第9話 とんこつラーメン全部のせ

 入り口から奥に長い長方形の店内はカウンター席のみで、お店の半分が何人もの店員さんが行き来する厨房になっている。

「いらっしゃいませー!」

 カラランとドアベルが鳴ると、食いぎみにひとりの女性店員さんが大きな声をあげた。それに続いて、次々と「いらっしゃいませ」の声が追いかける。

 すごく元気なお店だ。こんなに活気があれば来店するお客さんも気持ちがいいだろう。

 店内は食欲をそそるラーメンの美味しそうな香りでいっぱいだった。

 アパートからスクーターで出発して十分、三車線の大きな国道へ出てからさらに十五分ほど走ったところにあるとんこつラーメン屋。

 本当は昨日行ったお店まで行こうと思ったのだけれども、大きくラーメンの絵が描かれた看板を見かけたら美味しそうで思わず入ってしまった。

 ラーメン嫌いだった五年間はもちろん、それ以前の私でもとんこつラーメン屋に入った経験はない。とんこつラーメンを食べるのも今日が初めてだ。

 今や定番から時期的限定商品まで数え切れないほどの種類があるカップラーメン。それならばもしかしたら食べたことがあるのかもしれない。けれども、少なくともとんこつラーメンを食べた、という記憶は私の中にはない。それなのに、食べてみたいと思った。

 昨日の夜にラーメンを調べていて気づいたのだけれども、ラーメン嫌いだったせいなのか、どうやら私にはラーメンのジャンルにこだわりがないみたいだ。

 どの写真を見ても、どのレビューを読んでも、美味しそうと思ってしまった。

 その結果の初とんこつラーメンだ。

 ちょうどお昼時だったせいもあって、カウンターのうしろ側、通路を挟んだ一面のガラス窓沿いにある中待ち席には二十人ぐらいのお客さんが肩を寄せ合いギュウギュウに並んで座っていた。

 昨日食べたの記念ラーメンは、私の意志とは関係なくあくまで泉くんのあとをつけてたどり着いたお店、というイレギュラーな来訪だ。けれどもこのお店は違う。

 私が食べたいなと思って、ひとりで入ったラーメン屋。そう、本当の意味でひとりでラーメン屋に入ったのは今日が生まれて初めてだ。

 ラーメン嫌いになる前だって、こんなことは一度もなかった。

 それまでは『女がひとりでラーメン屋に行くなんて恥ずかしい』と少なからず思っていたことは否めない。ラーメン屋に対してそんなイメージだった。

 でも、実際はどうだろう?

 昨日のお店は女性でも入りやすいオシャレな店構えだったし、今日のお店だっておひとり様の女性客がちらほら見える。

 あの給水器の隣で座っている女の人なんて絶対にひとりだ。順番を待っている間ずっと文庫の小説を読んでいるし、両隣の人たちはどう見ても家族でお店に来ている人たちだから。

 昔からそうなのか、私がラーメン嫌いだった五年間でそうなったのか、いつの間にかラーメンは女性にも市民権を得ていた。

 なんて、あまり他のお客さんをジロジロ見るのは失礼だ。そんな私はきっと周りから怪しい人だと思われる。けれども、ラーメン屋に来慣れていない私は、どうもお店の中で並んで待つというのが落ち着かない。

 なるべくキョロキョロしないように首に力を入れていても、目だけでグルリと店内を観察してしまう。

 ひとつも空いていない長いカウンター席に座るお客さんの背中を、中待ちの席で順番に見ていく。

 あそこは男の人ふたり組、かな? その隣は小学生くらいの女の子を挟んでお父さんとお母さん。私のお父さんくらいのスーツ姿のおじさん。客層は広い。

 夢中になってラーメンを食べるお客さんの正面には調味料の小瓶と『紅しょうが』とか『すりゴマ』、『辛高菜』と書かれた黒い壺型の器がそれぞれの席に並んでいる。

 カウンターの向こう側ではマスクをかけて白い服と帽子をかぶった店員さんが忙しそうに行き来している。

 待っているお客さんは、私の前に十二人、うしろに七人。あ、またお客さんが来た。高校生くらいの四人組の男の子たち。これで、私のうしろに十一人。混んでる。

 私はスクーターで来たからスムーズに入店できたけれども、もし車だったらとんでもないことになっていたに違いない。

 私がお店に着いたときには空きを待つ車で狭い駐車場がパズルゲームのようになっていた。おまけに国道から駐車場に入ろうとする車と出たい車がバッティングしてどちらも譲らず一触即発だった。外食に来たのにケンカなんてダメだよ。トラウマになるからね。

