第2話 ドネトール麓

               2

 

 街から出て街道沿いに進んでいくと彼方に麦畑が見える。道を逸れて馬を走らせれば芋畑のある畦道に突き当たるだろう。タランガンとサラインのダジの乗る馬は街道をただひたすらに走っていた。オリーブの林が遠くに見える。山に近付くにつれくだんの芋畑が見えてくる。大地の恵みが少しでもあれば食うに困らぬ根を生み出す芋は飢えるものたちを救い、人の数を増やさせしめた。秋の終わりにようやく収穫の済んだ麦畑には藁の山が積まれている。

 遠くに肥えた牛の姿が見える。家畜に餌を食わせる余裕が出てきた証拠だ。あれがこの大陸の人々の腹を満たすのだろう。人の食欲は果てしない。

 サラインのダジは馬の腹を軽く蹴った。路は広く、馬はよく従った。気持ち良く馬を走らせることができるのは、タランガンの馬がぴったりついてくるからだった。酒場で会った青年はしっかりした乗り手だった。馬を乗り換えても、タランガンはすぐに馴染んだ。相当に教育を受けているに違いない。北方のレルオーンに住む蛮族は騎乗を得意とするがタランガンのように洗練された物腰ではない。だが良家の子弟と呼ぶのには眉間に刻まれた苦悩の皺が深すぎた。仕える主を失った騎士だろうとダジは予想した。正規の騎士には少し若いが。この年齢でちょっとは世慣れた旅人であるダジに肩を並べられる男はそういない。才能を生かす努力をしたのだろう。

 ドネトールに差し掛かり二人は馬を下りた。馬はタランガンと別れがたいようで、何度かその周り回り、顔を舐め、尻を撫でられてようやくダジの馬と共に帰路についた。

「ずいぶん好かれたもんだな」

 すねた中年男の声にタランガンは笑った。

「なに人なつこい馬もいるさ」

「俺の馬は荷を下ろしたらそれまでだったぜ」

 ふてくされたダジは山を登り始めた。

 ドネトールはこの山一帯の地域を言う。硫黄の燃える腐れ谷まで含むこの領域はかつては湯治場として栄えたのだという。今は野うさぎが遊ぶばかりだ。腐れ谷はこの山を越えた先で、硫黄のにおいはしない。濃密な木々と湿った土の匂いがするばかりである。二人の男は半日ほど歩いて沢に出た。目を凝らすとドワーフの天幕はすぐに知れた。人の姿も見える。どうもちょっとした宿営地となっているらしい。

「随分と呑気だな」

 サラインのダジが素直な感想を述べた。まるで山遊びに来たようだと。

「少なくともゼマランは無事なようだ」

 こちらに近づいて手を振る小柄な男を見てタランガンは言った。

「おお来たかタランガン、待ちくたびれたぜ」

 兜を目深にかぶり、顎髭を伸ばしに伸ばした小男が両手を広げ、タランガンに抱きついた。偉大な戦士であり鉱夫であり、沈思と衝動を友とする妖精人ドワーフは旧交を分かち合う。

「久しぶりだなとっつぁん」

 両手を広げた男にドワーフのゼマラン・サバランは「ダジか」と吐き捨てて抱擁した。アトーゼ王国でダジは幾度かこのドワーフの組合仕事を受けたことがある。気塞ぎの貴婦人のお相手から、商人の護衛まで。だからゼマラン・サバランは、ダジの本職も知っている。

