土下座する夫に妻は口づけを返す

「殴らないのか?」


 ライアスに問われたフィリオーネは首を傾げた。フィリオーネが支度を整えて初めて夫婦の寝室に入った時のことである。彼はベッドの上で土下座して待っていた。

 何が起きているのか分からず駆け寄ったフィリオーネにかけられたのは、そんな言葉だった。


「殴る? どうして?」

「私はあなたのことを蔑ろにしてまで結婚した男だ。その権利はあると、思わない?」


 土下座したままこちらを見ることもしない彼を見つめ、フィリオーネは瞬いた。


「殴ってほしいの?」

「……そういうわけではないけれど。私は、あなたを傷つける可能性など全く考えずに、婚約を持ちかけてしまった。そしてそれを黙ったまま、今日に……」


 ライアスなりに、フィリオーネに対して申し訳ない気持ちがあるらしい。


「フィリオーネの決断などを、すべてふいにしてしまった私は、許されなくても仕方がないと思っている」

「……」


 既に、フィリオーネはライアスが「ライリーンの君は使えるが、使う気になれないかもしれない」と言っていた理由を正しく理解している。完全にわだかまりがないとは言えない。しかし、彼の立場に理解は示したいと思っている。


 フィリオーネだって、ライアスという存在を一度はのだ。ライアスとライリーンの君が同一人物でなかった場合、酷いのはフィリオーネの方だった。

 これはもはや王族に生まれた者の宿命だ。国の為に生きる人間である限り、いざと言う時には愛しい相手に嘘をつき、裏切ることを覚悟し、実行するしかないのだ。


「ライアス」

「フィリオーネの気が済むのなら、何でも私はするし、されるつもりだ」


 今回はライアスが、それを決断しただけだ。その結果、フィリオーネの愛が、覚悟が、ただの茶番にされただけである。誰かの命が奪われたわけでも、だれかとの絆が永遠に途絶えたわけでもない。

 フィリオーネの心が振り回されたことくらい可愛いものだ……と、思いたい。


「頭を上げなさい」


 恐る恐る、といったぎこちなさでライアスが顔を上げる。その表情はずいぶんと心細そうだ。フィリオーネはベッドに上がり、彼をそっと抱き締める。


「私ね、少し前に……ライアスが第二皇子だったら良かったのにって、思ってしまったのよ。でも、ライリーンの君に失礼だと、そう考えてしまった自分が嫌だった」


 フィリオーネの言葉にぴくりと震える彼の背中をそっと撫でる。


「もう、自分を嫌わないで済むわ。だって、私は誰の心も裏切っていなかったのだもの。言いたいことは確かにあるけれど、今はそれだけでじゅうぶん」


 フィリオーネが笑うと、ライアスは苦笑しながら頷いた。


「これから、ちゃんとお話しましょ。ライアスが言えなかったことを、たくさん教えてほしいわ」

「フィリオーネ」

「私たちは今日スタートを切ったのだから、ね?」


 ライアスの額にフィリオーネは口づけを落とす。


「フィリオーネには、敵わないな」

「だって、私女王様になるんだもの」


 二人はそう言ってくすくすと笑い合うのだった。

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