閑話5 忙しすぎる宰相殿

 ライアスはとても忙しかった。宰相としての仕事、フィリオーネの教育、そしてエアフォルクブルク帝国の第二皇子としての活動……に子犬の世話。まさに、休む暇なしである。

 だが、今月のライアスはひと味違う。フィリオーネとの婚約者という立場を得ることができたのである。ライアスはやる気に満ちていた。


 婚約が確定してしばらくはどうしても浮き足立ってしまい、不審そうにこちらを見つめてくるフィリオーネの視線に気づいては、なんでもないふうを装っていたが。

 とはいえ、油断は禁物という状態である。フィリオーネがグライベリード王国とエアフォルクブルク帝国の接近をよく思っていないからである。

 もちろんその懸念はライアスも課題として心に刻んでいたことであり、フィリオーネの考えに賛同した。

 結果として、とにかく忙しい日々が始まったのだ。二重生活ならぬ、三重生活と言ったところだろうか。


 宰相としてはいつも通り頑張る。フィリオーネの教育の方は、目標が「女王に相応しい」から「完璧な女王の器」にランクアップした為、かなり詰め込むようなスケジュールへの変更を余儀なくされた。これは、普通にライアスにも負担であった。

 更に、ライリーンの君としてフィリオーネとの文通を始めた。相手が一般市民であれば、婚約する時点で宰相職を辞して身分を明かすのだが、王族相手となると勝手が変わってくる。現在の身分を維持しなければならない状況下でライアスにできる第二皇子としての活動は、文通くらいしかなかったのであった。

 今回は面倒ではあるが、距離感の偽装工作と兄との連携の為、母国からガリナーを定期的に送ってもらうことになった。


 まずガリナーはライアスの元へ飛んできて帝国の手紙を渡してくれる。それが終わればライアスの手紙を付けて王宮の飼育所へ向かい、フィリオーネからの返事を待つ。

 フィリオーネの返事を持たされた彼は再びライアスの元に現れ、ライアスが帝国にいる兄へ向けた書簡を受け取り、母国へと帰っていくのだ。ややこしいことをガリナーにさせているが、意外にも彼らは問題なかった。


 大変なのは、ライアスだけである。


 フィリオーネとの距離を詰める為、ライアスらしさを残したまま、第二皇子として振る舞う。この加減がなかなか難しい。文字だけであるからなおさら。

 偽り過ぎれば、正体を知られた場合に支障が出る。フィリオーネの信頼を失いたくはなかったのだ。


「……結局、おまえも居座っているしなぁ」

「わふっ?」


 ライアスは己の膝の上で寛ぐ子犬を撫でる。子犬の飼い主はまだ見つからない。このままだと、ライアスが飼い主になるコースである。

 子犬は可愛らしい。その一方では悩みの種でもあった。

 この子犬、フィリオーネの勉強の邪魔ばかりするのである。いや、悪いことばかりではなかった。この子犬が邪魔をしてくれたおかげで、フィリオーネがライアスの隣で勉強してくれるようになったのだ。


 話の発端から、ライアスの心臓に悪かった。


 フィリオーネが「集中できない」と文句を言った時のことである。初め、自分の視線がうるさいと言ってきたのかと思い、狼狽えてしまった。実際は子犬がはしゃぐ姿が視界をちらつくという理由であったが、その会話の最中に、ライアスがフィリオーネを見つめすぎていたことが本人に気づかれていたことが判明したのである。

 かなり気まずかった。初めは勉強を見守っていただけだった。だが、今はフィリオーネの小さく震えるまつ毛や、眉を隠す前髪、難題にぶつかった時に歪む唇、文字を追う指先などばかり見てしまう。

 その視線はうるさくないと彼女は言ったが、ライアスの心臓はドキドキとしたままだった。


 そんな中、フィリオーネはライアスの隣に座って勉強を始めたのだ。ライアスが時間短縮の為に「一緒に問題を解こう」と言ったせいであるが、こんな展開になるとは全く想定していなかったライアスは、油断すればゆるんでしまいそうな表情をぐっと引き締めて勉強会に臨むしかなかった。

 ボーンという名の盾を持たぬフィリオーネは、触れてしまうのではないかというほど近くに座って見上げてくる。冷静さを保ち、役割を果たした己を褒めてやりたい。

 それが今回だけかと思えば、そうではなかった。


 それからというもの、フィリオーネは必ずライアスの隣に座ってきた。そして「この方が効率良いでしょう?」と言うかのように微笑むのだ。

 ライアスは負けた。フィリオーネをすぐ隣で見守る特権に、負けた。その様子を見ている侍女の視線が少しだけ怖いと思ったのは秘密である。



 兄上、私の気持ちがフィリオーネにはバレなくとも、周囲にはバレていそうで、とても恐ろしいです。文通も順調ですが、これから先が本当に恐ろしいです。

 私の行動が合っているのか全く自信がありませんが、やれるところまでやりきるつもりです。


 ライアスが書いた兄への手紙は、インク染みはなかったものの、強ばった文字が並んでいた。

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