「占い屋がなんでこんなところに」

「占い屋?」

 タランガンが尋ねると、ダジは頭を掻いて「そっちはまだ話してなかったな」と言った。「あんたは毒使いじゃなかったのか」

「普段は占い師、魔術師だよ」

「魔法を使うのか」怪訝な顔をするタランガンに。

「俺が使うのは魔の術さ」ゼマラン・サバランは鼻で笑う。

「ペテン師よ、こいつは。魔法なんぞつかいやせん。占いの手札を使って客から悩みを引き出すのだ。女教皇が逆立ちしたり、悪魔が塔から落ちたりしてな」

「大抵はお嬢さんの恋の悩みさ」ダジは言う。

「相談相手の意中の君に、昂る薬を仕込むのが占いかよ」

 せせら笑うゼマラン・サバランにダジは肩をすくめる。

「星の決定だ。俺が決めることじゃない。運命は選び取る者の手の中にある。媚薬になんの力があるものか」

「なあ聞けよタランガン。こいつは占い客の思い人の部屋に忍び込み、こっそり薬を仕込むのさ。鍵開けまでしてな。暗殺もお手のもんだと思わんか?」

「やめてくれ」本気でダジは嫌な顔をした。「俺の毒は人を殺さない。いや、殺せる毒はもう人には使わない」

「しかし龍を殺すのだろう?」

 静かな声でタランガンが言った。その冷ややかさに軽口を叩いていたゼマラン・サバランでさえヒヤリとした。ドワーフは慌ててこの毒使いを庇う。

「タランガン、俺から言っといてなんだが、ダジの野郎は毒を使うが暗殺者じゃない。恋の媚薬も誰かに高く売りつけちまえばいいものを、信用できないから売りゃしないんだ。部屋に忍び込んで薬を仕込むなんて言いすぎた俺の冗談だ。許せ」

「いいんだ。毒使いなのは変わらない。忍び込むのも得意なんだろう?」

 突き放すタランガンにドワーフは「普通毒使いなのは隠すだろう」とダジを見上げた。サラインのダジは苦笑して頭を掻いた。

「しかしテメエが来てくれたのはありがたい」

 ゼマラン・サバランはその節くれだった腕をダジの腰に回し、沢のそばの天幕に導いた。

「正直俺はタランガンが来たらこいつらを連れて戻ろうと思っていたところよ」

 天幕を開けるとムワッと血の腐ったにおいが漏れてきた。二人の男が横たわっていた。巻かれた布は肌に貼り付いてかわいている。天幕は工夫がしてあって布の一部が開くようになっており、虫の侵入を防ぐための小さな網が取り付けられている。それでも死にかけている者たちに容赦なく蠅はたかっていた。助かる見込みもなく弱り始めている。

「昨日までは皆ここから這い出る力もあったんだがな。今はご覧の通りだ」

 大声が怪我人たちの傷に障るかのように、ゼマランは囁いた。

「明日の朝まで命があったら、山越の運試しを仕掛けようと思ってたところだ」

「ひでえ火傷だな爺さん」

 ダジは忌ま忌ましげにつぶやいた。呑気な宿営地どころの話ではない。

「俺の軟膏なら火傷は多少楽になるがね。痛みはなかなか引かねえよ」

「だからそいつはタランガンの役目なんだよ。こいつなら連中をちったあ楽に出来る」

 ゼマラン・サバランは言った。サラインのダジは、神妙な顔で病人を見るタランガンを観察した。顔に蠅が貼り付いても、この青年は身じろぎ一つしない。ゼマラン・サバランは世慣れた毒使いに熱心に語りかけた。

「病院でもあるめえし、おめえの薬だけじゃあ、こいつらは助からねえ」

「とはいえこの薬師殿の指示にまずは従おう、ゼマラン」タランガンは言った。

「俺の力も万能ではないぞドワーフの親父」

 この天幕に横たわる男が一番酷い傷を負っていたのは明白だった。サラインのダジは湯を沸かすように指示した。細かく裂いた木はゼマラン・サバランの尽力で大量に用意されていた。黙々と仕事をさせればドワーフにかなうものはなかなかいない。大鍋に湯を沸かし、その半分で布を洗い残りで薬湯をつくった。甘く苦いかおりが沢に広がる。

 ダジは弱る男の身体をダジは拭いてやり軟膏を塗ろうと膝をついたその隣で、タランガンは横たわる男の身体にそっと触れた。怪訝な顔をしてダジは薬を塗った。そのときだった。男はうめき、身をよじる。汗がどっとふきだす。塗り薬が驚くほどしっかり傷口にはりつく。

「おい、これはいったい」

 ダジがタランガンの貌を見ると、その青年の額にも粟粒のような汗がびっしりと浮かんでいた。横たわり喘いでいた男の方は「お」と軽く驚きの声をあげる。

「痛く、ない」

「この男はもう大丈夫だ」

 タランガンが囁いた。

 白く練られた軟膏は分厚く塗ることで傷口に膜を作る。傷から入る毒を中和し、鎮痛の作用もある。ただしたっぷり塗るのが必要だ。それがどうだ。タランガンの大きな手が触れているときに薬をつかうと、薬の量は半分でよく、威力は倍であった。「まるで王の慈悲だ!」叫ぶダジに強張った笑いを浮かべて「まず治療だ」とタランガンは促した。怪我人は火傷が多く、次に打撲が続いた。細かい傷は数えきれない、火傷はいかにサラインのダジの薬とはいえ跡の残るものばかりだった。

