第四章 アサリの塩そば
第14話 私、ピオッター始めます!
お腹いっぱい、満足感いっぱいで部屋に帰り、なにをやるよりも前にノートパソコンを開いて起動スイッチを押す。
繁忙期はこんなルーティーンもよくあるけれども、今日は仕事が忙しいわけじゃない。
アカウント名――ウッツー。私が大学生の時に作ったピオッターのアカウントだ。
インターネットの向こうにいる顔の見えない誰かに向かって何かを呟く気になれなくて、当時から見るだけ専用でろくに使わず今ではずっと放置したままだった。
ピオッター――確かスペイン人だかのプログラマーが開発した『呟く人々』の造語からきた今一番アカウント登録者数が多いSNSだ。他にもアウトプットとかフェイスVみたいなSNSはあるけれども、気軽にちょこっと使うだけでも一番扱いやすいSNS、らしい。私はピオッターのアカウントしか持っていないからほかのSNSはよくわからないけれども。
立ち上げたブラウザでピオッターを読み込みログイン画面から……よかった、できた。パスワードが合っていてよかった。何年も放置していたアカウントだから新しく作りなおしてもいいのだけれども、新規登録するにもメールアドレスの普段使わないパスワードを確認したり色々と面倒臭いから、このまま使えるならその方がいいと思った。それなのに……
ピオッターにログインして最初に出てきた画面を見た瞬間、咄嗟にアカウントを削除してしまった。微塵の躊躇もなかった。
そうだった。大学生の時に作ったアカウントだから元彼と繋がったままだった。チラッと見ただけだけれども、本名とラーメン好きなのをかけたあのアカウント名は忘れもしない。『ラーくん』というアカウント名は。
結局元のアカウントを削除してしまったけれども、またピオッターをやるということは元彼のいる場所に自ら飛び込むということになるのか……やっぱりヤメようかな? でも……
ペチペチッと両手で顔を張る。
泉くんくらいになろうなんて思っているわけではないけれども、私はたくさんのお店の色々なラーメンをもっと食べて回りたい。そんなことをやっていれば、いずれどこかのラーメン屋で元彼とバッティングすることだってあるかもしれない。この間のように。それがイヤならラーメンを食べ歩くことをヤメるしかない。
そんなこと、今の私にできる? ラーメンの美味しさを知ってしまった私に、できる?
いつまでもあの頃の、元彼のせいでラーメン嫌いになっていた頃の、私じゃない。
こんなにも美味しいものを、元彼のせいで食べられなくなっていた私じゃダメなんだ。
今の私がやることは……
取りあえずキッチンでコーヒーを入れてくる。コーヒーメーカーで、粗挽きしたお気に入りのコーヒー豆を使って。
新しい気持ちになって、新しい私のピオッターアカウントを作るんだ。ラーメンを食べ歩く専用のアカウントを。私は生まれ変わったんだ。
ピオッターをやることくらい、どうってことない。
青流でラーメンを食べ終えたあと、佐伯さんが私に教えてくれたんだ。
「私はラーメンにあまり詳しくはないけど、ピオッターにもラーメン屋の公式アカウントとかあるよ。レストランとかカフェ公式アカウントもあるんだから。ネットで闇雲に調べるよりもSNSの方が情報がリアルで多いと思う。ラーメン好きのアカウントだってたくさんあるし」
佐伯さんがスマホで見せてくれたのは、青流の公式アカウントだった。
ずっと使っていなかったからSNSで調べるという頭はなかった。盲点だった。
今まで検索エンジン――ゴーグルや、食べランの店情報や口コミしか見てこなかった。だから、いくら調べてもわからないことが多かった。一番重要なリアルタイムの情報が。
土曜日に行った二軒目のラーメン屋は二時半に着いた時、もうお店が終わっていた。これはちゃんとお店情報を確認しなかった私のせいなんだけれども、ラーメンと言えばチェーン店というイメージが強かった私には、お昼から夜までずっとお店がやっているものだと思い込んでいた。
