第三章 (特)鮎焼干しそば

第11話 只今絶賛気持ち悪い

 出社してからずっと体がだるい月曜日。うううっ、胃が重たい。

 部署内の賑やかさがお昼の訪れを教えてくれる頃、私はさっきまで広げていた企画書を端に追いやって、冷たいデスクに突っ伏した。

 私、調子にのりました。ラーメンを食べられるようになったからって、大嫌いだった五年分を一気に埋めるつもりで土日はラーメンを食べまくった。

 その数、深夜のインスタント&カップ麺を足したら九杯――あ、今朝のコンビニで買ったレンチン麺を入れたら十杯だ。ラーメンに払った金額は二日間で……口にできない。自分でも怖くて。別に無理して食べたわけじゃないんだけれども、これじゃあ今度は違う意味でラーメンが嫌いになりそう。

「打木ちゃん、ランチ行かない?」

 頭の上から降ってくる艶のある声は佐伯さんだ。見なくてもわかる。不公平だ。容姿だけじゃなくて声まで美人なんて。天は佐伯さんに何物も与えすぎだ。

 ふっと顔をあげると、佐伯さんが長い髪を横に流し私をのぞき込んでいた。思いの外、近くてビックリした。お肌のきめ細かさがまた恨めしい。欠点はないのかこの人は?

「ごめん、今日はちょっと、本当に軽く済ませるから」

 むしろ今は食べたくない。コンビニに行くのも億劫だ。

「え、すごい顔色だけど大丈夫? 土日で風邪でも引いた?」

「ううん、そうじゃなくて……」

「あれ?」

「違う……」

 私は毎月こんな風になっているつもりはない、と思う、たぶん。

「じゃあ、帰りになにか飲み物でも買ってこようか?」

 佐伯さんの眉根がさがる。なんだかとっても心配されているけれども、ただラーメンを食べすぎたってだけだ。心配されることでもない。むしろ、心配かけてごめんなさい。全部、自業自得です。

「ありがとう。お茶を持ってきてるから大丈夫。でもそんなに心配しなくていいよ。ただの食べすぎだから」

「なーんだ、心配して損した」

 佐伯さんは一瞬目を丸くすると、すぐに均整の取れた顔をクシャッと歪めて笑った。いつもの色気のある美人顔が一瞬で愛くるしく変わる。こんなの男の人じゃなくても惚れる。

 同期グループの中心的な子で仕事も私よりずっとできるし、気さくで世話焼きで何事も丁寧で、自分の優れた容姿を120%魅せる努力を怠っていないのに、決して男の人に媚びるような態度を取らないから、女性からも人気が高い。

 入社してすぐからの付き合いだけれども、本当にいい子。こんな子を放っておく男性諸君、しっかりして! 佐伯さんが言い寄ってくる男の人たちにまったく見向きもしないんだけれども。

 デスクの下に置いてあった手提げからエンジ色の水筒を取り出しコクリとひとくち喉を鳴らす。

 ハァと一息、爽やかなダージリンの香りがすうっと鼻に抜ける。具合が悪かったのが落ち着いてくる。

「ごめんね、ちょっと土日でラーメン食べすぎちゃって……」

 ポロッとこぼした拍子に、いきなり佐伯さんに両肩を捕まれる。彼女の目がこぼれ落ちそうなくらいでカッと見開かれている。そのさくら貝のような艶やかな唇がプルプルと震えている。

「え、ちょっ、打木ちゃん? それ、どういう、こと? ラーメン嫌いだって聞いたの金曜日だった、よね?」

「あ、うん、まあ……」

 みんなから根掘り葉掘り質問攻めになったあのあと、色々あったんだよ。そんなお化けでも見るような目で見られても……ラーメンが大嫌いだと言った舌の根も乾かないうちに今度は食べすぎましたなんて、佐伯さんじゃなくても自分の耳を疑う。

