第2話 眠りたい姫と愛を囁く宰相

 フィリオーネは、近くに座る相手が分かり、余計このままうたた寝していたくなってしまった。

「殿下は、もうしばらくお休みですかね」

 ライアスの柔らかな声がフィリオーネに降ってくる。それは毛布のようで、余計フィリオーネの眠気を誘う。フィリオーネに起きる気がないのだと察したのか、なぜかライアスはフィリオーネの前髪を整え始めた。


 少しくすぐったくて瞼を震わせれば、ライアスの手がぴたりと止まる。そして少し間をおいて動きが再開する。ライアスの意図は全く分からないが、触れられていても不快ではなかった。

 しばらくフィリオーネの前髪をいじり、そして仕上げとばかりにこめかみのあたりの後れ毛などに触れた彼は「よし。これでいい」と言って満足気に息を吐いた。


 いったい何をしたのか、と目を開いて問うべきだ。そうフィリオーネは思ったが、瞼が重たくて開きそうにない。そもそも、王女たる者が臣下の前で眠ったままというのは格好がつかない。早く目を覚まして、戻ってきてくれた彼と勉強をしなければ、と思うフィリオーネに向けて、聞きなれない言葉が落ちてきた。


「殿下はいつも、愛らしい」


 ……愛らしい、ですって?

 よく分からないが、これは今目を開けてはいけない場面であると察したフィリオーネは、体の力を意識的に抜いた。


「これは、陛下がご心配なさるのも分かる」


 そっとライアスの指がフィリオーネの頬を撫でる。ゆっくりと往復したそれは、指の背だろうか。撫でられたところだけが熱を持ったかのように、感触の余韻を残している。

 これは、本当にどういうこと……?


「大切にします。我が君よ」


 フィリオーネの髪越しに何かが触れる。撫でられたのかと思ったが、濃く香る香水がそれを否定する。

 これは、慈愛の口づけだわ。

 髪の毛越しにキスをすることを“祝福を降らせる”という意味で慈愛の口づけと呼ぶ。ライアスはそれをしてきたのである。しかし、これは少なくとも臣下が姫にするものではない。驚きのあまり、フィリオーネはすっかり目が覚めてしまった。


「大丈夫です。あなたはきっと、幸せで聡明な女王になれる。私は全身全霊でそれを支えます」


 期限後も宰相職を続けてくれるという話かしら。でもそれとキスは、ちょっと違う気がするわ。

 フィリオーネは眠るふりを続けながら、ライアスの一人語りに付き合う。


「我が君が、都合のいい相手から唯一無二のパートナーだと思ってくれるまでの道のりは長くなりそうですが」


 ライアスの言っていることは、分かりそうで分からなかった。ずり落ちそうになった羽織ものを丁寧にかけ直したライアスは、優しくフィリオーネの頭を撫でる。


「私は、必ずやり遂げます」


 強い意志を感じさせる発言と彼の手付きがちぐはぐで、フィリオーネの中で彼の心情が想像できない。今すぐ目を開けて、ライアスの顔を見て、どういう意味なのか問いただしたい。

 この前の外出だってそうだ。最近のライアスは、フィリオーネの理解できないことばかりだ。フィリオーネは、自分が何かを見逃しているのではないかという気持ちになった。しかし、不思議と不安は感じていない。

 分からないことが多いと不安になるはずなのに、と不思議に思う。しかし、その理由もフィリオーネには分からなかった。




「殿下、あなたの宰相がまいりましたよー」


 ぐるぐると思考の渦に沈んでいると、ふいに声色を変えたライアスが声をかけてきた。彼がここに現れてからどれほどの時間が経ったのか、目を閉じたままのフィリオーネには分からないが、眠ったままにさせておく気はないらしい。


「臣下の目の前で眠るのはいけませんよ。私が悪い男だったらどうするのです」


 よく分からないイタズラをしてきたくせに、言うじゃないの。

 フィリオーネはライアスのふざけた発言に眉をひそめる。


「もう少しでお目覚めですかね……? 殿下、今解いている最中のそれ、結構穴だらけですよ。ちゃんと解説して差し上げますから、真面目にお勉強しましょう」


 なんですって?


「ほら、聞こえていらっしゃるなら、あとは目を開けだけですよ。早くしないと、その未熟で中途半端な回答を添削してしまいますからね」


 フィリオーネは完全に覚醒した。ぱちりと目を見開くと、そこにはライアスがにんまりと笑っている顔があった。頭を伏せていたフィリオーネに合わせて、彼もテーブルに伏していた。


「殿下、おはようございます」

「…………待ちくたびれてしまったわ」


 ライアスをじっと見つめて吐き出した声は、思った以上につまらなそうに響いた。ライアスは目を見開き、そして嬉しそうに笑む。

「それは申し訳ありませんでした。残りの時間は充実させましょうね」

 あまりにも柔らかな声に、フィリオーネは小さく唇を尖らせるのだった。

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