第4話 半身、その名を継ぐ者

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 もはや泣き喚いても無駄なのだ。「ごめんなさい、ごめんなさい」「だれか、だれか」「だめかよちくしょう!」「たすけて! 団長」わめき声が恐慌の波となって崖まで打ち寄せる。もはや間違いなかった。ダン・シルバー、やつの望みはただの龍退治などではなかった。。

「これ以上殺させるわけにはいかない」

 歯ぎしりをしてタランガンが言った。残酷な風景に四人は戦慄した。

「行ってくれ、ゼマラン、ゲネウチ。あの濁った龍の目を見ろ。操る魔術師がいるはずだ」

「わかった」ゲネウチが答える。

「ゼマラン、私についてきて。心当たりがある」

「サラインのダジ!」

「おう!」呼ばれてつい、嬉しい声を出した男の耳元に、タランガンはぼそぼそっとなにか囁く。急いでこの薬師はタランガンに頼まれたものを渡し「さらに必要なのか」と問うた。

「しっ! 誰にも聞かれたくない。もう一押しはあんたの投擲に任せる。頼む」

 そう素早く言い捨てると、タランガンは跳んだ。

「タランガン!」思わずゲネウチは叫んだ。タランガンの足が収縮して爆発した、そう思うほどの跳躍だった。烏合の衆は、飛び込んできた勇者をわっと避けた。タランガンは吠えた。

「除け! あとは俺に任せろ!」

 一方、ドワーフは激動する事の次第に泡を食う連中に呼びかけた。

「このなかで、青糸杉を知る者はいるか! 青糸杉のゼマラン・サバランを知る者は!」

 そうだ。青糸杉は知られた傭兵組合なのだ。何人かが人の世に戻ったような顔をしてこのドワーフを見た。生気のない男たちのなかにも、青糸杉の依頼を受けた者は何人かいる。

「ようようお前たち! 俺は青糸杉の組合頭、ゼマラン・サバランだ。俺の後に続け!

 青糸杉は支払いをケチったことがない。俺の名を知る者共は俺たちの後に続け!」

 ドワーフとエルフが駆け出すと何人かの戦士も追った。思わずダジは口笛を吹く。

「さすがゼマランのとっつぁんだ。二十人もついてきゃ上々ってとこだ、おっと!」

 サラインのダジは自分の頬を一発張って、自分は駆け出したタランガンを追った。

 龍殺しの伝説を語り継いでいた騎士団は壊滅の危機にあった。二陣のつもりであった団長一行は先になど進めない。たっぷりと薬を塗りたくった騎士たちは龍の食欲をそそった。魔法薬には龍の食欲を増す香りがまぶされていた。

 龍はもうわかっていなかった。

 自分が何故食うのか、何故襲うのか理解できていなかった。

 ただ誰かが、食え、と言っていた。殺せと龍に命じていた。

 本当なら何度も死んでいる傷を受けても、龍は生きていた。

 生きるために食うのではなく、食うために生かされていた。

 銀鎧に身を包んだ騎士たちは怯え、座り込んで泣いていた。

 龍はただ首を伸ばせばたやすく彼らを食らうことが出来た。

 こんなに人間を食わなくても生きられるのにと思っていた。

 そもそも食いたくはなかった。人間は龍にとっても器の一つなのだから。

 幼い自分はその歴史も、龍の秘術も罪も徳も知りはしないのだけれど。

 ふと、鼻孔に新鮮なにおいを感じ龍は顔を騎士から背けた。

 革袋を開いた男が立っていた。彼は上半身を覆う服を脱ぎ捨てた。タランガンであった。タランガンは、革袋からその魔法薬を自分の身体に全てあけた。この薬には龍を引きつける何かがあると踏んだのだ。操られる龍はにおいを印に戦士を食う。

