第45話 え、まだ夢?
頭上に広がる分厚い雲のせいで辺りはほんのり薄暗い。
しとしとと降り続く雨なのに、てんやわん屋は朝から大賑わいだった。
あれから急いでシャワーを浴びてすぐに家を出たんだけれども、乗りたかった電車を目の前で見送って、駅で待つこと二十分。だから土日ダイヤは大嫌い。
ホームで雨に霞む町並みを眺めながら電車を待っていると、佐伯さんからメッセージが入った。
『どうだった?』って。
どれだけ『何が?』って送り返してやろうかと思ったけれどもあえて既読スルーしてやった。だって、何か企んでいるっぽいから。
昨日だって、確か泉くんをなな屋に呼んだみたいなことも言っていたし、わざと彼にちょっかいをかけて私の反応を楽しんでいるきらいもあるし。泉くんにけしかけるようなことだって言うし。
最初のころは、もしかして佐伯さんも泉くんを狙っているんじゃないかってちょっと疑った覚えがある。あんな美人に狙われたら普通の男子はイチコロだって。でも、泉くんは違うんじゃないかなって。ラーメン以外に興味なさそうだし。
いつから佐伯さんはこんな風になったんだろう? 泉くんと佐伯さんが一緒にランチラーメンを食べに行った頃くらい、からだったかな?
裏でこそこそ泉くんと何を話しているのか、今度はこっちが佐伯さんに尋問してやらないと気が済まない。
やっと来た電車に乗って、降りた駅からさらに歩いて十分くらい。距離にして1㎞ちょっと。
てんやわん屋の外並びに接続したのは、やっぱり最初の計算通り八時半ちょっとすぎた頃だった。あの電車に乗れていたらもう二十分は早く着いたのに。
そこからさらに十五分くらい、傘を差したまま外の並びで待っていたけれども、出てくるお客さんの中には泉くんはおろか、おばけ会長さんを含む仲のいいフォロワーさん達はひとりもいなかった。
やっぱり安定の常連さん達だ。みんな早い。
……泉くんは、今日もやっぱり一番だったんだろうか?
昨日は何時になな屋を出たのか覚えていない。けれども、私とタクシーに乗ってそのあとあんなことやこんなことやチョメチョメなことがあったかもしれないのに、そんなに早くに起きてお店に来られる?
やっぱりあれはただの夢なんじゃないかって思えてきた。
だってろくに寝ていないのにラーメンなんて……あ、前言撤回。
ラオタの凄まじさは嫌というほど耳にしている。
朝七時から記帳開始なのに六時半には限定六十食完売御礼しちゃったとか、その並びのPPの人は前日の十一時から七時間並んでいたとか。
泉くんくらいのラオタならば寝ないでラーメンを食べに行くのも朝飯前に違いない。朝ラーだけに。
なんてくだらないことを考えながらピオッターを見ていると、やっとてんやわん屋の朝ラーのタイムラインが上がってきた。
十数秒で上がってくるときもあれば、今みたいに何十分も経ってから上がってくることもあるのは、どういった違いがあるんだろう? ピオッターのタイムラインはよくわからない。
おばけ会長とサブさんはいつも一緒で仲よしだ。神無月お兄さんのタイムラインは流れてきたけど弟さんのは……あ、今上がってきた。今日は小隊長さんや狭間の黒猫さんも来ていたみたい。小隊長さんはお祭りのときに見かけたことだけあるけれども、黒猫さんはまだお会いしたことがないから会ってみたかったな。
初めての訪麺以来毎週来ているけれども、てんやわん屋の朝ラーは朝一番が最も混む傾向がある。あまり遅くに行くと朝ラー限定メニューが終わってしまうこともあるから。
必ず、とも言えないのがラーメン屋あるあるなんだけれども。そう大将が言っていた。メニューのせいなのか天気や気温のせいなのか何なのか、長年やっていてもお客さんの流れはまったく読めないって。
昨夜のことはお茶を濁してでも、スプリングさんのことだけはなんとか泉くんに聞いてやろうと家を出てきたけれども、時間が経つにつれてそんな意気込みも小さくなってしまった。
あわよくば泉くんじゃなくても他のフォロワーさんになんて考えも、誰もいなければ聞きようがなかった。
また今度にするか。もしくは泉くんに会いに工場まで行くか。
……佐伯さんの話だと、泉くんは清水さんにつきまとわれているらしい。けれども、本人から聞いたわけじゃない。工場に行くには生産管理部の横を通らないといけないし、清水さんにはできれば会いたくない。
だってあの子、絶対に泉くんのこと大好きじゃん。
私は別に泉くんなんてどうでもいいんだけれども、女の
もうじき九時になる。
私は外待ち三番目。あとちょっとで中待ちの椅子に座れる。
今日はいつもより混んでいるようだけれども、それも限定メニューのせいかな?
