10月 姫と宰相、お出かけする
第1話 フィリオーネ、情緒がおかしくなる
やはり、ライアスがおかしい。エアフォルクブルク帝国からの手紙を読みながら、フィリオーネは眉間にしわを寄せた。記憶を遡って考えてみると、フィリオーネと第二皇子が婚約した時から様子がおかしい気がする。
以前よりも感情を表に出すようになった彼が悪いかと聞かれれば、別に悪くはない。宰相としての仕事も真面目にこなしているし、フィリオーネの女王教育も相変わらずスパルタである。
息抜きにもなる種類の勉強が減り、ひたすら知識を詰めつつ“自分ならばどうするか”といったシミュレーションを繰り返す。経験不足を補う為にライアスがしていることを、フィリオーネもさせられていた。
「判断力を鍛えるには、経験が大切です。ですが、経験してからでは遅い、というのが王です。ありとあらゆる状況を先回りして考え、随時変わっていく状況に合わせて最前の選択肢を選ぶことが良いでしょう」
そんなライアスの言葉と共に始まった勉強は、かなり面白く、難しかった。
つまり、本当に普段のライアスと変わらない。しかし……である。フィリオーネは今日の会話を思い出す。
「殿下、今度お出かけしましょう。臣民の生活を知らなければ、判断を誤ることがあります。臣民の心を慮ることができるようになれば、治世はぐっと楽になるはずですよ」
「では、訪問先の選定をして、先触れを……」
王宮の外に出るのならば、手続きが必要だ。その考えのもとで予定を組み立てようとしたフィリオーネの言葉をライアスが遮る。
「いえ、お忍びです」
「え?」
ライアスはにこやかに続ける。
「衣装は私が侍女の皆さんと相談して決めます。約束の日にはそれを身につけていただきます」
「……そうなの」
ライアスと接する時間の長いフィリオーネには、彼がその“お出かけ”をかなり楽しみにしていることが読み取れた。
自分が息抜きをしたいだけなのではないかしら。いえ、でもライアスに限ってそれはないわ。……きっと、宰相としても有意義な時間になりそうだと考えているのね。
フィリオーネはそう考えることにしたが、やはり彼の浮き足立った態度に納得いかなかった。
ライアスの様子が変だと彼に伝えてみた方がいいかしら。
フィリオーネは数回の文通ですっかり気に入ったエアフォルクブルク帝国の第二皇子に、ライアスの件を伝えるべきか悩む。第二皇子はライアスが言っていた通り、フィリオーネと気が合いそうな人物であった。気遣いができ、頭の回転も悪くない。立場に少々問題はあるものの、単純に本人だけを見れば“丁度いい”相手である。
ライアスのことを相談してもいいけれど、相談されても困るだけよね。やめておきましょう。
フィリオーネはライアスの件について考えるのをやめ、未来の夫とのやり取りに集中するのだった。
ライリーンの君への手紙をこさえ、ガリナーの飼育所へ向かう。エアフォルクブルク帝国から飛んでくるガリナーは、相変わらず元気そうだ。フィリオーネにはガリナーの個体を見極めることはできないが、目の前の個体が元気かどうかくらいは分かる。
よほど手入れに力を入れているのだと窺える。フィリオーネはエアフォルクブルク帝国の備えの良さに感服していた。
「殿下、こんなところにいらしたのですか」
「ライアス」
ライアスの登場に驚いたのか、ガリナーが大きく羽ばたいた。
「きゃあ……っ」
咄嗟に目を瞑って身をすくめたフィリオーネをしっかりとした腕が抱きとめる。ふわりと自身のものではない香水が鼻をかすめた。
勉強会の時にも時々感じるそれがフィリオーネの気持ちを落ち着かせていく。
「殿下、驚きすぎですよ」
ばさばさとうるさい羽音が収まった頃、フィリオーネが恐る恐る目を開けば、ライアスの右腕にガリナーが止まっているのが見えた。毛づくろいをしてくつろいでいる。少し頭を上げれば、至近距離にライアスの顔があった。
「ガリナーの方が驚いたと思いますよ?」
「そ、それは……申し訳ないことをしたわね」
さすがにこれは、近すぎるわ。
転倒防止とはいえ、ライアスの体に押し付けられている状態のフィリオーネは、見た目には分からない彼の筋肉の厚みを感じて動揺していた。
武闘派の印象はないけれど、意外に胸板がしっかりしているのね……って、そんなこと考えてはだめよ、はしたない。
我に返ったフィリオーネはライアスから離れるべく声をかけようとした。会話をする時にはなるべく対面になるようにしたいが、ここまでくっついていると難しい。それに、顔を上げすぎてしまえば、ライアスの顎に額がぶつかってしまう。
フィリオーネはどこに視線を向ければ良いのか迷った末、ライアスの腕に止まるガリナーを見つめた。フィリオーネの視線にすぐに気づいたガリナーが見つめ返してくる。
くるりとした丸い目がフィリオーネの下心を見透かしてくるようで、何とも言えない気持ちになった。
とにかく、早く離れなければ。
フィリオーネはなんとか声を絞り出した。
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