 鎧の男を五名食い終わった龍はひく、と鼻を利かせた。

 もしタランガンが、ヴォーダモンの騎士たち全てを生贄に捧げていれば楽に戦うことが出来たかもしれない。頭のなかではわかっていた。心が理解しなかった。

 飛びかかる龍の顎門を、タランガンの剣は瞬く間に切り捨てた。ぱっくりと開いた傷口の下でぶら下がる下顎。剣は留まらず龍の指を切り飛ばした。しゃがみ込まなければおそらくその爪はタランガンの頭蓋をぶっ潰していただろう。

 痛い、と龍は思った。

 その傷口を埋めるように、どろりとした液が垂れてきて、この幼い龍は心の奥の奥の方で。

 もう治るのは嫌だ。

 と思った。

 タランガンの激闘の最中、ドワーフとエルフは駆けていた。二十人ほどの戦士たちがついてきていた。皆傷を負っているが、鍛えられた者たちだ。でなければこの度の戦いで生き残れまい。日差しが差し込む山道の暗い藪の奥からガサガサと音が近付いてくる。獣の吐息が聞こえる。灰色狼だ。獣とはいえ、操られるものを殺したくない。

「殺すな!」ドワーフが叫ぶ。「殺したとこで金にならんぞ!」

 ゲネウチが口のなかでなにかを唱えると、獣の動きが一斉に止む。ゼマランは驚嘆した。

「眠りの術か」

「私達と戦うより、眠る方がマシだと思ったようね。術のかかりがいい」

 ゲネウチは囁いた。この道は明らかに誰かが毎日行き来している。

「もうすぐよ。腐った魔術のにおいがする」

 ほどなく進むと陣の外れに小さな小屋があった。こぢんまりとした菜園の半分は毒草であるとすぐにドワーフも気づく。魔術師のやりそうな味付けだ。この住処は急ごしらえのものではない。狩人の山小屋よりもしっかりしている。今回の仕掛けのために前もって立てられたのだろう。分厚い樫の壁に頑丈なものだ。ゼマランが蹴破ると、中には灰色の長衣の男がいた。棚には硝子瓶が並び、人の物とも思われぬ頭蓋骨や骨、干した植物が吊してある。清浄な場所は部屋の中央にある銀鉢の水鏡であった。男が夢中になって覗き込んでいたそこにはタランガンと龍の姿が映る。水鏡から顔を上げると、男は無礼な客を睨み付ける。その者こそ誰あろう、ダン・シルバーと共に陰謀を企んでいた魔術師フェールハルトであった。

「何しにきおった!」魔術師は軽く腕を上げた。ドワーフはその持てる力の全てを使ってこの邪悪な老人の頭を叩き割にいこうとしていたが、戦斧はゼマランの腕から滑り落ちた。せせら笑う黒魔術師。異常に気づきすかさず行動できたのはゲネウチだけだった。生き物のように戸が閉まり、他の者たちは小屋から閉め出される。男たちが戸を叩くがびくともしない。

「貴様等は何故こんなところにいる。ム……エルフか」

 老人は精霊の力を持つ者は特に警戒していた。灰色狼に、特にエルフを襲わせていたのはそのためだ。屍肉を食い尽くさねば、己の身を害するに違いない。そう彼の直感が言っていた。かつて戦った緑の乙女、ミランザとの経験からで、おそらくそれは正しい恐れだった。

 ゲネウチは素早かった。光の矢が幾本も指先から放たれ、魔法使いを撃つ。フェールハルトの前で矢は砕け散る。障壁のようなものがこの老魔術師を守っているのだ。そして老人が何事か呟くと、棚の上からバラバラッとヘビが襲いかかる。光の矢がこの汚らしい爬虫類にトドメを刺したときが隙だった。フェールハルトの手から伸びた恐るべき光の剣がゲネウチを貫く。バラバラッとエルフの銀鎧が砕けた。だが致命傷ではない。脇に受けた傷からから血を流しながら、エルフは問うた。

