第4話 微笑ましい気持ちになっていたお姫様、宰相の不機嫌に気づく
これは集中できないわ。
近くを走り回る子犬がフィリオーネの視界の端をちらついている。侍女はほぼ不動だから気にならなかったが、これは少し……いや、かなり気が散るものである。
天気が良いからとキオスクで勉強会をしていたフィリオーネは、ライアスに出された問題を解く手を止めた。顔を上げれば彼と目が合う。
「いかがなさいました?」
「……気が散ってしょうがないの」
ずっとフィリオーネのことを見つめ続けていただろうライアスは、まずは自分の視線が煩かったのかと考えたのか、すっと視線を逸らし、それから犬を見つけた。
「…………あぁ、犬か!」
「ふふっ」
閃いたかのようにぱっと視線をフィリオーネに戻すと同時に声を上げたのが面白くて、思わず笑みをこぼす。
「そう、あの子犬よ! あなたは私が勉強している間、今までもずうっと見つめてきていたから気にならないけれど、あっちは好き勝手に動き回っているんだもの。
気にならないわけがないわ」
フィリオーネの言葉にライアスは笑顔のまま固まり、気まずそうに飲み物へ手を伸ばす。
指摘されたら気まずそうにするなんて、ライアスは本当に真面目な人ね。あなたは私の勉強をしっかりと見守っているだけなのに。
フィリオーネは微笑ましい気持ちになり、口元を歪ませて下手くそな笑みを作る彼に笑いかける。
「とりあえず……その子犬は侍女に任せて、私たちはお勉強に集中しない?」
「……そうしましょう」
ライアスは子犬に向かっていく侍女の姿を見守りながら立ち上がった。
やっぱり中の方が涼しいわね。
爽やかな風が吹いているとはいえ、室内に戻ると外の暑さを実感する。フィリオーネは侍女から扇子を受け取り、自身に風を送って篭っていた熱を逃がす。
二人が定位置について勉強道具を広げると、侍女が冷たい飲み物を持ってくる。用意が良いことである。フィリオーネは視線でライアスに飲むよう指示する。
「殿下、ありがとうございます」
「こちらこそ。では、続きを――」
「いえ、一緒に問題を解きましょう」
珍しい。フィリオーネは小さく首を傾げる。ライアスはとん、とフィリオーネが解いていた問題を指先で叩いた。
「このままだとこの問題を解いている間に時間が過ぎてしまいます。時間がもったいないので、一緒に進めましょう」
「……優しい理由ではなかったのね」
ライアスはライアスだった。フィリオーネは苦笑して立ち上がる。一緒に問題を解くのであれば、同じ方向から本を見た方がやりやすいからだ。
ライアスの座る長椅子にフィリオーネも座り、距離を詰める。
今日はボリュームのあるドレスを選ばなくて正解だったわ。ボーンが邪魔で隣に座れないもの。
肩が触れそうなくらいまで近づき、フィリオーネは隣に座る青年を見上げた。
「よろしく頼むわね」
「……解説はしますから、ちゃんとご自分でも考えてくださいね」
ぐっと表情を固くした彼は、珍しく眉間にしわを寄せていた。フィリオーネの態度が不真面目に見えたのかもしれない。彼女はすっと真面目な表情を作り、その表情通り真剣に勉強に取り組むのだった。
ここ一ヶ月、フィリオーネの楽しみが増えた。それはライリーンの君との文通である。彼はとても話しやすい人物だった。それに、共通の知り合いもいる。
話が盛り上がるのも当然だった。
「頻繁にお手紙をくださるけど、ガリナーは大丈夫なのかしら」
フィリオーネの呟きに、近くにいた侍女が反応する。
「エアフォルクブルク帝国の殿下ですよ。それなりの数を飼育していらっしゃるのでしょう。我が王国だって、帝国ほどではなくとも、必要な時に不足のないように飼育しているではありませんか」
ミハはスパッと思ったことを口にするきらいがあるが、フィリオーネはそれをとても好ましく思っていた。ミハの発言に「それはそうね」と笑いながら同意すると、彼女は何故か訝しむような視線を返してきた。
「ところで、フィリオーネ姫は……その、本当にライリーンの君とご結婚なされるのですか?」
「どういう意味かしら?」
フィリオーネが婚約状態にあることを知っているにも関わらず、そんな質問をしてくる意図が全く分からなかった。フィリオーネの質問返しに彼女はため息をつく。とてもわざとらしい仕草に、さすがのフィリオーネも少しむっとした。
くしゃくしゃにしてしまわないよう、手紙をテーブルに置いてミハに向き合う。
「ミハ、まるであなた……私が別の方と添い遂げそうだと思っているみたいよ」
「その通りなのですが」
「……誰と?」
思いついた言葉をそのまま吐いたフィリオーネに向け、ミハは苦笑する。
「それは、フィリオーネ姫が考えればよろしいかと」
「なんだか納得がいかないわ」
むすっとして目を閉じる主に向けてミハがくすりと笑う気配がした。
本当に、納得がいかない!
それから意地になったフィリオーネは侍女たちが考える己の婿候補を当てようとしたが、結局当てられずじまいだった。
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