第6話 特製淡麗醤油煮干らぁ麺

 ラーメンが嫌いだった。

 ラーメン屋に行くのも、ラーメンオタク――ラオタも、大嫌いだった。

 それなのに……

「どうぞ、淡麗醤油煮干らぁ麺の特製盛りです。器、熱いのでお気をつけください」

 トンッとカウンターに置かれたどんぶりを恐るおそる両手でおろすと、白い湯気と煮干しのいい香りが私の鼻先をふわりと撫でた。

 白いどんぶりにはキラキラ輝く澄んだ琥珀色のスープの海。その中に綺麗に折り畳まれた細麺が白波のように漂っていた。

 美しく飾られた味玉とメンマ、三枚のチャーシュー。その上に荒みじんにされたタマネギと豆苗。

 私はこくりと生唾を飲み込んでカウンターの向こう側にいる白いタオルを頭に巻いたおじさまに小さくおじぎすると、彼は目を細めてにこりと笑った。

 半透明のビニールに入ったお手拭きで手を丹念に拭いて、カウンターの手前に置かれた二段の小さな引き出しから黒い箸と白い陶器製のレンゲを取る。

 泉くんを追いかけてお店に入ってしまったけれども、ラーメンを食べるのなんて本当に久しぶりだ。

 前に食べたのは……元彼の醜く歪んだ顔が頭にちらつく。怒鳴り声が鮮明に耳に甦ってくる。胸に黒いものが込み上げてくる。

 元彼に会ってしまったからに違いない。そんな元彼は違法駐車で警察にドナドナされていった。それなのに、未だ私の胸にはモヤモヤが渦を巻いていた。

 トラウマを払拭するために覚悟を決めてお店に入ったのに。

 箸を持つ手が小刻みに震えてくる。額に嫌な汗が浮かんでくる。動悸で胸が痛い。心臓がいつもの二倍は早く動いている。息が苦しい。

 元彼とラーメンを食べたあの日、私はラーメンが大嫌いになった。

 けれども今は……ゴクリと息を飲んで一度大きく深呼吸すると、フワリと揺れる湯気をかき分けて、レンゲにすくったスープを恐るおそるひとくち飲んでみる。

「美味しい……」

 一口、そのたった一口で私は夢中になって麺をすすっていた。

 ツルツルしたストレートの細麺が、なんの抵抗もなくどんどん喉を滑り落ちていく。

 麺に絡んだスープが口の中に広がり、鼻の奥にフワッと魚介の風味が香る。

 ハフハフと熱いうちに麺を頬張りスープを飲み、グシュグシュと鼻をすすりながら食べた五年振りのラーメンは、ものの十分で完食完飲。スープの一滴も残さなかった。

 ハーッと大きく息をついて我に返った。

 美味しかった。あの日、どこかのラーメン屋で食べた以来のラーメンは。

 とっても、今まで食べたどんなラーメンよりも、美味しかった。

 バカみたい……

 私はあんなことのせいで、こんなに美味しいものを五年間も遠ざけてきたんだ。

 そう言えば……店内をこっそりと見回す。

 カウンター席が八席、二人がけのテーブルがふたつと四人がけのテーブルがひとつの小さな店内。

 ラーメン屋さんとは思えない木造のシックな店内に、泉くんの姿はない。

 顔を合わせないようにずっとうつ向いていたから、彼がどの席で食べていたのかも知らないままだった。

 でも……ホッと短い息をつく。よかった、最後までバレずに済んだ。

 あんな暴言を吐いておいて自分はこっそり泉くんのあとをつけてラーメンを食べに来ましたじゃあバツが悪すぎる。

 私は足下のカゴに入れてあったバッグを肩にかけ、カウンターの向こうで忙しなくラーメンを作る店主さんに頭をさげた。

「ごちそうさまでした。とっても――本当にとっても美味しかったです」

「ありがとうございます! ぜひまた来てください!」

 店主さんの元気な声と店内のいいにおいに後ろ髪を引かれながら、私は店を出た。

「どうでした? 美味しかったですか?」

 ビクッと肩を弾ませて振り返る。

 そこには腕を組んだ泉くんが、片目を細めて立っていた。

「あ……」

 慌てて泉くんから視線を反らすももう遅い。

 やっぱりバレてたんだ。

 当然だよね。自分が並んでるすぐそばであんなことがあれば。

 人目を気にした私は泉くんの手を引き店の裏の人気のない場所へ移動すると、深々と彼に頭をさげた。

「ごめんなさい……」

「なにが、ですか?」

 勢いよく顔をあげて泉くんを見ると、彼は驚いたように目を丸くして肩をすくめていた。

「え、だって私、ラーメンにも泉くんにもひどいこと言ったのに」

「別に気にしてませんよ。好き嫌いは誰にだってあるじゃないですか。小麦さんがラーメン嫌いだった、それだけでしょ?」

「違っ……」

 嫌いだった――ラーメンも、ラーメン屋へ行くのも、ラオタも。

 好きなラーメンをバカにされたら、ラオタじゃなくても目くじら立てて怒り散らすと思っていた。

 もし私がされた側だったらどうだろう? 絶対に怒り散らしている。間違いない。

 お店に並んでいた時の態度も、周りへの配慮も、泉くんの方がずっと上だ。

 私は今も昔も自分を守るだけで精一杯だったのに。

「私はラーメンが嫌いなんじゃ……うん? あれ? 泉くん、今私の名前を呼んだ?」

「あ、すみません、名字を知らないので」

 泉くんが少し顔を赤らめて視線を反らす。

 部署が違えど同じ会社なら、偶然名字を知ることだってあるかもしれない。現に私は泉くんを知っていた。でも、泉くんと話したのは今日のお昼が初めてだ。

 名字を知らないのに私の名前を知ってるって……

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