「なるほど。やはり貴様〝内臓食い〟のフェールハルトだな」

 老人はびくりとした。百年を過ぎてなお生きる彼の名を知っているのはダン・シルバーだけのはずだ。だがその忌まわしい二つ名を知る者はいないはずだ。噂にしか残らない邪悪な魔術師の仇名。

 だがゲネウチにとって老人の驚く顔に興味はなかった。彼女はその優美すぎる指で己の髪をかき上げる。その頬にあったはずの火傷の痕はすでに消えていた。ゲネウチは問う。

「お前はあの龍を試験瓶フラスコ代わりにしおったな」

左様そうとも」魔術師は言う。「幼龍を手に入れてな。魔法薬を塗りたくった人間を何人も食わせて太らせ、毒をたらふく飲ませて抵抗力をつけさせた。まもなくヴォーダモンの間抜けな騎士共が傷つけた刃から運命毒が巡る。龍の肝臓は運命を人の身に宿す薬になる。

 その肝を食えばダン・シルバーは無敵の戦士になれる」

 ちら、と水鏡を見て面白そうに笑った。

「このジャマな剣士が死ねば、やつがれはあの毒龍の辛うじて生きている心臓を止めてやれるのだがな。だが不死身の龍を殺すのはダン・シルバーしかありえん。

 この龍の肝を食うことで、真の勇者がこの世に降臨するのだ!」

「そうか。やはりあの子はもう助からないのか」

 ゲネウチは寂しそうに言った。

 敵を目の前にして出す感傷ではない。けれどもう彼女はこれ以上我慢することはないのだった。聞きたいことを聞いたゲネウチにとって、もうこの男に用はなかった。無造作に魔術師を指差すと、先にフェールハルトが使った光の剣よりも細い、高密度の光の筋が通り過ぎた。魔術の障壁が砕け散る。フェールハルトは急いで防戦に回った。はじけ飛んだ魔法の力がキラキラと光り棚にぶち当たり干からびた虫や気味の悪い動物の死骸を真っ二つに裂いて回った。ゲネウチの脇腹の血はもう止まっていた。ゲネウチが更に本気を出さないのは動きを封じられたこの面倒見のいいドワーフを傷つけないようにするためだった。

 フェールハルトは必死に頭を巡らせていた。これほどの魔法の使い手なら名を知っている。姿も見たことがあるはずだ。だが、その誰にもあてはまらない。そもそも老魔術師がここまで圧倒されたのはあの夜、緑の乙女ミランザを相手したときに他ならない。

 あのときも緑の乙女は指をさしただけだった。光の筋が貫いて、即座に何人もが死んだ。「あなたの名前は?」

 そう美しい女、下半身が飛蝗バツタの緑の乙女はガタガタ震えるフェールハルトに尋ねた。

「私の愛しい人にも教えておきたいの。あなたのお話を。ね? 内臓が好きなお兄さん」

 フェールハルトの光の剣も、あのときミランザの術を参考に編み出した亜流の技だ。だがもちろんこのエルフは、ミランザではない。あのおそるべき緑の乙女とは似ても似つかぬ。

 ……光の応酬が途切れてフェールハルトは尋ねた。

「お前は、どこでやつがれの名を知った」

「友から」

 面白くもなさそうに女エルフは答えた。

「年に一度の逢瀬でお前のことを聞いたよ。

 あの子を孕ませ、子を食おうとしたそうだな。つくづく内臓が好きだな。この内臓食い」

「お前の名は」老人は壊れた声を出す。

 我が名は、と黒い女が答えた。

「黒き魚のゲネウチ」

 おう! フェールハルトは叫んだ。

「ドワーフ! そこの女を殺せえええええええええええええ!」

 ゼマラン・サバランの両脚が踏み込んだ。フェールハルトは見誤っていた。毒にまみれ、剣士の猛攻を受け命を失いかけている龍を操りつつ、恐るべき敵の魔術を凌ぎ続けた自分の力など、もはやほとんど残っていないということを忘れていた。もはやドワーフゼマラン・サバランを縛り付ける魔術の鎖などないも同然だった。引き絞り切った綱が音を立てて軋み、弾け飛ぶような爆発が起こった。音も光もない爆発だったが魔法使いは大きくのけぞった。

