第九章 炭火オイルの黒豚背脂スタミナ油そば
第43話 タクシーの向かう先
「鶏清湯は鶏ガラを約80℃の低温でじっくりと寸胴で炊き上げ濁らせずに仕上げたスープのことを言いますけど、それは小麦さんもご存じですよね?」
「うん、でもここの鶏清湯は違うって、さっき泉くんが言ったでしょ?」
確かに言った。私の説明は合っているけれども、なな屋の鶏清湯は違うって。
「実際にどうでした?」
「どう言ったらいいのかよくわからないんだけど、旨味が深いって言うか広いって言うか澄んでいるって言うか……ごめん、自分でも何言ってるかわからないや」
所詮は素人舌。私はラーメン屋になりたいわけじゃなくて、美味しいラーメンを食べたいただの客だ。清湯をベースに何の出汁にかえしが何でとかまでわからない。
「鶏清湯は通常鶏ガラを炊き上げますけど、なな屋の鶏清湯は鶏ガラを一切使っていません」
「はい? え、鶏ガラを使わないって、じゃあ……」
「鶏肉だけをじっくり炊き上げ仕上げたスープがなな屋の鶏清湯なんです。しかも、使う肉はここの看板商品――あの天草大王です」
鶏ガラじゃなくて普段は料理として出す肉の部分だけで炊き上げたスープだなんて。そうか、スープを炊くときに使ったお肉に調味料をなじませたのがあのロールチャーシューなのか。お肉がホロホロだった理由はそれか。納得。
「だからあんなにも純粋な鶏のスープって感じがしたんだね。これも鶏肉のプロのなせる技ってことか。ラーメンって本当に奥が深い……」
あれ?
――泉くん?
――――佐伯さん?
遠くでふたりの話し声が聞こえる。私をのけ者にして、とっても楽しそうに……
泉くん、佐伯さんと何を話してるの? ついさっきまで私とラーメンの話しをしていたのに。
どこにいるの? ふたりとも、どこに行ったの?
泉くん! 佐伯さん! 泉くん、泉くん泉くん泉くん……
私、美味しいラーメンをたくさん食べたんだよ。
全部、泉くんが知っているラーメンばかりかもしれないけれども、ひとりで色んなお店を探したんだから。
泉くんの知らない美味しいラーメンはまた見つけていないけれども、絶対に見つけるから。待っててよ、見つけてやるんだから。
ピオッターで麺友さんもたくさんできたんだ。
ラーメンを食べに行くとね、いつも誰かに会ったりすれ違ったりするんだよ。泉くんに会ったときみたいに。だから面白くって。
みんなとっても親切で色々教えてくれるんだよ。
泉くんだって知ってるよね? ピオッター、やっているんでしょ?
泉くんのピオッターアカウントは営業中……
温かい……やさしい温もりと小さな揺れがまるでゆりかごのようで心地いい。
え――っと、私はなにをしていたんだっけ?
……あ、そうだ、なな屋で泉くんと佐伯さんととっても美味しい鶏清湯を食べて、ラーメンの話しで盛り上がっちゃって。それから……それから?
ここは……どこ? んっ……眩しい……
そう思ったのは、赤や緑の煌びやかなネオンが窓から直で私の顔を照らしていたからだった。すぐに小さな揺れが体を包み込む。
……車、に乗って、いる?
えっと……後部座席の窓をスクリーンに、光の軌跡を描いて流れていく景色。
透明ビニールのカーテン越しみ見る、斜め前の運転席に座っている人は黒いスーツ――制服を着たおじさん。だと思う。窓からの明かりでビニールが乱反射してよく見えない。でもわかったことがひとつ。私はタクシーに乗っている。
「小麦さん、大丈夫ですか?」
私の後ろの温もりから聞こえてくる耳に馴染んだ声。
胸に染みる声。不安が和らぐ声。
「泉――くん?」
振り返ろうとして、慌てて体を起こす。
右肩から背中にかけて感じていた温もりが泉くんのものだったとすると、私は彼に寄りかかって眠っていたことになる。
恥ずかしい。最近ちょっと――ちょっとだけ体重が増え気味だったから。
「ごごご、ごめんなさい。重くなかった?」
後部座席の窓から差し込む明かりだけの薄暗い車内で、泉くんは目を細めてとってもやわらかい笑みを浮かべた。
「軽いもんですよ、小麦さんは小柄なので」
「えっ!?」
泉くんが私の腕を引く。私の頭がポスンと泉くんの胸に納まる。
え、何? 何なの? これは夢? 何がどうしてこうなったの?
