第44話 夢うつつ
う、うん……………………あれ?
見馴れた天井、目に焼きついている日常。
薄ピンク色の羽毛布団から出した私の顔のすぐ横に、モフモフのクッションが転がっている。体をよじってクッションに頬ずりして……自然と閉じていこうとする瞼を必死に堪えて、握り締めていたスマホを見る。
五時半……土曜日……
平日じゃなかったことにホッと胸を撫でおろす。
私はいつ寝たんだろう?
昨日は、えっと……佐伯さんに連れられて同僚達と定時後にちょっとお高い焼き鳥屋へ行った。そこで美味しい焼き鳥が食べられると思ったのに、お店には初見の男の人達が待っていて、料理は美味しいのに美味しくないお酒を飲まなきゃいけなくなって……
布団が温かくて気持ちがいい。今日はそれほど気温が高くない、のかな? 東海地方の梅雨時は熱帯雨林並にジメジメしているものだけれども。
何だか遠くで雨の音が……雨の……雨……え、今日って予報、雨だっけ!? 確か明日までは晴れだったはずなのに。
ベッドから飛び起き勢いよくカーテンを開けて、外の様子を窺い見ようとした私は、自分のその格好に気づいて慌ててその場にしゃがみ込む。
あ、あ、あ、危なかった……危うく世間様に晒してはいけない私の恥ずかしい姿を晒……何で!?
何で私は下着なの!?
えっ? ちょっ、えっ、えっ?
部屋を見回すと、ベッドの下に昨日着ていた服がきちっと畳んで置いてあった。
その瞬間、脳裏に浮かんだ朧気なスライドショーにザッと一気に血の気が引く。
泉くんがタクシーで私がポスンっとなってよしよしされてギュッとなって目をつぶってあああああああ……チーン……
ペタンと床に崩れ落ち、ベッドにもたれかかる。
終わった……酔っぱらってこんなことになるなんて……
覚えている。覚えていない。途切れ途切れに頭に浮かぶのは、泉くんの顔とか声とか温もりとか。
あれは現実? どこまでが現実? 本当に現実?
全部――全部、夢であってほしい。
あの鶏清湯はとっても美味しかったけども、何ならなな屋へ行ったところから夢であっても構わない。泉くんが現れるまではムカムカするだけの酷い飲み会だったから。
鶏清湯を食べたあとのことが朧気でハッキリ思い出せない。頭を掠めるワンカットワンカットは、恥ずかしくてとても口にできないようなことばかり。
でもよかった。今日のはちゃんと上下セットでうすブルーの可愛い……そうじゃないっ!
落ち着こう。まずは状況の確認からだ。
目だけで部屋をグルリと注意深く見回しながら、抜き足差し足玄関を目指す。
起きたら彼が隣で寝ていた――なんてまるで絵に書いたようなベタな展開ではなかったけれども、もしかしたら私よりも早く目覚めてトイレに入っていることだってあり得る。
……何か羽織ってきた方がよかったかな?
けれどもそんなことは取り越し苦労で、トイレの電気は消えていた。
念のためノックをしても返事がなかったので、ゆっくりドアを開けてみる。そこには、ピンク色のトイレマットの上で自由気ままにスリッパがひっくり返っていた。
ああ、日常だ。これはいつもの光景だ。
次に……玄関のドアノブに手をかける。
胸が、今にも爆発しそうなくらいドキドキ鳴っている。
意を決してドアノブを捻ると……よかった、ちゃんと鍵は閉まっている。
いや、でももしかして……海外のラブ・ロマンス映画ばりの濃厚な一戦を交えたあとすぐ「俺、用事があるから行くけど、鍵はポストに入れておくから」なんてまだ起き上がってもいない私を置いてひとり部屋を出て行ってしまった……とか。
最低だ。いやらしい。そんなの、体だけが目当てだったんじゃないか。
初めての夜のあとにそんなことを言ってのける男なんて、かえしを入れ忘れたラーメンを出されてしまえばいいのに。味玉の黄身がパサパサになってしまえばいいのに。メンマが歯に挟まって一日中取れなくなってしまえばいいのに。啜った勢いで台湾ラーメンのスープが気管に入って咽せてしまえばいいのに。ついでに鼻の奥に挽肉が入ってしまえばいいのに。
百歩譲って、どうせいたしてしまったのだとしたら、やっぱり彼の胸で目覚めたかった。
……何だか涙が出てきちゃった。だって女の子だもん。
大きく息を吸って、恐るおそるドアポストの郵便受けをのぞく。
鍵はない。
ハァッと大きく息を吐き出したけれども……何だろう、どうにもスッキリしないこの複雑な気持ちは。
よかったのか、よくなかったのか。
でも、じゃああの脳裏にチラついた白湯スープのような濃度の高いシーンは?
そうだ、佐伯さんに聞け……っこないじゃない、こんなこと。何を言われるか。何を広められるか。どんな恐ろしい尋問が待っているか。覚えていないんだけれども。
もちろん泉くんにだって聞けない。
第一、たとえ聞いたとして、どうやって聞くの?
「ねえ、泉くん? 昨日、私何かした?」とか? ……絶対に聞きたくない。知りたくない。
じゃあ、鎌をかけてみる、とか?
「なな屋のあと、楽しかったね?」なんてなんて? 怖っ! 無理無理無理っ!
「そうだね、とってもよかったよ」なんて言われた日には悶絶してその場でのたうち回ること必至だし、「は? 何調子に乗ってんの?」なんて冷たくあしらわれたら彼の肩に幻の左ストレートをお見舞いすることになる。
ああああああ、今日はてんやわん屋の朝ラーだから、いつまでも悶々としている場合じゃないのに。
でも、ある意味よかったのかもしれない。いつも通りの時間にてんやわん屋へ行っていたら、間違いなく泉くんと鉢合わせしていたから。
今からシャワーを浴びて準備をしても出かけるのは七時すぎになる。しかも、天気が天気なのでスクーターでてんやわん屋まで行きたくない。だから、必然的に電車と歩きになる。
どんなに急いでもてんやわん屋へ着くのは八時半すぎだ。その頃には、毎週ファーストロットを陣取る朝ラー常連のフォロワーさん達はもう誰もいない。もちろん泉くんだって。
彼はファーストロットの中でもさらにトップクラスに早いから。毎週一番か、遅くても三番目に座っている。
でも念のため、ゆっくりシャワーと浴びてのんびり出かける準備をしよう。
泉くんとバッタリする可能性がなきにしもあらずだけれども、てんやわん屋へ行かないという選択肢はないから。今日の朝ラーは、私にとって初めての油そばなんだ。
どうせ今ここであやふやな記憶を追いかけたところで埒が明かないし、美味しいものを食べて忘れるに限る。
彼の胸に埋まるとか、腰を抱かれて引き寄せられるとか、よしよしされるとか、ギュッてされるとか、スプリングさんだって……スプリングさん?
『僕はスプリングです……』
え!? 今の、何? 泉くんの声が脳裏に蘇る。まるで耳元で囁かれるように、遠くから叫ばれるように。
泉くんが、師匠さんを悪者にしようとしたスプリングさん?
これは現実? それとも、夢? わからない、わからないわからないわからない。
予定変更だ。ちょっと急ごう。
逃げてる場合じゃない。ハッキリさせなきゃいけないことだってあるんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます