第6話 第二王子は悩んでいた。 ※カイ視点

 夕暮れの自習室。

 カイは魔法歴史学序論の表紙をぱたりと閉じる。


「今日の勉強はここまでにしましょうか、フェリシア」

「うん! また明日ね!」


 カイはフェリシアに手を振る。

 そして部屋に戻り、ふう、とため息をつく。

 部屋に設られた特別のシャワールームで、汗を流し、裸にタオル一枚で鏡の前にやってくる。

 そこには、銀髪からお湯を滴らせた、一人の青年の姿があった。

 鍛え上げられた均整の整った白い肌に、男子として一般的な長さの髪。鋭い眼差しは、サファイアのように深く輝いた色をしている。


 青年ーーカイは手に持ったチョーカーをテーブルに置き、髪を拭いてため息をつく。

 時々こうして首につけた魔道具のチョーカーを緩め、幻覚魔法を解く必要は本来はない。

 けれど一日一度は解いてしまわなければ、本当の姿も性別も、忘れてしまいそうで恐ろしかった。


 カイはそのままベッドに横になる。

 公爵令嬢カイ・コーデリックとは全く違う、体を投げ出すような、疲れをあらわにした転がり方で。


「……すまないフェリシア……君が憧れるのは……女装の男なんだ……」


 申し訳なさがジクジクと胸を刺す。


 カイ・コーデリック。

 コーデリック公爵家に養女として匿われている、隣国レシュノルティア王国の第二王子だ。

 本来の名前をカイ・ルイズ・レシュノルティアという。

 レシュノルティア王国は今、将軍によるクーデターで国が荒れている。

 腐敗した貴族たちに腹を立てた民衆によって、将軍を新たなる王にして新王朝を打ち立てるべきだと言われているのだ。

 父は彼らと交渉を続け、母は妹たちを連れて亡命し、外国の将校の伝を使って修道院に匿われている。王太子である肝心の兄はーークーデター直後から行方知れずだ。


 第二王子カイは表向きクーデターで死んだことになっている。


 父により、カイは事態が落ち着くまで外国に潜伏し、国外情報を手に入れて国に戻るための力を温存するよう命じられていた。王太子の代わりのスペアとして、なんとしても生き延びるのが己の役目だ。