頭を埋め尽くすあらゆる疑問と『?』マーク。それなのに、わたしの体はそこから動くことを拒絶している。
温かくて、やわらかくて、気持ちがいい……っ!?
泉くんが私の腰に手を回してグイッと自分に引き寄せる。
ちょっ……え? あっ……こんなの誰かに見られたら……私達以外は運転手さんしかいないか。でも……離れなきゃいけない理由は、ない。離さなきゃいけない理由も、離れたくも、ない。
「小麦さんに聞こうと思っていたんですけど、僕のおかげでラーメン嫌いじゃなくなったって本当ですか?」
「…………うん」
もう、いいや。どうせ私が眠ってしまっているときに、佐伯さんに聞いたんだろう。別にそれを泉くんに知られたところで何の問題もない。
泉くんの心臓の音が聞こえる。トクン、トクンと落ち着くリズムを刻んでいる。
私の手が自然と泉くんの体を抱き締める。自然と、じゃない。私の意志だ。
泉くんの体に回した手に力を込める。滲み、混ざり、溶け合ってしまうくらい、強く。
「ねえ、清水さんは、泉くんの何? ただの同期なの?」
聞いてしまった。こんなこと、私が聞いていいことではないのだけれども、思わず。だって、泉くんはこんな私を拒んでいないから。
泉くんの大きな右手が、私の頭を優しく撫でる。
流れる髪に沿ってゆっくりと、時に艶めかしく動く指先を髪に絡め、くすぐるように耳を指先で摘まみ、私の頭を包み込むように抱えたかと思うとフッと自分の顔を寄せてくる。
私の首筋を泉くんの熱い吐息が這い回る。
「小麦さんは僕の何ですか?」
ズルい。
出会った頃は高校生で、私の元彼のように間違ったことをする人に真っ直ぐ意見を言えるような子で、そんな泉くんに年上の私が手玉に取られているような気がする。
でも、私の心がそれを喜んでいる。
「私は泉くんの、何だろうね?」
何だろう、この甘さは。身悶えしたくなってくる。このまま泉くんの胸に顔を擦りつけてジタジタと。私はこんなことを言う女じゃなかったはず。まるで夢でも見ているようだ。
タクシーの後部座席だからまだこの程度で済んでいるのかもしれない。
これ以上はダメだ。早く家に着かないと、私の理性が危ない。私ってこんなに肉食だったっけ?
……ちょっと待って? このタクシーはどこに向かっているの? まさかホテ……
すると、タクシーが止まってドアが開いた。
暗闇の中に見えたのは、僅かな街灯に照らされた私のアパートだった。
ホッと胸を撫でおろしタクシーを降りると、会計を済ませた泉くんも一緒に降りてくる。
え……何、で?
泉くんが私の肩に手を置く。壊れ物を扱うようにとても優しく。
この先の一歩を拒む理由も意志も、私には微塵もなかった。
「今ならまだ戻れますよ、フラワーさん?」
「えっ!?」
なんで泉くんが私のピオッターのアカウント名を!?
いや、知っていてもおかしくはない。泉くんがピオッターをやっていれば。
私は泉くんだけにはバレてもいいつもりで小麦の英語読みからフラワーって名前にしたんだから。
泉くんなら――彼なら私に気づいてくれる。そう思ったから。
問題は、泉くんが誰か、だ。
「知ってたんだね。泉くんは営……」
「スプリングです」
「え!?」
「僕はスプリングです……」
「嘘……」
泉くんが私を包み込むように抱き締めてくる。片手は腰に、もう一方は頭に、まるでそのままひとつになってしまうくらい、きつく、きつく……
泉くんが、スプリングさん? 営業中師範さんをセクハラ扱いした、あのスプリング、さん?
「小麦さん、ごめんなさい。僕は嫉妬した。営業中師範に君を取られたくなかったんだ。だからあんなDMを……」
そんな……そんなことしなくったって、私は泉くんのことを……
泉くんの胸に手を添えて顔を上げる。
泉くんの顔がすぐそこにある。絡まる息がお互いの頬を撫でるくらいの距離に。
私はすべてを彼に委ねるようにゆくりと目を閉じて……
ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ……
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