第一章 特製淡麗醤油煮干らぁ麺

第2話 ラーメンもラオタも大嫌い!

「おいっ、お前ら! 列から離れたならうしろに並び直せ!」

 突然の大きな声に、ビクッと肩を弾ませて首をすぼめる。

 辺りに響いたその怒声が彼の言葉だと気づいて、私は面を食らった。

 今まで見たことのない怖い顔で、彼は二組前に並んだ親子連れらしき三人をにらみつけていた。

 バイト先で出会って仲よくなったひとつ年上の彼とつき合い始めて二ヶ月目の頃。

 ずっと色恋に縁遠かった私に、大学生になってやっとできた初めての彼氏。

 その彼が無類のラーメン好き――ラオタだと知ったのはその日の数日前のことだった。

 私に引かれると思ってなかなか言い出せなかったらしい。

 カミングアウトしたあと彼は、堰を切ったようにラーメンについてアツく語ってくれた。

 あの店の出汁は三種類の煮干しを使っているとか、その店の麺は自家製じゃないとか、この店は店長が知り合いだからサービスしてもらえるとか。

 それまでラーメンなんて年に何回かしか食べに行かないからよくわからなかったけれども、熱っぽく話す彼を子供みたいで可愛いなんて思った。そのときは。

 そんな彼オススメのラーメン屋にデートで初めて連れてきてもらったというのに。

 まさか、こんなふうに怒鳴るような人だったなんて。

 小学校低学年くらいの女の子は、お母さんのうしろで服の裾をキュッと握り、怯えた目で彼をジッと見あげていた。

「ちょっ、急にどうしたのよ? 子供が怖がってるじゃない」

「素人の小麦こむぎちゃんは黙っててくれるかな。ラーメン屋にはってもんがあるんだから」

 彼は舌打ちをして「子供なんかラーメン屋に連れてくんじゃねぇよ!」と吐き捨てた。

 ラーメンを食べるのに素人や玄人があるなんて聞いたことがない。それにお店に子供を連れてくるな、なんて。

 彼に同意するように何人かの人たちが頷いていたけれども、これが彼と同じラオタと呼ばれる人たちなんだとしたら、私はその神経を疑う。

 女の子のお母さんとお父さんは申し訳なさそうに、周りの人たちに何度も何度も頭をさげていた。

 僅か数人の同意を得て鼻高々に胸を張る彼の周りで大多数の人たちが首を傾げ、私たちから少し距離を取りいぶかしげな視線を向けていた。

 初老の男性も、大学生くらいのカップルも、親子連れも、みんながみんな。

 私は恥ずかしくて恥ずかしくて顔から火が出そうだった。

「あの……」

 私たちのすぐ前に並んでいたブレザー姿にメガネをかけた高校生っぽい男の子が、肩をすくませおずおずと振り返った。

「この家族なんだけど、子どもをトイレに連れて行くって、お母さんが僕に断っていったからなにも……」

「あ? 外野は黙ってろ! そういう問題じゃねぇんだよ!」

 彼が威嚇するように男の子の前に詰め寄る。

 男の子は小さなため息をついて肩をすくめた。それが逆鱗に触れたのか、彼が男の子の肩を強く押す。その拍子に男の子はよろけて尻もちをついてしまった。

「何をやってるんだ、店に迷惑をかけるような真似はやめんか!」

 初老の男性が騒ぎを止めようと彼の肩に手をかける。その途端、彼はその手を乱暴に払いのけた。

「うるせぇ! 俺はここの大将が独立する前の店からの常連だぞ!」

「知らんわ! いい加減にしないか大人げない!」

「あ? ジジイは黙ってろ!」

「もうやめてっ!」

 私は倒れた男の子に駆け寄って手を差しのべた。

「大丈夫ですか!?」

 男の子は長めの前髪からのぞく大きな目をキョロリと動かし私を見あげると、ひとりで立ち上がりパンパンッとお尻の汚れを払い、彼の隣にいる初老の男性に向かって小さく頭をさげた。

 その時だった。店の裏口からエプロン姿の若めの女性が出てきて、怪訝そうに男の子と彼、そして彼を止めようとしていた初老の男性の顔を見比べる。

「あの……なにかありましたか?」

「あ、別になんでもないです。ちょっと転んじゃっただけで。お騒がせしました」

 周りの人たちがざわついていたけれども、男の子が何事もなかったかのようにすっと私たちに背を向けたので、初老の男性もみんなも事を荒立てようとはしなかった。

 それなのに、それがまた癪に障ったのか、彼は男の子を押しのけ怯える三人を指さした。

「店員さん、そこの親子が列から抜けたのに……」

「ちょっと、もういい加減にしてってば!」

「すみません、子供がトイレに行きたいって言うから……」

 その場にしゃがみ込み、今にも泣き出しそうな女の子を守るように抱きかかえながら、お母さんが店員さんに頭をさげた。

 キョトンとした店員さんはすぐに膝を折ると、女の子と目の高さを合わせて小さな頭にポンポンと手をのせ目を細めニコリと笑った。

「そんなお顔しなくても大丈夫だよー。ずっと待ってるとおトイレに行きたくなっちゃうもんねー」

 彼はそれを見て再び舌打ちをして、鼻にシワを寄せ顔を醜く歪めた。

 彼の言うとはいったいなんだったのか、何をしたくてラーメンを楽しみに並んでいただけの親子にいちゃもんをつけたのか、その時の私にはわからなかった。

 そのあと彼の口からは、怖がらせた親子に対しても、突き飛ばした男の子に対しても、暴言を吐いた初老の男性に対しても、謝罪の言葉は一言もなかった。

 迷惑をかけたお店や並んでいた人たちなど知ったことではない。そんな横柄な態度だった。

「もう帰ろうよ」と言った私の言葉も聞き入れてもらえず、あれだけの騒ぎを起こしたのに涼しい顔をして並んでいる彼の神経がわからなかった。

 結局私たちはお店に案内されてラーメンを食べたけれども、彼はずっと不機嫌だったし、周りのみんなが私たちを責め立てているような気がして、まるで食べた気がしなかった。

 針のむしろのようだった。すぐにでもお店を出たかった。お店になんて入らずに帰ればよかった。

 食べたラーメンの味なんて覚えていない。

 周りの視線ばかりが気になって、これっぽっちも美味しいなんて思えなかった。

 帰り際、彼がボソッとつぶやいた一言に私は愕然とした。

「チッ、あの親子がいなけりゃ最初のグループで入れたのによ」

 信じられなかった。ただちょっと早くラーメンを食べたかっただけであんな騒ぎを起こしたなんて。

 常識なんて関係ない。正当性の欠片もない。彼に同意していた数人を含め、それがラオタなんだって実感した。しみじみ思った。

 私はその場で彼に別れを告げた。一秒たりとも一緒にいたくなかった。二度と顔を見たくなかった。

 その日から、私は一度もラーメンを食べていない。

 ラーメン屋に行くのも、ラーメンを食べるのも、ラーメンオタク――ラオタも、大嫌いになった。

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