「二日沢の水で冷やしてもひかない痛みが」

 呻くように赤ら顔の男が言った。血で強ばった服を着替えさせる。彼はもう痛がらない。

「いまようやく痛みがひいた……ありがとう」

 薬湯を飲み皆、昏々こんこんと眠りについた。結局ゼマラン・サバランとサラインのダジ、それからタランガンの三人だけが燃える焚き木の前で俯いて座っていた。日は落ち始めていて、さっきまで穏やかだった森の影を徐々に深くしていった。

 サラインのダジはいろいろと話を聞きたかった。タランガンの術は僧侶のものか。それとも、人の身に善きこと起こるべしの祝福を込めた、王の血族の術なのか。

「僧侶ではないよ。そして俺は王族じゃない。ただ、ちょっと習ったことがあるだけなのさ」

 旅を共にして、タランガンはダジに身の上話などしなかった。龍涙亭で名乗ってからは、自分のことはずっとはぐらかしてきた。思わずダジは身を乗り出す。普段剽軽なダジの目元がきらりと輝いたとき、鋭い角笛が聞こえた。

「ダン・シルバーの野郎だ」

 ゼマランの貌が歪んだ。親父さんの手甲が、ガシャンと自分の鎧を撃つ。

「俺はお前が来るのを待ってたんだよタランガン。灰色狼退治なんてちょろい仕事だ。俺一人でもなんとかなると思っていたんだ。他の冒険者とも合流できたしな」

 この天幕で休んでいる男たちもその一群の一つだったらしい。連れが来るまでここで陣を張るというドワーフの好意に甘えて、自分たちの重い荷物を預けていったのだという。

「しかし俺はピンときたね」ゼマランの胡桃のように開いた瞳がきらりと光った。

「狼狩りの癖に多すぎるんだ。冒険者が。俺はここで知り合ったエルフの女とことの次第を怪しがった。そりゃそうだ。受けた依頼以上の厄介ごとはまっぴらだ。だが他の連中はダン・シルバーの元に駆けつけたってわけさ。腕に覚えはあるし、もっといいもうけ口があるならってな。エルフは心配だとこの連中についていった」

「エルフの女?」タランガンが眉を寄せた。

「今いるのは男ばかりだぞ」

 ドワーフは何も言わず焚き火をかき回し薪を加えた。

「その有様がこれだ。ダン・シルバーに言われて腐れ谷まで向かい龍に襲われたと」

「信じたのか?」

 ダジが訊く。ドワーフは首を振った。

「龍を信じるもなにもねえな。見ての通り戻って来れたやつらはズタズタで火傷まみれだ」

 ゼマラン・サバランにもう一度タランガンが尋ねた。

「エルフの女はどうした。死んだのなら弔ったのか」

「あっちで死んでるよ」ゼマランは吐き捨てる。

「土のうえでひっくり返ってるのがそれよ」

 タランガンは立ち上がって周囲を見渡す。ふと意図せぬものをみかけた。岸を渡る鎧の軍勢だ。沢の流れる音にまぎれて移動してくる音に今まで気づかなかったのだ。「おい」とタランガンは仲間に声をかけようとして、今度こそ異変に気付いた。鎧の行軍を恐れたのか森の藪から灰色狼が飛び出してきたのだ。沢の浅いところを何匹か駆けてくる。いや、逃げてきたのではない。なにかを探しているのだ。やがて何かに気づいたか沢をまっすぐ進む。こちらには目もくれない。

