第40話 普通のこと

「すいませーん、レモン酎ハイお願いしまーす!」

「ちょっと、打木ちゃんまだ飲むの!?」

 カウンター席の右隣に座った佐伯さんが、店員さんを呼ぶ私の手をおろそうとする。

「えー、だってぇ、もうイヤなお酒じゃないから大丈夫だよー」

 はお開きになった。

 颯爽と現れた泉くんが注意をしてくれたことで、他の子たちと盛り上がっていた男性陣が私達に気づいて、酔っ払った早川さんを引き離し丁重に謝ってくれた。

 早川さんは「俺は打木ちゃんとラーメンを食べに行くんだー!」と子供のようにイヤイヤしながら、結局名前も覚えられなかった他の男性達に引きずられていった。

 本当に勘弁してほしい。ラーメンは、好きな人と一緒に食べるべきだ。

 半分ほどお酒が残ったグラスを両手で持ったまま、チラッと左隣を見る。

 焼き鳥屋のカウンターでビールを飲みながら小皿の――あれは何だろう? ホルモンかな? あ、違う、鶏皮ネギポン酢だ。メニューに書いてあった。

 ラーメン以外のものを食べる泉くんなんてレアだ。

 ……あ、別に泉くんが好きとかじゃなくて、ラーメンはラーメン好きな人と一緒に食べるべきで……泉くんもラーメン好きだけれども。なんなら私よりもずっと。そうじゃなくて、ラーメンは……もういいや、お酒が美味しいし。

「何ですか?」

 泉くんがグラスを持ったまま、気持ち体を斜めに私の方へ視線を向ける。ビールのグラスから落ちた水滴が黒塗りされた木製のカウンターを濡らす。

「あ、や、泉くんってラーメン以外も食べるんだなぁって」

「……人を何だと思っているんですか?」

「え、ラーメン好きっ! と言うか、むしろラーメン?」

「ブハッ、何で疑問形? それじゃあ共食いじゃないですか!」

 危うく飲みかけのビールを吹き出しそうになり、ケホケホとむせながらも泉くんの顔は笑っていた。

 共食い……うん、そうだ。ん、そう? ラーメンがラーメンを食べてラーメン好きの……よくわからないけど、楽しい!

「ちょっ、ほら、こぼすから! 普段そんなに飲んだりしないのに」

 佐伯さんが私の手元にあるグラスをカウンターの奥に遠ざける。まるでお母さんだ。こんなに美人のお母さんがいたらきっと最高の人生だ。勝ち組。

「えー、だってぇ。佐伯さんも聞いてたでしょ? あの人ラーメン好きとか言いながら、絶対にラーメンをバカにしてたじゃん!」

 佐伯さんが遠ざけたグラスに手をのばし、残ったお酒をグイッと飲み干した。

 今思い出しても腹が立つ。泉くんがあとちょっと来るのが遅かったら、私の幻の左をくらわせてやるところだった。

「そんなもんですよ」

「はあ?」

 何で泉くんがそんなことを言うのよ。私よりもずっとラーメンが好きなのに。好きなものをバカにされたら誰だって怒るんじゃないの?

 泉くんは片目を細めて、呆れたように肩を竦める。

「だってそうでしょ? 小麦さんだって、ラーメン嫌いだった頃はどうでした? 金額まではわからなくても、ラーメン屋に並ぶなんておかしいとか、あんな健康に悪いもの食べてとか、思っていたんじゃないですか?」

「う……」

 思っていた、かも。ううん、思っていた。いや、私の場合はもっと酷いかも。ラーメンが嫌いだった頃は、私の生活にはラーメンの影も形もなかったんだから。

「僕たちみたいなラーメン好きとそうじゃない人達との価値観の差は埋められないんですよ。いくら僕らが説明したってね。実際に食べて、心の底から美味しいって感じない限り。味覚だって人それぞれですし。小麦さんならもうわかるんじゃないですか?」

 早川さんは私と同じだったのか。ラーメンを軽く見ていた私と。

 早川さんはラーメン嫌いというわけではない。好きだと言っていた。でもそれはという意味での好きであって、他の食べ物よりもずっと好きというわけではない。だから、だ。ラーメンを軽く見る。

 ラーメンは簡単に食べられるもの、体によくないもの、そこそこ美味しいもの、高価であってはいけないもの。

 一杯のラーメンの美味しさを知らない人が多い。ラーメンに感動したことがない人が多い。ラーメンが凄いものだって思っていない人が多い。

 こんなにも、日本はラーメン屋だらけなのに。

「でもでも、だからってあんな言い方……」

「あれでも彼はラーメンを貶しているわけじゃないんですよ。ラーメンをそういう食べ物だと思っているだけで。酔っ払ってはいたかもしれませんが、それが彼の当たり前なんです。なんですよ。そういう人達は結構いますから。いちいち怒っていたらきりがないです」

 カウンターの向こう側――調理場の強い明かりが泉くんの顔を照らしていた。

 泉くんは真っ直ぐどこか遠くを見ているようだった。

 泉くんの言っていることはわかる。だからと言って割り切れるものでもない。私はそんなに物わかりよく生きてきていない。

 ちょっと考え込んで、手元の空いたグラスに目を落とす。

 私の視界の端っこで、佐伯さんが体を傾け泉くんの顔をのぞき込む。

「まだ若いのにイヤに悟っちゃってるのね? 打木ちゃんがラーメン嫌いになった頃からだから、五年以上ラーメンを食べてきてたんでしょ? その間さっきみたいなこといっぱい言われてきたのかもしれないけど、だからってねぇ。気持ちは納得しないんじゃない?」

「納得なんてしていないですよ」

 泉くんが鶏皮を箸で摘まんで口に放り込む。そして、グラスに残ったビールを空にした。

「ですけど、人の考えは僕にはどうすることもできないですからね。だから、自分が胸を張れればそれでいいんじゃないですか? 誰に何と言われても、ラーメンが好きって言えるから。人は、人ですよ」

 そう言って泉くんは、口を尖らせていた私を見て目を細めた。自信に満ちた顔で。

 ちょうどいいタイミングで、店員さんが追加の酎ハイを持ってきてくれる。

 私は大きく喉を鳴らしてそれを飲んで、思いっきり息を吐き出した。胸にたまったイライラを吹き飛ばすように。

「そうだね。泉くんの言う通りだ。でももう、さっきはどれだけ言い返してやろうって思ったか。すっごく我慢したんだから、褒めてよー」

「だって。泉くん褒めてあげたら?」

「え、どんな流れ弾ですか!?」

 泉くんの方へ頭を向ける。ねだるように小さく首を振る。

 今の私は、何となく頭をよしよししてほしい気分なんだ。

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