「先祖の形見を使わせやがって」

 魔術師の肺腑に深く小刀を突き入れながらゼマランは唸った。曽祖父から引き継がれた小指程度の長さの小刀。ただそれはゼマランの親指よりも太く固かった。

 心臓から頭蓋まで引き裂かれた魔法使いはもんどり打って倒れる。太い足の裏がその喉笛をへし折った。振り返ったドワーフの前には、黒々とした髪のエルフが立っていた。肌ももはや黒く、その真の姿が明らかになっていた。鱗のあとさえ見える彼女に、だがゼマラン・サバランは言った。

「タランガンの元へ!」

 何も尋ねず、ただ仲間を信じ呼気を震わせるドワーフに、ゲネウチは頷いた。

 さて、祭りに戻ろう。

 ダン・シルバーは陣屋を出て、意気揚々と戦場を見下ろせる斜面から戦う者どもを見ていた。みるみる戦士たちが食われていく。龍の食欲は凄まじい。ヴォーダモンの騎士たちも例外ではない。後詰めで踏ん張っている団長の顔を側で見られないのが残念だった。

 祭りの日だ、とダン・シルバーは思った。

 これは祝祭だ。自分を遙かな次元に導く祭りなのだ。

 涼しげな表情を浮かべていたダン・シルバーが軽く眉間に皺を寄せた。裾野を下りて行く一人の男を見たからだ。大跳躍をし、乱戦のなかに飛び込むと、彼は上服を脱ぎ捨てて、その煌めく肢体を曝け出した。そして下げていた皮袋から見慣れた魔法役を全身にかぶった。

 あれはタランガンとかいう小僧だ。ダン・シルバーは思った。

 小僧は強かった。幾度か龍に致命傷を与え、自分もまた傷ついた。だが誰よりも龍を相手に上手く立ち回り、剣を振るった。そこに駆けつけた男にも見覚えがあって、ダン・シルバーは身を乗り出した。あれはサラインのダジだ。凄腕の毒使いで、用心深いが、ダン・シルバーにとっては扱いやすい男でもある。そのダジがタランガンに向けてなにかを投げた。剣がその薬瓶を叩き割り、液を己の剣に浴びせかける。毒でもかけたのだろうか。あの龍に毒など効果がないというのに。剣は真っ直ぐ龍を貫き、青年は、そのまま龍に抱擁した。その腕が、輝いたように見えた。龍は動きを止め首を垂れる。思わずダン・シルバーの口から声が漏れた。想像したくもないことが脳裏をよぎる。

