃどうにもならない。フォロワーのみんなを巻き込んで、一緒にてんやわん屋を応援しないと。

 応援しないと……てんやわん屋が……

 大粒の雨が傘をトトンと叩く。車が水しぶきをあげて道路を走り去る。

「あの……」

 てんやわん屋を出てすぐ、看板の隣の信号を渡ったとき、誰かのか細い声が聞こえて振り返った。

 そこに立っていたのはビニール傘を差したスーツ姿の男の人だった。

 少し広がったおでこに短めの髪、会社帰りかと思われるスーツとたすき掛けのカバン。傘を持っていない方の手にあるスマホが男性の顔をボンヤリと照らしていた。

 この男の人って、さっきてんやわん屋にいた……

「は、い? 私、ですか?」

 しんと静まりかえった真っ暗な通り道、と言うわけではないけれども、辺りを見回しても私以外の人はいない。車は引っ切りなしに右へ左へ走り抜けているけれども。

「フラワーさん、ですよね?」

 またか。

 最近、ラーメン屋に行くと話しかけられることが多かった。「フラワーさんですよね?」と。それも男の人ばかり。女の人から話しかけられたことは一度もなかった。

 気になったのは、前に小太りの男の人にラーメンを食べに行かないかと誘われたときが最初だったこと。

 あの時ほどおかしな恐怖を感じたことはないけれども、あれ以降急にだったから不可解だった。名乗らない人達ばかりだし。話しかけてくる目的がわからなかった。

 私は私でずっと前から私だし、急に人が変わったように可愛くなったりなんてしていない。ピオッターでも特別目立つようなこともしていない。

 フォロワーさんは最近やっと五十人を超えたところだ。会長さんやサブさんのようにフォロワーさんが千人を超えている人達とは比べるまでもない。

 それなのに、今日もまた声をかけられた。

「そう、ですけど、何か?」

 相手は間違いなくピオッターをやっている人だ。けれども、私の仲のいいフォロワーさん達とは明らかに感じが違う。

 明るくフレンドリーに「お友達になりましょう」って感じじゃない。もっとどんよりしたと言うか……うーん、なんて言えばいいんだろう? どこか下心がありそうな、そんな感じ。せめて名乗るくらいの常識はほしい。

「お聞きしたいんですけど、フラワーさんは本当に噂通りの人なんでしょうか?」

「……はい? 噂ってなんですか?」

 聞いたこともない。そもそも噂になるほど私は有名でもない。

「いや、あの、ラーメンを奢ったら、その、えっと、、とか?」

「はぁ? 何ですか、それ! どこでそんな噂が……」

「す、すいません、僕じゃないです、ごめんなさいごめんなさい……」

 驚いたように目を丸め真っ青になった男の人は、私に背を向けると駅とは反対方向へ逃げるように走って行ってしまった。「ごめんなさい」と繰り返しながら、広げた傘もろくに差さずに。

 ブルッと小さく体が震えて、傘の柄共々キュッと自分の肩を抱く。

 寒かったわけじゃない。むしろ雨と気温のせいでサウナのように蒸し暑かった。それなのに酷い悪寒がした。

 私の知らないところで、フラワーという私がひとり歩きしている。心ない噂を立てた人がいる。

 その瞬間、私の頭にはひとりの人が浮かんだ。

 営業中師範さんのとても信じ難い悪評を私のDMに送ってきた人……でも私と彼女の間には関わりはほとんどない。

 てんやわん屋から駅までの歩き慣れた道が急に怖く感じた。街灯は等間隔に並び車も人通りも多いのに、また誰かに声をかけられるんじゃないかって、キョロキョロと辺りを気にしながら足早に歩いた。

 電車の中ではピオッターのタイムラインを片っ端から見て回った。他にも思いつく限りの単語を検索してみた。けれども、さっきの男の人が言っていた私の噂なんてどこにも見当たらなかった。

 最初に男の人が声をかけてきた日から今日まで、確か八人――じゃない、九人の男の人が私に声をかけてきて、ろくに名乗りもせずまるで舐めるように私の体に視線を絡みつかせてきた。

 最初の男の人以外に何かあったというわけじゃない。それは自意識過剰だと言われてしまえばそうなのかもしれない。でも、その気持ち悪さは間違っていなかったんだ。

 私はラーメンが好きで、ラーメンの情報を得たりラーメン好きな人との交流するためにピオッターを始めた。それなのに、私がどういう人間だとかは関係なく、ただ自分の欲望を満たそうとする人達がいるという現実が悲しかった。

 ひとりじゃどうにもならなくて、かと言ってこんなこと誰に相談していいかもわからなくて、家に帰ってから佐伯さんにだけメッセージで不安を吐露していた。

 こんなくだらないことで自分の心が乱されるのが嫌だった。私はもっともっとずっと大切なことを考えなきゃいけないのに。

 てんやわん屋を盛り上げて、みんなに応援してもらわなきゃいけないのに。

 心が落ち着かないまま特設ページで今日の分の投票をして、てんやわん屋の紹介をピオッターでリピする。すると、さっき佐伯さんに送ったメッセージが意外な形で返ってきた。

 それはサブさんからのDMだった。

『サッキーに聞いたわよ! 怖かったでしょ? すぐに調べるから、安心して待ってて頂戴!』

 ……涙が出た。

 ディスプレイを見ていたら自然と涙が溢れてきてついには嗚咽を漏らしていた。

『打木ちゃん大丈夫? ラーメンアカウントの方は詳しくないからサブさんに相談したから。事後報告でごめんね。いつでもメッセージしていいから』

 サブさんのDMのあとに佐伯さんからの返信がきて、涙を拭きながら少しだけ笑ってしまった。

 佐伯さんの連絡を受けてからのサブさんの対応が早すぎて、本当に私のことを心配してくれているんだって嬉しかった。

 それからすぐだった。サブさんに続いてロンリーさんからDMが入ったのは。

『ごめん、もっと警戒するべきだった』

 何の話だろう?

 そのメッセージのすぐあとに送られてきた画像は、あの人のピオのスクリーンショットだった。

『フ○ワー、マジむかつく! ビッチのくせに!』

「何、これ? もしかして、私のこと?」

 前にDMで送られてきたメッセージは気分が悪かったので消してしまったけれども、営業中師範さんとはこれまで通りなこと、それが気に入らないならブロックしてくれて構わないこと、確かそんなメッセージを返した覚えがある。

 決して相手を否定せず、怒らせないように口調はやわらかく。おかしなことなんて書いた覚えはない。

 そのあとすぐフォローを解除してしまったから、他のフォロワーさんを辿って彼女のピオを見に行ってみた。けれども、ロンリーさんがスクショで送ってきたピオはどこにも見当たらなかった。

『フラワーさんが絡んだって言っていたから、気になって巡回してはいたのに。最近特定のグループしか見れないピオが多いと思っていたけど、一部の垢だけ集めてこんなピオをしていたなんてな。たぶん噂はDMで広めているんだと思う』

 ……DMで噂を広める。それはロンリーさんの憶測ではあるけれども、私は確信した。だって、営業中師範さんの悪い噂を私にDMしてきたのも彼女なんだから。

「でも、スプリングさんが……なんで?」

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