勇者タランガン~運命毒の理~
白石薬子
第1話 龍涙亭にて
1
祭りの日であった。
白い乙女が往来の真ん中にぬかずいて低い声で歌い始めた。周囲にたたずむ老婆たちは手に持つ数珠を擦りつつ聞いている。フレールの街の光闇祭である。
大人も子供らも白い長衣を着ている。黄昏が深くなりその白は売れた果実の色に染まり、子供らはヒソヒソとおしゃべりをする。
祭りの日であった。
闇の精霊よと女は歌った。
今は怒りおさえ復讐の刃をおさめたまえ。
男たちが厳粛に鈴を振る。太鼓を強く打つ音に、街の人達は巫女の祈りに拍子を取る。
「今日は実りの日なれば」
人の群れに負けぬ声が轟く。
「祝福の日なれば、汝妹を許し妹に許されよ」
男が歌う。男は龍だ。白い頭巾を被り角を生やし、女に呼びかける。
「かんばせに口づけよ。光と闇の舞を舞おう」
空に虹がかかり、遅れて空に音が響いた。仕込み筒からの虹の魔術だ。虹は花になる。
歓声があがり巫女は頭を上げる。
目の前に、闇の精霊が立っていた。
衣擦れの音もなく黒い女が立つ。
当たり前だ。これは二人の姉妹の伝説なのだからとサラインのダジは思う。
彼は龍涙亭の2階から身を乗り出して眺めていた。宿付きの酒場は静かだった。寡黙な老夫婦は祭りの泡銭をかき集めるのに飽きたのか、しょんぼりと店の入り口を閉じたまま宿泊客だけにこの絶景を提供している。
サラインのダジは、旅の男である。緩い巻き毛を襟元で切りそろえていて、着慣れた足通しに偽絹の長衣を着流している。賢すぎるがゆえに学び舎を飛び出した、グレた学生のような雰囲気でもある。長い旅を続けてきたのは夏の日差しに妬けたくすんだ髪の色でわかった。暢気に茹でた豆を口に運びながら白く甘い葡萄酒を啜って祭りを楽しんでいる。
祭りに戻ろう。
闇の精霊、その役を仰せつかった街の美女は、柔らかな天鵞絨の布をまとっていた。跪く白い巫女はその妹で、あった。二人は眼差しを交わし、姉妹の口づけをすると、弦楽器管楽器が陽気な曲を奏でだした。昼の祭りから夜の祭りに切り替わる印だった。
色とりどりの龍の神輿が往来を練り歩く。黄金のサジテファルド、緑龍サルデアンド、賢龍エルサド=キ、不死のザニターリ……女たちはそれについて歌いながら舞い踊る。フレールの子供らは小遣いを握り締めて、屋台の食い物で腹一杯にするのだ。
今日は龍を巡って争った姉妹の、たった一日の許しの日である。互いを殺し合うはずの二人精霊が手を繋ぐ唯一の日である。神輿に掲げられた龍は魔法の象徴であり、その後ろに続く女たちは精霊の化身となる。きゃーっと嬌声があがり、女たちが駆けていく。その薄衣は柔らかな胸元と尻を辛うじて隠しているが、男たちは視線だけでその薄物を引き剥がしてしまいたいと願っていた。あの娘たちと口づけを交わすのは今しかないと彼らが焦るのも無理はない。この一帯はこの晩秋を抜けて冬が来る。独り寝は寂しかろう。
サラインのダジは
いそげ、いそげ。祭りに遅れるな。
黄昏に白色灯がぽつぽつと灯り、祭りは乱痴気騒ぎへと変わる。ダジと一緒に祭りを眺めていた隣の青年は、まさにそんな舞台にうってつけの年齢だった。あんたはどうだい? と話しかけるつもりだった。ところがどうしたことか、共に欄干にもたれて祭りを眺めていた男は、隅に引っ込んでいるではないか。