「灰色狼だ!」

「いけねえ!」ドワーフの戦士は斧を握る。「娘っ子の死体に向かってるぜ」

「灰色狼の増える理由がわかるだろ」

 ダジも素早く立ち上がる。狼が死肉をあさりたければあさるがいい、というのは何も知らぬ者である。死骸を食い尽くせば次に狙うのはタランガンたちだ。

 素早く飛び出したタランガンは雄叫びを上げて灰色狼に突き進んだ。灰色狼共は不意を突かれてびくりと止まった。タランガンの目の端に、横たわるエルフの女の姿が見えた。落ち葉に埋もれていたのが顔の部分だけ出ていた。眠っているような白い横顔にくすんだ金色の髪をしている。対峙した灰色狼は猛然と吠え、襲いかかってきた。タランガンの一打ちで狼の頭が半分飛び散り頭蓋の中身をぶちまけた。返す手ですでに牙を立てようとしていたもう1匹を串刺しにする。鮮やかな手並みである。3匹目は滑らかに取り出された短剣に牽制されてとびずさった。手斧がまっすぐに飛んでいき土の上を跳ねて転がった。ドワーフの投擲だ。猛り狂ったもう2匹のうち1匹がギャンと鳴いてもんどり打った。サラインのダジのスリングが命中したのだ。盛り上がったドワーフの筋肉が縮み、伸びたときには戦斧は灰色狼の脇腹に食い込み、獣は苦しげな声を上げた。夢みるように輝く金色の瞳が宝石のように剥き出しになったまま灰色狼を死の痙攣が襲う。

 襲いかかる者たちにあくまで刃向かう灰色狼であったが、5匹程度では大した抵抗もできず手練の三人に打ちのめされる。最後のダン・シルバーの角笛が鳴り響いたとき、タランガン一行の足下には狼どもの血に濡れた骸ばかりが散らばっていた。血に濡れたゼマランに対してタランガンは返り血を浴びていない。タランガンは横たわるエルフに近付いた。落ち葉から出ている顔の瞼の上から左半分の頬から顎にかけ火傷が広がり、かきわけた落ち葉の下から青い血管の浮いた白い肌が見えた。髪も左側はほとんど燃え落ちており、素早く払ったのがよかったのか、その特徴ある尖った耳は火傷の災禍を免れていた。上衣は焼け溶け肩から鎖骨から脇腹にかけて醜くひきつれ、痛々しいほどであった。形よい乳房は粘土で固めたような不気味な白さをもっていた。タランガンは急いでその手をエルフの死体の胸に置いた。青年の眉間の皺が太くなり、こめかみに血管が浮いた。狼を相手に戦ったときよりも苦しげな汗がびっしりと浮かぶ。サラインのダジはハッとした。これはさっきの奇蹟と同じ汗だ。

「ダジ、薬を塗ってやってくれ」

 タランガンの低い声に躊躇するダジではなかった。すぐに軟膏を取り出しエルフの火傷に塗る。途端、死んでいたはずの女の瞼がはっきりと見開かれた。星を宿したような瞳が己の肌に触れる男を見た。そしてなにかを自分の身体に塗っているもう一人の男を見て、ぶるぶるっと身体を震わせる。

「あなたたちが、助けてくれたの」

 エルフは乾いた声で言い、軽く咳き込んだ。まだ、喉に湿り気が戻っていない証拠だ。腐り始めた粘土のようだった肌にうっすらと精気が宿り始める。ゼマランが喘いだ。

「なんちゅうこっちゃ!」

「精霊の血の濃いエルフは仮死状態になることがあるのだ」タランガンは言った。

「仮死状態になって癒やしの力を傷に集める」

「そんなこた俺だって知ってる。でもよう、死んでいたんだ、本当に」青ざめたドワーフはかわいそうなほどうろたえていた。

「土に軽く埋めて、と言われて、俺は」

「誰もあんたが死にかけたエルフを放置したなんて思ってねえよとっつぁん」

 サラインのダジはドワーフの肩を抱いた。

「エルフとドワーフの不仲は有名だが、青糸杉のゼマラン親父はそんな不義理じゃない」

 エルフの女は身を起こして落ち葉を払い落とした。妖精人のなかでもエルフは羞恥心と縁遠い。それは彼らのもつ清らかな生命力というものと関わりがあるのかもしれないとサラインのダジは想う。それでも彼女はタランガンが天幕で上を覆うものを用意しようと提案したことに素直に礼を言った。年齢はおそらくこのドワーフより遙かに上であろう。タランガンの祖父が子供の頃、彼女はすでにこの世にいたはずだ。ただ老いる苦しみを身に宿していないためかこのなかの誰よりも若々しく見える。額の汗を拭ってタランガンは立ち上がり、灰色狼どもの死骸を見た。そして訝しげにそのうちの1匹に近寄るとそっと頭に手を触れた。

