第5話 不完全芳香:ココナツ
毎度のことだが、
彼女はまた匂いを変えた。
いくら僕でもつかめてきた。
甘い匂いをいくつも試している、ということくらいは。
ただ、どんな甘い匂いが彼女の感覚にかなうのか、
それは僕でもわからない。
夜明け前に、彼女は多分風呂場でいろいろ処分して、
朝になって、石鹸屋の店が開いたら匂いを変えるはず。
今はちょっとしたブランクの時間。
風呂場でひと仕事して、
今はちょっと空っぽの彼女が、寝床の隣にもぞもぞ入ってくる。
この状態の彼女は、
匂いがなくて、ひどく不安なのか、
僕の髪の毛をわしゃわしゃとする。
ああ、トニックシャンプーの、たぶんミント。
彼女の求める甘い匂いとは、
どうにも方向性の違う匂い。
彼女の腕から、さっきまで彼女を包んでいた、
ココナツの匂いがかすかにする。
甘い常夏の島の匂い。
夢のような遠くの世界の匂い。
彼女は、遠くの夢の匂いを徹底して流した。
そして、今は、僕の安いミントの匂い。
彼女はやがて眠った。
夢の中でも時々、彼女は泣いている。
僕は気が付かないふりをする。
僕が気が付くのは、起きている時。
匂いが変わった時は、匂いの感想をちゃんと述べる。
今回はなんだったかな、
ココナツの油っぽい匂いが、甘いんだけど何か違う。
そんな感想を述べた気がする。
彼女は何を求めているんだろう。
どこか遠くに行きたいわけでもないだろうし、
何でも屋を繁盛させたいわけでもない。
どこか浮世離れしている彼女。
彼女の求める匂いは、彼女の感覚でしかわからないから、
僕は感想を述べることしかできない。
最近、僕はおせっかいにも、
いろいろな匂いの元を買ってきては、
彼女に試してもらっている。
彼女はあーでもないこーでもないといいながら、
匂いを試して、困った顔をして、
「ごめんね」
と、謝る。
僕はいい人でありたいから、
「いいんだよ」
と、笑う。
本当は、もっと頼ってほしいんだ。
僕に向けて、もっと。
彼女は僕の髪を腕に抱いたまま、
眠っている。
ミントの匂いが、彼女を泣かせている。
ココナツの明るさは、彼女を慰めてくれなかった。
僕をもっと見て、僕に腹たてたり、笑ったりしてもらいたい。
それにはどうしたらいいんだろう。
僕は途方に暮れた。
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