「おいおいこのまま殺してはしまわないだろうな」その言葉に応えたように、黒い龍の身体から皮が一枚べろりと剥けた。毒に染まる前の龍の肌が現れた。

「おいおいおい何をしているフェールハルト」雄弁な男の舌が初めてもつれた。

 もはや一刻の猶予もなかった。剣を手に取り、ダン・シルバーは駆け出していた。殺さねばならなかった。龍も、あの簒奪者もであった。有象無象をを肩で押しのけて駆ける。

 ダン・シルバーは叫哭さけびなく。

 いそげ、いそげ。祭りに遅れるな。

 そしてタランガンはこの龍が遂に死ぬのだと理解していた。

 サラインのダジが寄越したのは、あの薬。キャセルの薬だった。龍に食わせた魔法薬をつかって、いつまでも死なぬ化物を作っていたのなら、そもそも魔法薬の利き目を消してしまえばよい。先にダジからもらった薬を剣に塗っていたが、もう一押しがダジの投擲だった。割った薬瓶を剣に塗り龍を刺せば、あとは力を使えばよかった。毒味役であり護衛として友の囮になるため、教え込まれた王家の技だった。よい術、よい薬の効果を格段に飛躍させ、仲間を護り、愛する友を守る為に教えられた技だった。それなのにどんな解毒の術も、握り締め続けた手も効果なく、エリンは死んだ。真紫に肌を染めて引きつって死んでしまった。満足げな笑みを浮かべていたのは何故だろう。この技を人に使った。他の人にはよく効いた。龍にもきっとよく効くだろう。友にだけ効かなかった。己の半身とも想ったエリンには。

 龍の爪は鋭く胸を切り裂き、毒の染みた牙は何度かタランガンの肩をかすめ激痛を起こさせている。だが龍退治の手順に則って、龍の喉を掻き切り続けたタランガンは恐るべき龍の吐息からは身を守ることが出来ていた。「龍の恐るべきはその吐息さ」剣術の訓練のさい、友はそんなことを言っていた。「エリン、お前は龍と戦ったことないだろう」そうタランガンがいうと彼は、いや、彼女は満足そうに「戦うときは一緒さ」と言った。

 龍は異変を感じていた。もはやその身を縛る命の薬といく種類もの毒は効果を失って穴という穴から流れ出し凄まじい匂いを立てている。キャセルの薬が、タランガンの力を幾倍にも高めて龍の身体を巡っているのだ。

 龍よ。タランガンは想う。

 操られ道具にされていた、ひとりぼっちの龍よ。

 龍が正気を取り戻したのは、龍を操る魔術師をゲネウチとゼマラン・サバランが上手くやったからに違いない。ようやくこの龍も生の戒めから解き放たれるのだ。ならば。

 いいぞ。共に死のう。

 タランガンは清浄な気持ちでいた。いかなる企みがこの不死の龍を創り出したかはもはやどうでも良かった。黒い龍が、おそらく本来の白い鱗に戻ったのが嬉しかった。

 胸に受けた傷は戦いの度深くなり、心臓からは血が噴き出す。タランガンの力は急速に萎えていった。もたれるように差し込んだ剣の柄を握ると、龍の身体はタランガンの剣を受けて容易く裂けていった。気取ったゼリー寄せの具ほどの硬さもない。

 龍の顔を見上げた。タランガンの顔は涙で貼り付いていた。龍の目は今、始めて見せる知性と、喜びに溢れていた。もう治らないことを知って喜ぶ悲しい生き物を見て、涙を流さずにはいられなかった。力を失って、それでも戦った勇士を押しつぶすことなく首を横たえ白龍は息絶えた。周囲がおおっと沸き、龍の血潮に倒れ込む勇者を見て、嗚呼、と声をあげた。

 そのまま眠るように、死の淵にいたタランガンはふと芳しい香りに気づいた。それは傍にある龍の臓器から香ってきた。食べろ、と心の友が言った。俺はお前に生きて欲しいのだよ。

「立てよ、我が半身とも

 瓜二つだった友の声を聞いた気がして、タランガンは龍の死骸に手を伸ばしていた。地虫が這うように近付き、内臓の、一番香りの濃い部分に口づけた。誰かが叫んでその蛮行を静止させるべく駆け抜けてきたが、タランガンはその果実のような香りにかぶりついていた。

 ああ、声が漏れた。いつの日にか、友と食べたものと同じ味がした。

 あの災厄の日に、友を失った日に友と食べたものの味。運命毒の味。

 あの日から復讐心に燃えながら、どこかで死んでもいいと思っていた。毒を作った張本人サラインのダジを見つけながら、剣を振るうこともできなかった。毒味に失敗して、友を殺してしまった自分は自分が許せなかった。もしエリンの代わりに自分が死ねたのなら、満足した笑みを浮かべていたのはタランガンの死体だっただろう。