「何故瞳がまだ燃えている」

「明けの明星にかけて!」ダジが毒づいた。「こいつは傀儡の術に違いない」

 灰色狼どもを操り、死骸漁りをさせている奴がいるということだ。灰色狼は牧畜を襲い、旅人を襲うこともある脅威である。しかし同時にただの動物である。これで不利になっても5匹が逃げなかった理由がわかった。灰色狼はその自由を奪われ、無理矢理使役させられていたのだ。打ちのめされたような表情のタランガンに手の下で灰色狼は徐々に強張っていく。「悔しいな、お前」呟いたタランガンの言葉に、灰色狼のこうべが反応した。死にきれていなかったのか、それともタランガンの手のぬくもりが死の苦しみをわずかに癒やしたのか、灰色狼の口がタランガンの手に向かい、ペロリと舐めた。温かな舌と最後の獣の吐息が、タランガンの言葉への答えだった。己にかけられた邪悪な魔法への最後の抵抗であった。己と己の仲間を屠った男の方が、この無謀な戦いを挑ませた者よりも遥かに信用できるという親愛の行為だった。その一舐めの友情を残して灰色狼は逝った。

「俺はダン・シルバーのところへと行かねばならん」タランガンが言った。

「この邪悪な魔術の企てに奴がどれほど噛んでいるかはわからんが、それでもこの仕掛けに無頓着でいるほど間抜けではあるまい」

「もとより俺はその気だ。一応奴に雇われている身だからな」

 サラインのダジは憎々しげに言った。

「しかし奴の真意は龍退治だけではないかもしれん。エルフの死骸を哀れな狼に襲わせた魔法使いと関わりがあるのやらも含めてな」

「全く! 〝臓物食い〟の魔術師みてえな野郎だ。そいつは」怒るゼマラン・サバランは言った。このドワーフは自由気ままをないがしろにする者を許してはおけないのだ。

「精霊の内臓を食って力をつけたという邪悪な魔術師よ。百年は生きてるらしい。黒き魚のゲネウチのような悪食だ。なあ、エルフの嬢ちゃん、あんたもそう思うだろ?」

 自分たちよりも年下のくせにいつも年下呼ばわりしてくるドワーフの冗句をエルフは好まない。このエルフの女もゼマラン・サバランの言葉に皮肉な微笑を浮かべたが、その言葉に怒るより先に言うべきことは心得ていた。

「確かに黒き魚のゲネウチは、船を食らい人を食らう悪食という噂だな。このドワーフの言う通りだ。緑の乙女と殺し合う邪悪な化物さ。あの女ミランザだって食べちゃいたいくらいだ」