夕闇が深まるにつれ、この二階の広間は寂しい暗がりに沈んでいくようだ。サラインのダジは手すりから離れ青年の側に近寄った。幸い拒む空気もなかったので、老爺に細切りの揚げ芋を注文する。厨房からじゅわっという油の音がした。青年はどこにでもあるような平服を身につけていた。膝下まである足通しは長旅にも耐える厚手のもので、革でできた沓もよく足に馴染んでいる。物をよく知る者の観察なら、青年の立ち居振る舞いから、どこかの舞踏劇団の女形の一人であると見当をつけたろう。しかしそれほど世間を識るものであれば、こんな陰鬱な表情の舞台役者などいないとすぐわかるはずだ。青年は、さっき祭りを眺めていたときの微笑をかなぐり捨てた、寂しい顔をしていた。
老婆の運んできた揚げた芋が皿の代わりの雑紙に無造作にぶちまけられる。
青年の眉が微かに蠢いた。カリカリに揚がった芋の香りに、ダジは青年が唾を飲む音を聞いたような気がした。そしてそっと
サラインは陰謀の地である。北の島国であり、科学薬学の発達する医療の街でもある。サラインのダジが取り出したのは粉薬だ。酒と一緒に口に含めば酩酊が深く楽しくなり、舌が滑らかになる。そのまま術者の質問に逆らえなくなるのが真の薬効だった。
彼はなんとなく知りたくなったのだ。この青年を曇らせる秘密が。そもそも人の悩みを探るのがダジの本来の仕事でもあった。相談者の過去は占い札だけで探るわけではない。
ただ男の手が止まった。長年の勘が、それは高くつくお遊びだと囁いた。その秘密を酒のつまみにするには危険な相手だと。
「塩をどうぞ」
男は空の左手を差し出して青年に勧めた。自然と右手は下り、
「光闇祭の奢りだよ」
「毒でも仕込むかと思った」
青年の口元がゆるみ遠慮なく塩を振った。
「あんたサラインの出だろう」
青年は尋ねた。沈鬱な表情が微かに明るくなっている。ダジはほっと息をついた。
「その通り、俺はサラインのダジだ」
男は名乗った。青年は指を舐めて答えた。
「俺はタランガン。ただのタランガンだ」
簡素な名乗りだった。出身も二つ名も告げない。「傭兵をしつつ旅をして回っている」
「冒険者、というやつか」
「俺はなんでもやる。帰る場所がないからな」
小さな酒壺がやってきた。ついでに運ばれた鳥の内臓を焼いたものをタランガンはすげなく断り、色の濃い根菜漬けをハリハリと噛む。内臓料理は苦手だとタランガンは言った。
「なぜ祭り見学を止めたんだ」
サラインのダジは口元を拭って尋ねた。
「目を細めて懐かしげな顔をして。ここに恋人でもいるんだろ」
タランガンの表情に寂しさが戻ってきた。薄く笑ってから青年は酒をあおる。
「俺はこの〝
白と黒の似姿をもつ精霊の姉妹は、龍戦争で互いに敵となり仇となった。この世に人が作られたがゆえ、死にゆく龍のために巨大な鱗ある体となり戦った黒き魚のゲネウチ。人間の命のために姉に挑んだ森の守護者緑の乙女ミランザ。タランガンの面持ちは、その闇の乙女に似ているとサラインのダジはわけもなく思った。暗い宿命を背負った姉精霊のよう。
青年は目を伏せ、さらに芋を齧って言った。
「双子のような女が舞い踊る祭りと聞いて、どんなものか見てみたかったのさ」
「なかなか賑やかな祭りじゃないか」
「しょせん他人の祭りだ」
タランガンは、酒に酔わず静かだった。
「母たる精霊に祝福あれだ。参加はしない。
俺はその喝采と歌を遠くに聞きながら酒を飲むのがよいと思っただけだ」
「そんなに世をすねるな、タランガンの兄貴」
サラインのダジは自分より遙かに年下の男を慰めるように言った。
「他の街から来たとか、気にするな。おまえくらいの男なら、誰でも放っておくまい」