 それでも、いまこうして、運命毒を含んだものの命を食いながら、タランガンは理解する。

 生きろという誰かの願いと、生きるというタランガンの意志。

 これこそが、タランガンに与えられた、運命毒のことわりなのだ。

 今、タランガンが運命さだめた道なのであった。

 ダン・シルバーも己の運命をさだめたかったのだろうか。だが邪な願いはもはや届かない。

 味もわからず食べるタランガンは、いつのまにか立ち、その巨大な臓物を持ち上げていた。食い続けるタランガンがその男に気づいたのは、全身から痛みがすっかり引いた頃だった。

 やめろと誰かが叫んでいた。押しとどめようとしたサラインのダジをしこたま殴りつけて昏倒させ、血の海に駆け込んできた男は、タランガンに切り付けるでもなく這いつくばっていた。両手を掲げてただじきを乞うていた。

「俺に食わせてくれ!」そう銀鎧を汚泥で汚した男は伏し拝んだ。

「そいつを食うために、手を尽くしたんだ、たのむ!」 

「すまない」タランガンは言った。

「いい部分は全て食ってしまった」

 ダン・シルバーは放心した。いま目の前に立っている男から感じる、ただの人間とは違う気配に全身を震わせた。そして不意をついてタランガンを突き飛ばした。手からこぼれる肉の塊は地べたに落ち、ダン・シルバーは犬のように食い始めた。

 はじめは甘く感じた肉に苦味が混じる。それはクソの苦味であり毒の汚汁だった。構わなかった。ダン・シルバーは龍の残骸にまだ清らかな神秘が眠ると信じて食い続けた。

 その意地汚いありさまに、人々は完全に呑まれて、立ち尽くす。側に立つタランガンでさえ何もできなかった。そして遂に、おお! とダン・シルバーは叫んだ。

「なんだこれは! なんだこれは‼」

 ダン・シルバーの顔がボロリと剥げ落ちた。

 白い肌が落ち、黒い鱗混じりの肌が見えた。

 一声、吠えた。もはやそこにいるのは輝かしいダン・シルバーではなかった。己の欲望に食い尽くされたよこしまな何かがいるだけであった。

「おばえがあ!」長く伸びた舌を振り回しながら白銀の司令官は青空高くわめいた。

「おばえが、ぜんぶ、わりいんだぁ! くってやる! おばえをくっでやらぁ」

 長く伸びた爪、血のにおいのする息、頭骨は固く変じて柔らかな頭皮を食い破る。ダン・シルバーはこの憂いの表情をした青年に襲いかかったつもりだった。

 ただ一振り。タランガンの剣が綺麗にまっすぐな線を描いた。

 右半身が膝から崩れ落ちた。残った左半身は気付かずに必死に右手を振っていた。倒れかかったのに、右足で踏ん張れなかった。無駄であった。ダン・シルバーは地べたで臓腑を撒き散らしている己の右半身に倒れ込んだ。

 乾いた大地に広がる鮮血と悍ましい死体、血塗れで立つ青年と白い龍の死骸を見て、おずおずと生き残りたちがおりてきた。男たちは蝿のように残された遺骸に群がるが、タランガンに近寄ろうとは決してしなかった。

「触るな!」とタランガンは吠えた。

「いかなる者もこの遺骸に触れるな! 邪魔する者はこの俺が相手だ!」

 そこに一人、房飾りのある兜を被ったヴォーダモンの戦士がちかづいてきた。タランガンは剣を構え相対峙する。ヴォーダモンの団長だ。

「お前はこの神秘の龍を独り占めするのか」

「これは毒により息絶えたものだ。お前たちもこの男のようになりたいのか」

「まさか! 私が問いたいのはお前がどうしたいかだ」

 タランガンは一瞬気弱な表情を浮かべた。この巨大な龍の遺骸をどうするか、彼にも明確な考えがあったわけではないのだ。サラインのダジが言った。

「こうすればいい」

 龍は焔をあげて燃え始めた。腕利きの薬師が隠し持っていた着火する金属は、龍の蓄えきった脂に燃え移って瞬く間に燃え広がった。龍の死骸に近付きつつあった者たちは悲鳴を上げて逃げる。さすがにタランガンも火炎から身を離したが、誰より龍の死骸の側にいた。何もかも燃えていく。清められた龍も捩れた死体も全て。サラインのダジは肩をすくめた。