 にんまり笑って白い肌のゲネウチは己の頬の火傷の痕を撫でた。指先に金の髪が絡む。

「ただ、そんなことより、この男は当たり前のドワーフだが、ドワーフの当たり前以上の信義を私にしてくれた。私ももう一度あの龍の元へ連れて行ってくれ」

「身支度は急いでくれ」タランガンが言った。「日が暮れる前に本隊と合流したい」

 タランガンはエルフに説明した。灰色狼が沢を駆けてくる直前、一揃いの銀甲冑を纏った者たちが沢の遠くに見えたことを。おそらく彼らは軍勢で相当の数があったことも。

「ヴォーダモンの騎士ね」彼女はゼマランに預けていた荷物から、分厚い上着と編み上げられた銀鎖の鎧を手早く身につけて言った。

「ダン・シルバーが準備していた連中よ」

「随分いい鎧を預けてたもんじゃないか」ダジが驚いて口を挟んだ。

「エルフ銀の鎧だろ。なんでこれを先に着てかなかったんだ」

「手の内は全部見せられない」星を孕む瞳がダジをまっすぐに見た。

「私はザニターリが生きているとは知らなかった。その確認だけのつもりだった。無謀な冒険者たちのお守りのためにではなくね。私はそれほど優しい女ではない」

 ぬるんだ薬湯を啜り飲み下してエルフは言った。

「私の名前はゲネウチ。海原うなばらのゲネウチ」

 闇の精霊の名を持つエルフはタランガンの手を取り口付けした。

「礼を言う、癒やし手と毒使い。お前たちのおかげで私の傷も痕なく癒えるであろう」

 闇の精霊ゲネウチは光の精霊ミランザと別れて龍と共に戦った。ゲネウチは人間を厭い、滅びゆく龍を支えた。天地は縦に割れ稲妻が出来、海は横に裂かれ波と海が両断され波は雲となった。共に別れ難き姉妹の魂は泣きながら殺し合ったと伝わる。一年にただひと時だけ二人の精霊は姉妹の口付けを交わす。そのとき龍と精霊はかつて兄と妹であり姉と弟であり友であり恋人であり夫婦であり親子であった日を思い出して踊るのだ。伝承のゲネウチは黒髪の女だった。黒き大魚に変ずる鱗をもち、あの祭りの日フレールの女のように黒ずくめの女だった。しかしエルフのゲネウチは光り輝く鎧と煌めく金髪を持つ肌の白い乙女であった。呪いのように引き攣れた火傷の跡は残り、左目の瞼は右に比べて閉じているがなお美しかった。この傷が癒えると言うゲネウチの言葉が、たとえ事実でなくタランガンとこの薬使いをおもんぱかるものであったとしても、充分に二人を喜ばせた。また、〝臓物食い〟なる魔術師を引き合いに黒き魚のゲネウチの名を出したゼマラン・サバランを揃って糾弾した。このエルフも仮にも同じゲネウチの名を持つものであると。ドワーフはその意味に気づいてしどろもどろにエルフに謝った。俺が言いたかったのは魚女のことで、と。美しい女はゲラゲラ笑って許した。

 沢を渡りダン・シルバーの元へ向かうのは四人だった。天幕で休んでいた男たちは支度整い次第すぐに人の世へ引き返すと誓った。ここから先は悪夢が住まう場所だ。

「こころせよ薬使い。奴に毒は効かない」

 片腕を失った男が言った。折れた槍は杖として最後の仕事をしようと踏ん張っていた。

「この槍の穂先にはずっくりと沼地の毒が塗ってあった。象でさえ10秒とたたず麻痺した奴だ。奴は槍を食らってなんの影響もなかった。苦しみもしなかった」

 槍使いの男の着ていた革鎧には大きな穴が開いていた。軽くはね除けられたとき爪を引っかけられたのだ。動くのが精一杯だったのが、荷物を運べる程度に回復したのはタランガンのおかげだと礼を言った。

 ゲネウチが導くまま山を越えていくと徐々に人の気配が増えてきた。やがて道を下り始めるとぷんと垢じみたにおいが土に混じり始めた。ゼマラン・サバランの宿営地から随分離れたところに道が通っていた。これは後から作られた簡易な山道だった。枝葉が肩に触れ、うるさい羽虫が飛び交っていた。ゼマラン・サバランは何度も顔にかかる蜘蛛の巣を拭いながら進む。裾野には色とりどりの天幕が見えた。ゲネウチが指をさす。

「見ろ。赤い龍に青い盾の紋章。ヴォーダモンの軍勢が来ている」

 見れば確かに天幕に赤い龍の刺繍がしてあった。彼らはさすがに兜はつけていなかったが、高貴な者に許される銀の全身鎧に身を包んでいるのは変わらなかった。侍従や位の低い騎士が主人の世話をしているのが見えた。

「村が一つできそうだぜ」サラインのダジが感嘆する。至る所で天幕が張られ、陣地ができていた。ただ誰もが沈黙していた。ドワーフの天幕よりもずっと豪華で、飢えているようすもないのにすでに敗残兵のようだ。ただ到着したばかりのヴォーダモンの軍勢だけが意気揚々としたフンイキを醸し出している。補給が上手くいっていることを確認しあっているのか、随伴文官が満足そうに頷いていた。だがこの静けさはなにか。

「ダン・シルバーに挨拶してやらねばな」

 ゼマラン・サバランは兜の下でぎょろりと周囲を見渡した。ドワーフはほとんどいない。人間の兵ばかりだ。もちろんエルフも、フットホップの小人一族も。

 そのときだった。

 二人の騎士を従えて白外套マントの男が歩いてきた。この駐屯地で唯一の光り輝く男だった。

「やあ、ゼマラン・サバラン! ようやく来たか、まちかねたぞ!」

 ドワーフは喜色満面の笑みを浮かべたが、抱擁はせず遅参の詫びを言った。

「おお、ダン・シルバー。待たせてすまない、仲間を呼ぶのに時間がかかったのだ。こいつはタランガン、若いのにもかかわらず老練の狂戦士なみに剣を振るえる男だ」

「タランガンか! まるで勇者の名だな!」ダン・シルバーは無邪気に褒める。生き生きとした瞳は澄みきって怖いくらいだった。

「龍退治だっていうじゃねえか」

 サラインのダジが横から入ってきた。挨拶すらなしだ。近い仲なのか、ダン・シルバーも嫌な顔一つしない。もっともこの気安さは誰に対しても同じかもしれないが。

 実はそうなのだ、と銀の司令官は応える。

「この周囲を根城にする灰色狼を追い出そうとしたらごらんの通りさ」

 一見ダン・シルバーの言葉には嘘がなさそうに見えた。だが明らかな偽りが含まれているのをタランガンは知っている。サラインのダジは、龍殺しの毒を依頼されたと言っていた。

