第118話 妄想と訪問者
ドロシーは、もっと危険な状況にさらされたことは、いくらでもあった。
もっと、ヤバめの相手と、絶望的な状況で対峙したことはいくらでもあった。
だが、いまの彼女にはエイメとサイナがいた。
この子達には、ドロシーがこれまで体験してようなことの万分の一でも経験させたくはない。
いっそ、この街をでるか。
ドロシーは、乳房をエイメとサイナに吸わせながら考えた。
エイメは、とっくに乳離れをしていて、そろそろ食べ物にも偏食が出てきてので、困っていたところだったが、サイナに乳をやっていると、自分も、と必ずせがむ。
拒むとギャン泣きするので、ときどきは、ドロシーはエイメにも乳を与えてやっているのだ。
さて、逃げるにしても何処がよいのだろう。
西域はどこにいても、もれなく戦火がついてくる。
例外は当初から、中立を宣言していたランゴバルド、銀杯皇国、カザリームなのだが、いずれも乳飲み子を抱えての長旅となる。
ドロシーのアイディンティティは、世界をふたつに割った英傑あるいは魔王と出会って、かなりたったいまもランゴバルドの町娘のままだったので、こんなときにだれか、頼れるものがいないか、つい空想してしまうのだ。
例えば、なんとなく一時、婚約者ぽかったマシューはどうだろう?
この子たちの父親がマシューだったら?
彼は、エッグホッグほど暴力的でもないし、変態的でもない。だが、生活力と頼りなさでは、以外にも同レベルなのだ。ケンカ慣れして押し出しのきくのはエッグホッグだが、戦ったらどっこいどっこいだろう。マシューだって、きっちりと戦闘訓練を受けている。でも彼は、ファイユと結婚したのだと、風の便りにきいた。いまさら、ドロシーがおしかけていっても、受け入れることのできる状態ではない。
なら、ドゥルノ・アゴンは?
彼は、魔導師として正当に評価され、カザリームの要職についている。
いや、しかし、ドロシーは家出同然にドゥルノ・アゴンのもとを離れ、それ以降まともに彼にあっていないのだ。
さすがに、彼は頼れない。
なら、銀灰皇国の愚鈍帝の夫であるゴーハンは?
彼は武勇に優れ、漢気のある武人タイプの男だ。別れたのも、ドロシーの責任ではなく、彼が銀灰皇国と諸侯連合の橋渡しとして、愚鈍帝と政略結婚しなければならなくなったためである。
もちろん、愚鈍帝の存在がある以上、正式な妻にはなれないが、女の1人くらい、連れ子がいたって囲ってくれそうな気がした。
だが。
ドロシーは首を振った。
銀灰はだいぶ改善されたとはいえ、まだまだ魔力偏重の社会である。
魔力をもたないものが、昔の様に放逐されたり、露骨な差別をうけることはないが、それでもつける職業に制限があったり、結婚相手には魔力に優れた血筋を欲したりする者は多い。
ドロシーの魔力は平平凡凡なもので、そう考えるとエイメとサイナを銀灰で育てるのには、否定的にならざるを得ない。
(ドロシーは、自分の魔道の才についてはあくまで常人の域をでないものだと、確信していたので、半ば伝説的存在の“銀雷の魔女”の娘が銀灰でどう評価されるかについてはまったく想像がおよんでいなかった。)
ならば、グランダのジウル・ボルテックはどうか。
けっこう長い間、付き合ったつもりでいたボルテックとの時間が、エッグホッグと暮らした時間よりはるかに短いことに気がついて、ドロシーはゾッとした。
当時はドロシーは、若かった、ということかもしれない。
あるいは、いま過ごしている「日常」とう魔力がときの流れを忘れさせたのかもしれない。
グランダは、いままであげた地名ではもっとも遠いが、いまでは魔道列車のとまる駅だ。移動は、船路をつかうカザリームよりもはるかにラクで、ボルテック自身もドロシーを、多少苦笑いしながらも受け入れてくれるはずだ。
だが、受け入れてくれたらくれたで、二人の娘の父親にはまったく相応しいとは思えなかった。
たぶんはいはいもできないうちから、拳法の修行をさせるに決まってる。
拳法がだめなら、魔法でなんとかしろ!
と、魔術も教え込むかもしれない。
サイナの最初に発する言葉が、「ママ」ではなく、魔法の呪文だったら、それは大層、いやなことだった。
どこかに、穏やかで優しくて娘のこともわたしのこともちゃんと可愛がってくれるひとはいないものなのだろうか。
きっといるはずのそのひとの面影も名前もドロシーは思い出せずにいた。
「こらっ! 歯を立てたら痛いでしょ! 」
ドロシーは、エイメをそっと押しやった。
サイナは、満腹になったのか、げっぷをして、そのまま眠りに落ちそうだった。
るりり。
ドアのベルが鳴った。
ドロシーは、前を繕うと、サイナをベッドに戻した。エイメにサイナを見ているように言ってから、ドア越しに声をかけた。
「どちらさまですか?」
「久しぶりだな。」
年配の男の声だった。
ドロシーの表情が固くなる。
「どちらさまですか。」
明らかに聞き覚えのある声だったが、ドロシーはもう一度そう言った。
足音を殺して、後ろに下がると、エイメに黙っているように、目配せした。
「ママぁ。お客さんなの?」
幼児に目配せなどまったく通じないのだ。
ついでに、乳児のほうはまた、ぐずり出した。
泣きたいような気持ちで、さらにもう一度、ドロシーは問うた。
「どちら様です? ここは、西蔭町のギルドマスターの家です。いま主人は留守にしておりますので、おひきとりください。」
「やれやれ。」
笑いを含んで、老人は言った。
「本当に主婦をやっておるのか。驚いたぞ。わしは、ゲオルグだ。ハタモト衆のジェインも一緒だ。」
「存じ上げないんですけど?」
ドロシーは、手で、後ろに下がるようにエイメに合図をしたが、3歳児にそんな合図なんて通用しない。
エイメは、大好きなママに体当たりをかましながら言った。
「お客さんなの? それともマオトコ?」
「どこでそんな言葉を!」
「パパが言ったよ。マオトコがきてるならこっそり教えろって。」
「違います!!」
「ドロシーよ。おまえさんの子どもも困ってるようだ。間男ではないのとを証明するためにも開けてはくれんかな?」
「だから! あなた方なんて知りません!
知らないひとを家にはいれません。」
「ゲオルグ。もういいだろう。」
若い女の声だった。聞き覚えのある声に、ドロシーは震え上がった。
それは、フィオリナの声だった。
正確には出会ったばかりの頃の、まだ十代だったころのフィオリナの声だった。
その声で話す物に心当たりは、ある。
フィオリナを模して、その昔、大魔導師ボルテックが(それが、あの脳天気な拳士ジウルと同一人物なのはいまだに、彼女のなかでしっくりこなかった)作り上げた魔道人形だ。
たしか、もう稼働しているものは、いないはずなのに。
一種の厭世観に囚われたドロシーは、「調停者」としての活動も休止し、逃げるように旅から旅の生活を続けていた。この間、「黒」からも「災厄」からも連絡を絶ってしまったので、魔道人形であるジェインのことは、ドロシーの知識にはなかった。
この地に、何年かズルズルと腰を落ち着けたのは、「家庭」をもってしまったからである。
「おねーちゃんは、マオトコなの?」
「なんでもいい。開けろ。開けなければドアを壊す。」
どういう経過で起動させられたかは、分からぬが、この魔道人形は、少なくとも性格は、フィオリナによく似ていた。
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