8月 姫と宰相、和やかに攻防する
第1話 フィリオーネ、宰相を囲い込もうとする
五月にライアスと出会ってから三ヶ月が経った。先月はフィリオーネのせいでライアスが風邪をひいてしまい、彼の時間をだいぶ無駄に過ごさせてしまったことが悔やまれる。
フィリオーネは、ライアスを宰相として信頼していた。もはや、自分が女王として立つ時には、彼に宰相として手腕を揮ってほしいとさえ考えているくらいだ。
しかし、彼は期間限定の宰相である。これを撤回させるにはどうするべきか。フィリオーネは頭を悩ませているのだった。
「フィリオーネ姫、お茶を用意しました。少し休憩しましょう」
「あら、ありがとう」
フィリオーネは勉強そっちのけで宰相職続投について悩んでいたのを隠すように、丁寧に微笑みを作る。彼は笑みを返すとそのままティーカップにポットを傾けた。とぷとぷと可愛らしい音を立てながら、黒い液体が注がれる。
その液体は薄らと紫色に透けていた。目の前にいる青年の髪と同じ色である。
「あら、とても不思議な色ね……茶葉はなんと言うの?」
さすがに「ライアスの髪の色みたい」とは少し恥ずかしくて言えなかったフィリオーネは、素知らぬ顔で質問する。
「この茶葉はライリーンと呼ばれるとても珍しいものです。十年に一度しか作ることができず、滅多に流通しないのです。」
ライアスがフィリオーネの前にティーカップを置いた。
ほんのわずかな音を立てて置かれたそれは、フルーティーな香りを立てている。しかし、やはり黒い。綺麗な色だが、味が想像できなかった。
「熟成させる期間が長いのですよ。おもしろいでしょう? これと対になる茶葉がありまして、こちらはアスリーンと呼ばれています」
「あら、ライアスの名前みたいね」
フィリオーネは何となしに口に出す。ライアスは小さく笑った。
「その通りです。私が生まれた時に、両親が目と髪の色を見て名づけたそうですよ」
甘さを感じるが爽やかさのある香りに包まれながら、フィリオーネはライアスの言葉を頭のメモに書き込んだ。そしてふと、ライアスのいとこ――エアフォルクブルク帝国の第二皇子――がライリーンの君と呼ばれていることを思い出す。
「帝国の第二皇子がライリーンの君と呼ばれているわね。彼もあなたと同じように外見からなのかしら?」
「ええ、何せ私といとこ関係ですからね」
フィリオーネはティーカップを傾けながら姿絵すら配られないかの“名無しの殿下”に思いを馳せる。あの皇の息子である。さぞや精悍な顔立ちをしているのだろう。ライアスの髪色をした男らしい顔立ちを想像し、偉丈夫そうだなという感想を抱く。
「ん……!? このライリーンティー、美味しいわね!」
濃い色をした液体だからと、強い味を想定していたフィリオーネは、思わぬ軽やかな味にはしゃいでしまった。
「ねぇ、ライリーンティーがこんなに美味しいのなら、アスリーンティーもさぞや美味しいのでしょうね? いつか飲んでみたい……あ、でも貴重な茶葉なのよね。
入手困難なのなら、潔く諦めるわ」
興奮のままライアスにわがままを言ってしまうところだった。途中で気づいたフィリオーネは、すぐに方向転換した。しかしライアスはそれすら予想していたかのように、鷹揚に頷いている。
「そう仰ると思っておりました。ちゃんと用意していますよ」
「まぁ!」
「ご安心ください。これは私の私物です。誰の手も煩わせておりませんからね」
ライアスはフィリオーネを転がすのが上手になっていた。ライアスの私物なら、と遠慮なくライリーンティーに口をつける。
いいえ、それはそれで良くないわ。
これは主としてまずい思考だ。フィリオーネはライアスの優しさに漬け込んで私物化することはしたくなかった。
「ライアス」
「いかがなさいましたか?」
「あなた、アスリーンティーに会う菓子をご存知?」
ライアスが飲み物を用意するのならば、フィリオーネが菓子を用意すれば良い。ヒントか答えそのものをライアスから聞き出すことさえできれば、そうして菓子を用意すれば、一方的に搾取したことにはならないはずだ。
「アスリーンティーは、ライリーンティーと違って甘酸っぱいお茶になります。ですので、あまり香りや味の濃くないシンプルな菓子が合います」
フィリオーネの突拍子もない質問に、ライアスは首を傾げつつも答えていく。
「具体例ですと、スフェルトコアツェとか……でしょうか。ただの焼き菓子でもいいですけれど、フィリオーネ姫が考えていらっしゃるものとは違うと思うので」
「なるほど、スフェルトコアツェね。分かったわ」
スフェルトコアツェとは、焼いた当日には食べず、翌日以降に食べる焼き菓子である。焼いた当日に食べてもおいしいが、スフェルトコアツェ特有のしっとりさがない。
空気中の水分を吸ってしっとりとした頃に食べるのが常である。
「ライアス、後ほど連絡をするけれど今度二人でお茶会をしましょう。あなたはアスリーンティーを、私はスフェルトコアツェを、それぞれ持ち込むの。
どうかしら?」
これは正式なお茶会の誘いだったが、きっとライリーンとアスリーンの歴史を学ぶ時間になってしまうのだろう。しかし、それはそれで楽しいに違いない。フィリオーネは彼のスケジュールを頭に思い浮かべながら、そう考えるのだった。
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