第十章 鶏白湯らぁ麺 特製盛り
第47話 我が社のアイドルはつよい
エレベーターから降りて、お昼前の人が少ないエントランスを静かに歩く。
近未来をコンセプトに設計された落ち着いた雰囲気のエントランス。そのガラス張りの受付の横を右手に折れて、ビルの出入り口とは反対方向へ向かおうと……
「打木ちゃん、何か用事でも頼まれたの?」
心臓が口から飛び出るかと思った。ちょっと出たかもしれない。
何もこんなときに。佐伯さんも間が悪いったらありゃしない。
顔に笑顔を張りつかせ、ギギギと錆びた骨董品の人形のようにぎこちなく振り返る。
「ちょっ、と、トイレ、に?」
「へえ、三階のトイレの前を素通りして、わざわざ工場のトイレで誰と何をする気かしら? さすがに私も社内でするのはオススメしないわよ?」
「しないよ、そんなことっ!」
「どんなこと?」
ウグッと言葉を飲み込む。
佐伯さんは口元を押さえてクスクスと楽しそうに笑っている。
土曜日の朝ラーのあと、今度は名駅まで出てショッピングとラーメン巡りを考えていたら、佐伯さんから再びメッセージが入った。「どうだった?」って。
本当にしつこい。けれどもまた既読無視したら、多分月曜日に出社するまで何度も同じメッセージを送ってきそうだから「何の話しでしょうか? 記憶にございません」と送ってやった。嘘じゃないし。すると「えっち」とだけ、返ってきた。思わずスマホを握りつぶしてしまうところだった。危ない危ない。
もうこれ以上メッセージのやり取りは不毛だと思い、その先は本当に無視を決め込んだ。私が考えなきゃいけないことは、そんな記憶に残っていないような不確かなことじゃない。気にはなるけれども。
スプリングさんのこととか、てんやわん屋のラーメンGPのこととか、新しいラーメン屋のこととか、美味しいラーメンのこととか、いっぱいあるんだ。いっぱい。
現実は物語のように順序よくエピソードなんてやってこない。色々なことが一気にありすぎて、もう頭の中も胸の中もお腹の中もゴチャゴチャだった。
で、出社してからずっと避けていたんだけれども、何をやるにも佐伯さんに監視され続けて、結局このざまだ。まさかあとをつけられていたなんて。そのまま出かける気満々でしっかりバッグまで持って。
「お昼休みはまだなのに企画部から出て行ったからどこへ行くのかと思ったら、まさかお昼に合わせて逢い引きなんて、ね。打木ちゃんも大人になったのねぇ」
「私は元々大人です」
失礼しちゃう。
繁華街から一本外れた裏通りを夜に歩いていたら補導されかけたことも一度や二度じゃないけれども。ちゃんとメイクだってしていたのに。
生産管理部に向かう通路の手前にあるエントランスの長椅子に座って、佐伯さんがバタ足のようにパタパタと足を揺らした。
「逢い引きは否定しないのね」
「あ、べ、別に約束してるわけじゃなくて私が、あっ……」
また余計なことを言ってしまった。
佐伯さんはイジワルだ。絶対に私の反応を見て楽しんでいる。
「ふふっ、いいわねぇ初々しくって。すぐ会いたくなっちゃうものよね、やさしく抱かれ……」
「……てないっ!」
……多分。露骨すぎる。誰かに聞かれたらどうするつもりよ、まったく。
「またまた、だって泉くんに聞いたけど、あの夜は打木ちゃんを部屋まで送って一緒に……」
「え、じゃあ、やっぱり……だから起きたとき下着で……」
「えぇっ!? 本当にやっちゃったの!?」
「ちょっ、佐伯さんっ! 大きな声でそんなこと言わないでよっ! 佐伯さんが今言ったんじゃない。泉くんが私を部屋まで……って」
佐伯さんがニヤッと悪戯っぽく笑って私を上目使いで見あげた。
「打木ちゃんの方が声大きいわよ? 私はただ、鎌かけただけなんだけど」
そんな、酷い。
「いやぁ、まさか本当に年下の子と濃密な夜をすごしてしまわれたとは。何にも知りませんみたいな幼い顔して打木ちゃんもやるわね。恐れ入りました」
「ち、違っ、本当に何も覚え……」
コツンと高らかに鳴る靴の音が聞こえて、言葉の先をゴニョゴニョと濁す。
こんなこと、社内で誰かに聞かれていい話題じゃない。
フッと音のなった方に視線を向けて全身が凍りつく。
そこにはいつもの華やかさを完全に抑えた制服姿の清水さんが腕を組んで立っていた。
「ひっ!」
思わず声が出た。心臓が止まるかと思った。
「何ですか、それ? 人を化け物みたいに」
清水さんは可愛い顔に鬼気迫るオーラを纏って私をギロリと睨みつけてくる。この子、怖い。化け物の方が何倍もマシだ。
「とっても楽しそうなお話をしていましたけど、私も混ぜてくれますよね、先輩?」
キュッと口角を上げて口元に笑みを浮かべる。けれども、目が少しも笑っていない。
何なの、外見からは想像もつかないようなこの迫力は? もしかして、元ヤンとか? ポケットにナイフとか金属製の殴るやつとか入っていないよね?
「えっと、あの、その……」
「あはは、本妻が妾にタジタジじゃない」
「妾って、誰がよっ!」
お願い、ヤメて、本当に、佐伯さん、お願い、清水さんを逆撫でしないで。全部私に返ってくるから。
「だって、潰れた打木ちゃんを泉くんが送って行ったのは事実だし」
「送っただけでしょ! それくらいで本妻気取りなんて……」
「そ、そうだよ佐伯さん。清水さんの言う通り……」
「まだそんなこと言ってるの、打木ちゃんは? 相手は清純派の皮を被った
「何ですって、この行かず後家!」
「あら、お子様なのに難しい言葉を知ってるのね。口調も顔も正体が透けてきているわよ、大丈夫?」
佐伯さんと清水さんの間に火花が……いや、もうこれは爆発だ。
顔を真っ赤にさせて頭から湯気を噴く勢いの清水さんと、静かに笑いながらも額に青筋を立てている佐伯さん。
怖い……ふたりとも怖いよ。私、もう帰ってもいいかな?
「で、本当のところどうなのよ、泉くんっ!」
清水さんが生産管理部へ続く通路を振り返る。その右手に折れた通路の影からヌッと出てきたのは泉くんだった。
眉間にシワを寄せ、何とも決まりの悪そうな顔をしたまま、私を目が合うと申し訳なさそうにペコリと小さく頭をさげた。
「小麦さん、ごめんなさい」
「何が!?」
え、それ、何のごめんなさい? 言葉が足りなくない? 誤解されちゃうから。
ほら、ほらほらほら、清水さんが鬼のような形相になっているじゃない。
佐伯さんはこの修羅場に時折燃料を投下しながら楽しそうに見ているだけだ。
私は……イタタタタ、胃が痛くなってきちゃった。ラーメン食べられなくなったらどうしてくれるのよ。
エントランスに人が増えてきた。もうこれ以上のゴタゴタはごめんだ。
佐伯さんがスマホを見て私たちの間に視線を動かした。
「ねえ、お昼になったけど、どうする? みんなでランチにする?」
「え、ヤです」「するわけないでしょ!」「もう勘弁してぇ~」
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