 お店に入ったときは並びがすごくて圧倒され出直そうかと思ったけれども、何も知らない私が今のラーメン情勢を知るにはもってこいだと待っていてよかった。

 お客さんの回転はかなり早い。

 私がお店に入ってすぐは二十人ぐらい並んでいたけど、ものの十五分であと五番目。これがファミレスとかだっから一時間以上は待たされる。

 さっきから見ていると、お客さんがイスに座ってから三分くらいで注文されたメニューが出てくる。そこから食べ終わるまでは十分以内として、席が、えっと……二十四席あるからどんどんお客さんがはけていくのも頷ける。

 あ、もう次の次だ。ちょっと年配の女性店員さんが私の食券を取りに来る。そうか、席が空く前から段取りをしていればそりゃあラーメンの提供が早いわけだ。すごいお店だ。

 麺の固さを聞かれたけれども、よくわからないからふつうにしておいた。

 ラーメン屋に行き慣れていない私は、入店時に食券を購入するのも一苦労だった。だって、食券機にはメニュー名が書いてあるだけで、それがどんなラーメンなのかわからなかったから。

 出かける前からこのお店に行く予定を立てていたら、スマホでいくらでもメニューを検索できたかもしれない。けれども、このお店に入ったのは刹那的だ。もちろん、お店に入った時はメニューもレビューもまだ調べていないし調べるヒマもなかった。

 それなのに入店してすぐに注文を決めなきゃいけないんだ。とんこつラーメン屋に初訪問の私が、だ。

 でも券売機の前で案内してくれた女性店員さんが親切にメニューの説明をしてくれたので、オススメのとんこつラーメン全部のせを頼んでみた。

 チャーハンや餃子のサイドメニューもあったけれども、今は完全にラーメンの口だったのでやめておいた。

 いよいよ私の順番だ。

 家を出てから一時間弱、お店に入ってから二十分で着席。あんなにお客さんが待っていたのに。

 店の入り口から一番奥の席に案内されて、薄いビニール袋に入ったお手拭きで丁寧に手をぬぐう。

 水は長い店内の両端に一台ずつある給水器でセルフ。

 席に座るとカウンターの向こう側で忙しそうに動き回る店員さんの姿がよく見える。

 カウンターの上に置かれた三角柱の広告には『替え玉100円、現金でも承ります』と書かれている。

 替え玉って何だろう? 私のラーメンの知識は赤ん坊並だ。

「お待たせいたしました、とんこつラーメン全部のせです」

 白い帽子にマスクをした男性店員さんがカウンターにどんぶりを置いた。

 どんぶりをおろすと、そこから漂ってくる独特ないい香りにゴクリと喉が鳴った。

 乳白色のスープから細い麺が見え隠れしている。

 大きなチャーシューに味付け玉子――味玉とキクラゲとメンマ。真ん中には細かく切られた小口ネギの山。どんぶりの縁に板海苔が添えられている。

 赤いレンゲでスープをすくいまずはひとくち……

「美味しっ!」

 思わず出てしまった自分の声にビックリして慌てて辺りを見回した。

 他のお客さんたちはみんな嬉しそうな顔で夢中になってラーメンをすすっている。私の声なんてたとえ聞こえてもまるで気にしないように。

 カウンターの向こうにいる店員さんと目が合うと、彼女は目を細めて小さく頭をさげた。

「ありがとうございます」

 他の店員さん達の元気な声で賑やかな店内でやっと聞こえた声だったけれども、それは私へのお礼の言葉だった。

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