取るに足らない、とでも言うようにタランガンは芋を口に運び「実は仕事の寄り道なのだよ」と告白した。
「俺は本当はドネトールに向かう予定だったのだ。ドワーフのゼマラン・サバランという男が仕事を回してくれるのだが、そこの害獣退治に誘ってくれたわけだ。ゼマランはもう一足先にドネトールに向かっているが、なんでも灰色狼退治に気前よく金貨をはずんでくれ奴がいるのだそうだ。女連れではしゃぐ気になれんのだ」
ただタランガンものんびりしたもので、光闇祭の噂につい立ち寄ったのだ。
「ゼマランには待っていてくれと手紙を出して、街に立ち寄った。エルフの鳩からドネトールの麓で野営して待つと不平交じりに書かれていたよ。人手の必要なヤマらしいとこれでわかった。もし本当にただの儲け話ならおっさん一人で灰色狼狩りにいそしんでいたことだろうぜ。乱痴気騒ぎに加われるほど陽気じゃいられん」
「俺もまったく同意見だ」
ダジは同意した。
「タランガン、お前は運のいい奴だ。もし祭りに立ち寄っていなかったら、お前は今頃、ドネトールの麓で狼の餌になっていたぜ」
「どういうことだ?」
眉間の皺を深くして青年は首を傾げる。
「灰色狼が何故増えたか考えればすぐわかる」もったいつけてダジは言った。
「灰色狼は旅をする獣だ。それが一つところに留まって山狩りするほど増えたのは、餌がそれだけたらふく増えたということよ」
「餌だと?」
「〝輝ける〟ダン・シルバーのやりそうなことよ」
汚いものを洗い流すように酒を開けると、サラインのダジはタランガンに忠告した。
「タランガン、俺はダン・シルバーがなにをしようとしているか知っている。青糸杉のゼマラン・サバランは悪いやつじゃない。とっつぁんもダン・シルバーに騙された口だろうぜ」
「あんたはいったい何を知っているんだ」
密やかなタランガンの囁きに秘密めいた表情の男は語った。
「奴らの狙いは龍だ」
「龍?」タランガンが訊き返す。サラインのダジは大きく頷いた。
「そうだ。ダン・シルバーはドネトールの火吹き龍こそ太古の龍と信じている。
割のいい狼退治と称して、龍退治に冒険者を巻き込むのだろう。龍退治こそやつの狙いだ。
ドネトールの腐れ谷、そこに住む火ふき龍が隠し持つお宝をせしめて、ヤツは伯爵位を手に入れるつもりだ。一攫千金だが、賭ける見返りは十二分にあるって算段だ」
太古の龍は、精霊と共に人をこしらえたと語り継がれる伝説の生き物だ。龍は魔法そのもので、エルフが千年かけても作り上げられぬ魔法の財宝を隠し持つという。
「その名は、死なずのザニターリ」
サラインのダジは真の証拠に、二度手を打ち首をかききる動作をした。故郷で〝嘘は言わない〟と誓う仕草だった。死なずのザニターリ、伝説の黒龍である。巨大な翼をもつ巨竜でいかなる剣も槍も弓も効かぬ、恐るべき死の呪文を唱える老獪な龍。ちょうどいま、この欄干をこえて顔を出した神輿の龍、黄色の目を光らせた黒いやつがそれであった。
「ダン・シルバーは龍に尖兵をけしかけ、追い打ちをかけようというのだ。
俺はその龍のトドメを刺すために呼ばれた毒使いなのだよ」
タランガンはゆっくりと杯を干した。遠くでまた虹の花が輝き、祭りの歓声が聞こえた。サラインのダジが己と同行しないかと誘うのを、この暗い目をした青年は断らなかった。
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