 ダジも同じ事を問いつめようとした。声を荒らげようとしたところを、ダン・シルバーの強い腕が抱きかかえた。

「さあ、ダジ、親友よ。お前に一つ作って貰わないといけないものがある。灰色狼相手では必要なかったお前の毒がな!」

 随伴してきた騎士二人は剣の柄に手をかけている。議論の有無はなかった。ダジは視線だけを投げかけ、タランガンたちに後ほど合流すると合図する。

 タランガンとドワーフにエルフはぶらぶらと宿営地を回った。そこは薄汚れており、行き場のない怪我人が何人もいた。彼らは身を寄せ、明日の攻撃に備えていた。簡単な仕事だと誘われて集まった果ての龍退治だった。

「俺はこの辺で陣を張るぞ」

 周囲に聞かせるようにドワーフは言った。

「窮屈だが、なんとか横になれる場所を作れそうだ。タランガン、お前はどうする」

「俺は様子を見てくる。この戦場で知っていることは少なすぎる」

 タランガンは身軽に山を下っていく。物珍しげに視線を送る難民まがいの冒険者たちをかき分けなお進む。彼の行く木々は鬱蒼と茂り、やがて野営地の明かりも遠く遥かになった。闇のなか、物見の兵がいた。彼は言った。

「俺はもう諦めてるんだ」傍らに腰掛けた青年が、この戦いに新たに参加した新人であると知った男は告白した。「今集まってる連中はもう限界だ。あの邪悪な黒龍は殺した人間をみんな平らげている。全てだ! きっと俺も殺されて、奴の餌になっちまうんだろう。

 ただもしかしても望んでいる。誰かが毒まみれの黒龍を葬り、あのダン・シルバーのクソ野郎が本当に栄達の道を駆け上がりおこぼれを俺たちに分けてくれるかもしれないってな」

「見張りを代わろう」タランガンは言った。

「あんたは自暴自棄になっている」

 降って湧いたような親切に、男は目を見開き、何度も頷いてその場を離れた。おそらくもう戻るまい。見張りを代わったタランガンは坂を更にぐっと下って行った。闇の底にあるか黒いもの。その正体を見極めに。

 星明かりの下で黒い小山が見えた。ツンと鼻を刺激臭が突く。光を浴びてぬめっている。だが、それだけだとタランガンは踏んだ。当たり前の龍だった。歴戦の者たちが万が一を夢見て居残るのも当たり前だ。この龍から神秘のにおいはしない。タランガンが以前見まみえた真龍や、倒したことのある古龍のような魔法のにおいは全くしない。どこにでもいる龍である。小龍である。しかし下ってくる途中から木が燃え草が焦げ土は脆く干からびていた。物見がいた場所はまだ燃えていない場所に過ぎなかった。

「毒をもち、火を噴くとは言えそこまで手のかかるものではなかろうに。何故だ」

「わからぬ」

 背後から聞こえた声にタランガンはぎょっとして振り返った。気配なくゲネウチがいた。

「お前をつけてきたのだ」エルフは言った。

「お前が何をしようとしているかすぐ知れた。お前は敵を見にきたのだな」見にきたのは獲物だ。とタランガンは言った。

「本当の敵はダン・シルバーだ。あの龍を見て確信した」

「確かにあの龍は恐ろしい力を持っている。しかしもはやあれは……ではない」ゲネウチが呟いた。善く聞こえず訊き返したタランガンに「不死のザニターリではない」と付け加える。

 このエルフにはなにか秘密がある、とタランガンは察した。その秘密の重さはどれだけのものだろう。知らず知らずのうちに自分の罪の重さとエルフの秘密を天秤にかけていることに気づいて、タランガンは苦笑した。あとは黙って星の下の龍を見ていた。無敵の狂龍は苦しげな吐息を時折漏らしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る