「運命毒の回った龍の死骸など、恐ろしくて叶わん。ダン・シルバーのような醜い化物にはなりたくあるまい」

 サラインのダジがきっぱりと言ってのけ、タランガンはほっとした表情を浮かべた。

「俺はこの火を見届けてここを去る」タランガンは告げた。

「この龍を口にした俺は、弔いの義務がある」

「なるほど、あい分かった、年若い勇者よ」団長はうやうやしく礼を取った。

「今回は我らにとって手痛い日となった。手練れは死に、策謀に軍団の名誉は穢された。

 だがお前のような戦士を見つけたのはせめてもの僥倖だ。もしお前にその気があるなら、ヴォーダモンに来い。歓迎するぞ」

 

「終わったな」

 そういうサラインのダジにタランガンは首を横に振った。

「まだ、復讐は残る。俺の半身を殺せしめた男に、ふさわしい懲罰を与えねばならん」

 赤々と燃える炎は天を焼いていた。いまさらのように遠くから硫黄のにおいがしてくる。山を覆い茂る緑は闇にかぐろく照らし出され、星は清めの焰のうえで色褪せていた。

「タランガン、私はあなたを恨むが憎みはしない。あの龍は私の友の子だった」

 ゲネウチはタランガンに言った。「あの龍の名は?」タランガンは素直に問うた。

 ゲネウチは応えた。

「フリーア。白き翼の龍、フリーア」

「ならゲネウチ。俺はフリーアのタランガンと名乗らせて貰いたい」

 ゲネウチは若き勇者の瞳を見た。龍の運命さだめを背負った男の目だった。

 その瞳にゲネウチが映っていた。黄金の髪と白い肌もつ、あの女ミランザの姉妹のような装いの。

「ああ」目を閉じて、ゲネウチは言った。

「我が名にかけて、お前は今日からフリーアのタランガンだ」

 魔術師フェールハルトの小屋での有様を知らないタランガンに、ゲネウチの言葉の真意はわからない。ゼマラン・サバランも何も言わない。ただ、秘密の天秤は自分よりゲネウチに傾いたと知っただけだった。割り込むようにドワーフがタランガンの肩を叩いて言った。

「やれやれ、ほとんど金にはならなかったな、ええ?」

 ゼマラン・サバランは陽気な声でゲネウチの腰にも手を回し、背後の戦士たちを指さした。「俺は連中と一緒にこの龍の巣を漁りにいくぞ。二十人戦士がくっついてきて、魔法使いの野郎にはちっとも役に立たなかったからな。お嬢ちゃん文句は言うまいな」

「ドワーフらしい漁り屋根性だ」ゲネウチが唇の端を上げた。

「いいだろう。報酬を私は出せない。気の済むまで漁るがいい。私も同行する」

「タランガン、お前はどうする」

 サラインのダジが尋ねるとぶっきらぼうに青年は。

「ヴォーダモンの長に言った通りだ。俺はこの火が燃え尽きるまでここにいる」

「タランガン、俺は……」

 サラインのダジが何か言おうとしたとき、タランガンは微笑して押し留めた。

「早くここを去るがいい、サラインのダジ。俺がお前を斬らないのはただの気まぐれだ。

 それにしてもまったく。

 お前が揚げた芋になにかをかけようとしたとき、叩き斬らなくてよかったぜ」

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勇者タランガン~運命毒の理~ 黒川十九彦 @julikiss

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