私はラーメンを食べ歩くようになってまだ日か浅いから、ラーメン以外のものを食べるのはなかなか勇気がいる。
初めてのつけ麺もてんやわん屋の朝ラーだった。そして今日も。
まぜそばとか油そばとか汁なしと呼ばれるメニューはまだ一度も食べたことがない未知の世界の食べ物だ。
しかも炭火オイルの油そばって……炭火オイルがまったく想像できない。
オイルは香りや旨味を移しやすいから、炭火の香ばしいにおいがするオイルで仕上げた油そばって感じだろうか?
想像しただけで口の中にいっぱいになったツバでゴクリと喉が鳴った。
そんなときだった。ドアベルが明るい音を奏でた。
「ごちそうさま」
そう言ってお店から出てきたのは、もはやトレードマークのようなスーツ姿の眼鏡をかけたおじさ――男性。ロンリー眼鏡さんだった。
「おや、フラワーさん。今日はえらく遅いですね」
「へへっ、ちょっと昨日飲みすぎちゃいまして」
「ほう……飲みすぎ、ですか。なかなかエロい響きでじゃないですか」
何を言っているんだこのおじさんは?
パッと見はとっても真面目そうなんだけれどもサブさん曰く色々と変態――変わり者らしい。思い立ったらすぐに東京とかまで遠征ラーメンしちゃったり。刹那主義系ラオタだ――仕事しているのかな?
「今日はミカン姐さんと一緒じゃないんですね?」
「姐さんは油っぽいのが得意じゃないから、油そばを食べることはまずないね」
ラーメンが千差万別なように、ラオタも十人十色だ。
会長さんはチャーシューが苦手だし、姐さんは油が苦手……それでもラーメンを食べたいって凄いと思う。だって、チャーシューも油もラーメンにはなくてはならないものなのに。
「ロンリーさんは白湯みたいなコッテリ系が苦手でしたっけね」
「心は三十五歳なんだけど、最近胃がついていかなくってね」
安心していいです。胃がついていかないのはちゃんと年相応ですかから。
「今朝はフォロワーさんだらけだったから、もっと早くに来てれば何人か紹介したのに」
そう言ってロンリーさんは軽く笑うけれども、彼や会長、サブさんのようなたくさんのフォロワーさんがいる人と知り合えたから、私は楽しいラー活をしていられるんだと思う。
あ、じゃあついでに……
「ロンリーさんは、スプリングさんってアカウントの方、知ってますか?」
瞬間的にロンリーさんの顔が曇った。今の今まで楽しそうに話していたのに。
「そう言えば、最近ユーザー名とアカウント名をスプリングに変えていたな。気づいていない連中も多いけど」
……? 頭を捻るばかり。ちょっと何を言っているのかよくわからなかった。
「ああ、ごめん。フラワーさんには関係ない話しだったね。前はラーくんって垢名で活動していたやつなんだけど……」
「……はい?」
ロンリーさんが言った言葉の意味を理解するのに軽く十秒はかかった。
息が、苦しい。胸が――心臓が、痛い。
まさか、泉くんかもしれないと思っていたアカウントが、元彼?
「でも、何でまたスプリングのことを? あまりいい噂を聞かないやつだけど」
「あ、や、ちょっとピオッターでやり取りしたことがあって、どんな男性なのかなぁって」
声が上擦る。動悸が治まらない。思考がグルグル回る。視界もグルグル回る。
ロンリーさんがこぼれ落ちそうなくらい目を見開く。
「え、スプリングは女だよ?」
「はあ!?」
……え、私はまだ夢を見ているの?
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