第4話 期限がやってきたお姫様、そっと宰相を手放す

 フィリオーネはこの日、普段と変わらぬ姿でライアスと対面した。目の前には、宰相の肩書をつい先ほど返上した男が立っている。


「アルバストゥル元宰相、一年間お疲れさまでした」

「フィリオーネ殿下におきましては、お引き立てを賜り感謝以外の言葉がありません」


 王族と一貴族としての会話をした後、少しの沈黙を経て二人は苦笑する。


「本当に、あなたの能力を手放すのは惜しかったのよ? 私が誰とも婚約していなければ、結婚で縛りつけてしまいたくなるくらい。惜しいことをしたわ」


 本音と建て前を混ぜ込み、フィリオーネは笑う。笑顔でさようならをしたい。それが、フィリオーネの今日の役割だと思っていた。きっとライアスも同じ考えなのだろう。朗らかな笑みを張りつけている。一年近く前に見た、透明な壁を感じる笑みである。


「殿下。この一年……とても充実していて、本当に楽しくて、幸せでした」

「それは私も同じ」


 二人の思い出はたくさんある。そっとレティキュールから指輪を取り出した。

 ライアスと外出した時に買ってもらったものである。今思えば、この時には既にライアスのことを好きになっていたのだろう。


「これ、返すわ」

「殿下……」


 ライアスが小さく目を見開いて驚く姿に、じんわりと目に熱が集まるのを感じる。


「未練になってしまいそうだから。申し訳ないのだけれど」

 フィリオーネはそう言って目を伏せる。

「あなたがそう言うのなら」

 フィリオーネが差し出した指輪を受け取るのを見ると、本当にこれでお別れなのだという実感がこみ上げる。もはやフィリオーネは涙をこらえることができなかった。ドレスに小さなシミができる。


「ライアス……本当に、さようならなのね」


 フィリオーネはあふれ出る涙を拭う余裕もなく、彼を見上げた。


「ええ」

「私、本当にあなたのことが好きなの」

「……存じておりますよ、殿下」


 フィリオーネが見つめる彼が苦しげに吐き出す言葉に、胸がきゅうっと絞られる。彼の気持ちは確かにフィリオーネに向いているのだ、と言外に伝えてくる。


「……私……来月には結婚してしまうのね」

「殿下」


 ライアスがそっと額を合わせてくる。フィリオーネは今にも口づけができてしまう距離に、口を噤んだ。柔らかな声がフィリオーネを包む。フィリオーネの大好きな声だ。しかし、それは切ない言葉を紡いでくる。


「ライリーンの君は、あなたを幸せにしてくれますよ」

「どうしてそう言い切れるの……?」

「私のことが、信用できない?」


 ライアスが目を閉じる。髪色と同じ不思議な黒色のまつ毛が小さく震えた。


「ライアス」

「こんな形で去る、私が許せない?」

「いいえ」


 フィリオーネは即答した。

 愛しい相手を疑うことなんてしたくない。信じたいけれど――私は、あなたとでなければ、幸せになりたくなかった。本当は……あなたと結婚したかった。

 しかしそれを告げることは絶対にできない。それをしたら、フィリオーネは間違えてしまう。ここまできて、積み重ねた努力を無駄にすることはできない。フィリオーネはその言葉を重い吐息に変えて吐き出した。

 ライアスの鼻がフィリオーネのそれにすり合わせられる。こんなに近いのに、遠い。フィリオーネの目からはとめどなく涙があふれ出た。


「フィリオーネ、私の可愛いお姫様。私を、信じてくれないか」

「な、なにを……?」


 涙のせいで詰まり始めた鼻をすすりフィリオーネは問う。


「大丈夫だから。必ず、あなたは幸せになる」

「結婚する相手はライリーンの君なのに?」


 すり、とライアスの鼻がフィリオーネの鼻を撫でるたび、切ないまでの情熱が燃え上がる。唇には触れずとも、フィリオーネを求める気持ちが伝わってくる。

 彼の行為は、これから別の相手と結婚する人間に対して許されるギリギリの求愛表現だった。


「…………そうだ」


 長い沈黙の後、ライアスは答えた。フィリオーネが彼のきりっとした鼻筋を己の鼻で確かめると、彼は苦しいまでに抱き締めてくれた。

 フィリオーネが抱き締め返せば、優しく背中を撫でてくれる。

 今日のドレス、もっと薄手にしておけば良かったわ。そうすれば、ライアスの体温をもっと感じられたでしょうに。

 この衣装でなければならない理由はあったものの、フィリオーネは己の衣装の厚さを呪った。


「あなたを、信じるわ。私は、きっと、ライアスが言う通り……ライリーンの君と、幸せになれるって」

「絶対になれる。に誓って、フィリオーネは絶対に幸せになれる」


 もう、さようならの時間である。名残惜しいが、これ以上一緒にいては駄目になる。しばらく互いのぬくもりを分け合っていた二人だったが、どちらともなくそっと離れ、小さく笑みを交わして背を向けた。

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