 しかし第二王子がそのままの姿でうろついていれば、他国とはいえ、どこで露見するかわからない。

 カイは首に魔道具のチョーカーをつけ、水・風以外の魔力全てを封印することで幻惑魔法を起こしている。自分が女性に見える幻覚だ。

 声も容姿も、幻覚を浴びている人間は全てカイのことを女性だと思っている。


 しかしこの魔道具にも弱点はある。

 カイが誰か他人と心を通じ合わせ、深く親しく特別な関係になりたいと思ってしまったらーーその効き目はその相手には弱まってしまうのだ。


 潜入当初、カイは平気だと確信していた。

 自分には果たすべき責務がある。浮ついた学園生活をしている場合ではない、と。


 実際の心を溶かす他人はいなかった。


 カイは男子ゆえに。

 男子学生たちの、カイ・コーデリックに対するデレデレとした眼差しに冷めた感情を抱きこそすれ、親しみを覚えることは皆無だった。


 また恋愛対象である女子学生たちを見ても、心は全く揺らがなかった。

 貴族令嬢たちがカイの前で見せる、同性相手の前だけのはしたない振る舞いの数々に、いくらでも幻滅することができたからだ。


 そもそもコーデリック公爵の権威もあって、カイに迂闊に近寄ってくる人はいなかった。

 なんちゃらの百合と、二つ名まで付けられていたのには苦笑した。

 魔道具によって完全無欠の美少女に見えている人々は、カイがただの女装男子と気づいた時、どんな顔をするだろうか。


 ーーけれど。カイの運命は入学一ヶ月で変わってしまった。

 カフェテリアで気になる子を見つけてしまったのだ。


 ふわふわの栗毛色の髪に、淡いブルーの従業員の制服がよく似合う同級生の令嬢。

 大きな目と下がり気味の眉が実に人の良さそうな、室内飼いのトイプードルを思わせる愛らしい少女だった。いつカフェテリアに行っても、彼女は元気に働いている。


 ーーん? いつ勉強してるんだ、この子は。


 カイは訝しんだ。その時、周りの貴族令息たちのせせら笑う声が聞こえる。


「あれ、奨学生なんだろ? 誰か声かけてやれよ、ついてくるかもしれねえぞ」

「頑張ってんだから馬鹿にすんなよ」

「頑張ってるって、どうせカフェテリアで男見つけて玉の輿に乗るためだろ?」


 彼女を侮った物言いだった。カイはその物言いに二つの意味で不快になった。

 バイトをする彼女が毎日、誰も見てない場所でもきちんと仕事をする感心な子だと認めていたからだ。

 男漁りのために仕事をするような子なら、床に這いつくばって、細かなゴミまで拾ったりしないだろう。


 それに推薦なし、新興貴族の身で、生半可な成績では奨学生は難しい。

 並大抵ではない努力を重ねてそこにいる彼女を侮辱するのは、国を預かる貴族としての品格を疑う。


 かといって、カイ・コーデリック公爵令嬢として彼らを直接咎めるわけにはいかない。

 妙に目つきの鋭いカフェテリアの店長はそこそこに彼女を守っているようだったが、必要以上には手を出さないーーそういう立場の男なのだろう。


 ーー嫌なものを見てしまった。


 その日のカフェテリアの食事は、実に美味しくなかった。


 以降、カイは彼女をなんとなく目で追うようになった。

 まだ本格的な講義も始まらない時期だったが、彼女はいつも放課後、長い間自習室で勉強をしていた。

 彼女が見ているのは大抵基礎教養の科目のものでーー思わず、声をかけてあげたくなるのをグッと堪えた。


 ーー彼女は本当に、独学で奨学生になったのだ。

 だから基礎教養が全くわからない。

 ああいうものは貴族の子供なら、幼いうちに家庭教師に教わるような教養だから。


 目をこすりながら、夕暮れの自習室で机に向かっている姿に、カイは胸の奥が締め付けられるような心地になった。見た目はトイプードルみたいなのに、彼女はとても心が強く、熱心な学生だった。


 そんな彼女が貴族令息、令嬢たちから蔑まれていることを、カイはすぐに知ることになった。

 カフェテリアで注文に言いがかりをつけて謝らせたり、スカートをめくろうとしたり。

 カイは悩んだ。


ーー自分は今、目立つわけにはいかない。

ーーしかし保身に走るあまり、目前で困っている令嬢一人助けられないのは、道義に反するのでは?


 その時。

 机の下を拭く彼女に、令嬢がくすくすと紅茶をこぼした。

 制服が透けるのを見て、遠くから令息がひゅう、と口笛を拭く。

 彼女は一瞬呆然として……そして困ったように、へらりと笑った。


 カイは気づいた。

 彼女の笑顔は、彼女の必死の抵抗であるということを。

 この学園に食らいつき続けるために、穏便に、笑顔で場をやり過ごし、学問を続けるための笑顔。

 強い、と思った。

 それに比べて、我が身可愛さのあまりにここでそそとお嬢さんごっこをするはーーなんだ。


 カイは立ち上がった。

 その勢いに、近くの席の男子生徒が「うおっ」と声をあげて道を開ける。

 カイはつかつかと彼女にあゆみよると、さらに無体を働こうとする令嬢の腕を、軽く捻り上げた。


ーーそこからは、あっという間だった。


 気がつけばカイは彼女を隣の部屋に呼び寄せ、彼女の学友となった。

 コーデリック公爵の取り計らいでジキタリス女子寮の最上階が、自分一人なことを利用して、彼女に居場所を与えてしまった。


「ったく、僕としたことが……なんて愚かなことを」


 鏡を前に一人呟く。

 その声はカイ・コーデリック公爵令嬢として人々の鼓膜を振るわせる声よりも、ずっと低い。

 

 フェリシアはカイに感謝した。そして自分みたいになりたい、まで言ってきたのだ。


「……僕は憧れられるような存在じゃない。嘘で塗り固めた……ただの弱い男だ……」


 フェリシアは可愛い。可愛いからこそ目立って、嗜虐的な連中に目をつけられてしまったのだろう。

 あのふわふわで頑張り屋で向こうみずな少女を、友人にしてしまったのは不可抗力だ。

 カイはただ、あの子に笑っていてほしいと願ってしまった。


 そんなことを願えるような『友人』にはなれないのに。女装で潜伏した、ただの男だというのに。


「せめて責任は取らないと……。カイ・コーデリックとして、彼女の憧れを壊さないようにしないと」


 カイは決意した。

 純粋な彼女の夢を壊さないように。親友として彼女を守り、育て、立派な魔術師になれるように見守っていこうと。

 身分をばらさず、性別をばらさず、ただの公爵令嬢として、フェリシアの親友として傍にいることを。

 うっかり彼女に対して魔道具の効力が切れてもバレないくらい、徹底して『公爵令嬢』を貫こうと。

 これはカイ・ルイズ・レシュノルティアではなく、カイ・コーデリックとしての責任だ。


「フェリシア……」


 カイはフェリシアの笑顔を思い出す。

 それだけで、潜伏生活でささくれだった心が癒される思いがした。


「ありがとうフェリシア。……フェリシアのおかげで、僕は……もう少し頑張れそうだ」


 ーーフェリシアはまだ知らない。

 ーー自分の笑顔が、一人の孤独な亡命王子の心を癒していることを。

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