「みんなっ! 打木ちゃんがラーメンを食べたんだって!」

「ちょっとやめてよ、そんな大声で…」

 企画課にいた何人もの人たちが一斉にこっちを振り返る。いくらお昼時で賑やかだと言っても、まさかみんなの前でこんなに大声出すとは思わなかった。

 周りの好奇の視線にさらされて、佐伯さんがおどけたように肩を竦めペロッと舌を出す。こういうことろだよ、佐伯さんが人気なのは。美人だけど取っつきやすくて気取っていないって。肩を竦めたいのはこっちなんだけれども。ラーメンを食べたくらいで大げさな。穴があったら入りたい。

 自分でも変わり身が早すぎる、とは思った。大げさだなんて言えるのも、ラーメンを美味しいと思った今だからだ。私は五年間本当にラーメンが大嫌いだったのだから。それも今となってはバカバカしい。元彼が最低な男だったと言うだけで、こんなにも美味しい物が五年間も食べられなかったなんて。元彼を恨んでも恨みきれない。

 初めての彼氏で、自信満々に話すところがカッコいいだなんて思ってしまって、強気な彼に言いくるめられてしまうこともしばしば。でもそれもまた素敵、だなんて、本当にバカみたい。それなのに、別れて何年も経っているのに目の前に現れただけで足がすくんで動けなくなってしまう女だよ、私は。

 この土日は、オススメのお店を教えてくれない泉くんに対する対抗心と、純粋に美味しいラーメンが食べたいという好奇心と、私の五年間を無駄にした元彼に対する反発心で、ラーメンを食べすぎてしまった。さすがに二日間で十杯は多すぎだ。

 キャァキャァと甲高い声をあげながら同僚が集まってくる。佐伯さんを筆頭に、私を含む企画課仲よし五人組だ。佐伯さんが今日のランチに声をかけていたんだろう。

「えー、また尋問するの?」

 ヤメて。虫も殺せないようなゆるふわな富家とみいえちゃんがそんな言葉を使うのは。

「打木ちゃん、なんの心境の変化?」

 食べたんだよ。美味しかったんだよ。成瀬さんの言う通りだったんだよ。

「まるで親の敵のようにラーメンを嫌っていたのに」

 さすがにそこまでは嫌って…………いたかな? ごめんなさい、山浦やまうらさん。五年という長い年月を経てやっと気づきました。私が嫌っていたのはラーメンじゃなく元彼だったということを。

「じゃあ今日の終業後も……」

「あ、ごめん。今日は用事が」

「さすがに月曜からは……」

「月曜日は料理教室があるから……」

 誘いをことごとく断られ、佐伯さんは不満げにプクッと頬をふくらませた。

 ちょっ、みんなに断られたのに、なんでそんなすがるような目で私を見てくるのよ。聞いてたよね? ラーメンを食べすぎたって。ダメだってそんな目をしたって……

「わかった、わかったからその目をヤメて。佐伯さんがその目をしたら、男の人なんてイチコロじゃない? たぶん、人生投げ打って佐伯さんについてくるよ、きっと……」

「うん、そうだね……」

 フッと陰りのある笑みを浮かべてどこか遠くを見つめる佐伯さん。ちょっと怖くなって、これ以上踏み込んで聞けない。

「でも、体調がよくなったら、でいい?」

「もちろん、そこまで無理強いはしないよ」

 パッと破顔する佐伯さんを見て、無理強いはしている自覚はあるんだと背筋に冷たいものが走った。

 美人ってその容姿で色々なことを手玉にとってきていそう。あくまで私のイメージだけれども。何かと過去を持っているのかも。私みたいな平々凡々な女が体験し得ないようなことを。

 いつか佐伯さんの過去も……聞きたいような聞きたくないような。

「体調がよくなったらどこに行きたい? この流れでお酒はイヤでしょ?」

「そうだね、じゃあ折角だから佐伯さんオススメのラーメン屋で」

 一瞬、目を丸くさせた佐伯さんは、すぐにスマホで何かを調べ始めたかと思うとパァッと破顔した。

「打木ちゃん、魚食べたくない?」

「魚? 私はラーメン屋に行きたいって言ったんだよ?」

 佐伯さんが不敵な笑みを浮かべる。悪い顔をしている。何かを企んでいそうな。

 いったい、どんなラーメン屋に連れて行かれるのやら。

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