あとになって知ったけれども、そんなお店はチェーン店くらいで、個人のラーメン屋はお昼の営業が終わったら一旦お店を閉めるのが当たり前だった。それどころか、よくよく調べると、お昼しかやっていないお店もあれば、夜しかやっていないお店もあった。
ここまではゴーグルで検索して営業時間をちゃんと調べていれば問題ない。けれども、調べただけじゃどうしようもないことがあった。それが、臨時休業だ。
日曜日に行ったお店がそうだった。土曜日の反省を踏まえて場所を調べメニューを調べ、営業時間を何度も確認してお昼に行ったら、シャッターに臨時休業の貼り紙が貼られていた。こんなリアルタイムの情報は、ゴーグルや食べランをいくら調べたところでどこにも書いていない。そんなリアルタイムの情報こそ、ピオッターの公式アカウントだったり、ラーメン好きの人達のアカウントで情報を仕入れないといけない。
無駄がなく、円滑に、快適に、ラーメンを食べ歩きたいのなら、リアルタイムの情報が大切だ。
佐伯さんに教えてもらった青流のアカウントを確認すると、昨晩鮎のメニューが上がっていた。だから佐伯さんは私と行くラーメン屋に青流を選んだ。私のことがなくても、あのラーメンを狙っていたのかもしれない。
それを聞いて、自分でもピオッターを使ってみようと思った。アカウントを初めて取った大学生の頃はただ友達や元彼の呟きを眺めているだけだったピオッターに、こんなにも有益な使い道があるなんて思ってもみなかった。
ピオッターを上手く使いこなせれば、泉くんがラーメン屋を教えてくれない、なんて人を当てにしなくても済む。あれだけ大見得切っておいて、結局自分では美味しいラーメン屋を見つけられませんでした、じゃあ恥ずかしくて泉くんに合わせる顔がない。まあ、会社で会うことも滅多にないんだけれども。
ラーメンを食べたい。
美味しいラーメンに出会いたい。だから私は……
パソコンのキーボードを叩く音に重なって聞こえたフフッという笑い声が自分の声だと気づいてさらに可笑しくなった。
生活が一変するなんて経験はそうそうあるものじゃない。それはまだ一週間も経っていない、つい四日前の出来事だ。二度と口にしたくないくらい不味かったと五年間も思い込んでいたラーメンが、実は箸が止まらなくなるくらい美味しいラーメンだったなんて。
あの日食べた、体中にじんわり染みるラーメンの味は絶対に忘れない。
カタカタと打鍵音だけが私ひとりの部屋でリズミカルに漂う。
エンターキーを押して、新規登録にカーソルを合わせ、ピオッター登録完了。
ラーメン嫌いから心機一転、ラーメン好きになった新しい私の新しいアカウント名はフラワー。花じゃなくて、小麦の英語読みだ。これならたとえ元彼にアカウントが見つかったとしても私だってバレたりしない。いや、この先ラーメンの食べ歩きをすればいずれバレる日がくるだろう。その覚悟はできている。けれども、最初から簡単に元彼にバレるような活動はしたくはない。私が元彼とよりを戻したくてラーメンの食べ歩きをしているなんて間違っても思われたくないから。
よしっ、それじゃあ活動開始だ。
まずは行きたいラーメン屋を調べて、と。小牧、春日井、瀬戸、名古屋くらいかな? 移動手段は電車かスクーターだからもう少し広げてもいいかも。あとは、そのお店がピオッターのアカウントを持っていたら……あった。フォロー、フォロー。
私が行ったラーメン屋の画像をあげているユーザーを検索して、ラーメンの活動しているアカウントもフォローして。
よしっ、まだこの先フォローを増やすとしても、これでかなり情報を得やすくなったはずだ。
ちょっと、泉くんに自慢したい気分。あ、年間四百杯食べる泉くんだって、情報を仕入れているはずだからピオッターのアカウントを持っているかも。
今度、聞いてみようかな?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます