第3章
23:道をさがす
ムルトから軍を完全に引きあげ、結んだ条約やらなんやらの事後処理がようやく落ち着いたのは、三月も過ぎたころだった。
その間、ユタは比較的のんびりと時を過ごしていた。
事後処理に追われてはいたが、怪我の治療を口実に神殿に籠ることができたのだ。書類仕事は増えたものの、他所への出向がない分、時間ができる。手が空くたびにファートのもとを訪れ、その時間を楽しんでいた。
ただ、クルスとはその後、話していない。ファートのこともグラーチィアのことも、どうにも話をするタイミングを逃してしまっていた。
「どうしたの? 浮かない顔をしているわ」
「んー? あ、ラタ?」
庭の木陰で、本を広げていた時だった。ユタの隣では、猫のように丸まったファートが、ちいさな寝息をたてている。
よほどまぬけな顔をしていたのだろう。ラトゥータは呆れ顔で話しかけてきた。
「考え事?」
「そう、なるのかな……」
「この子のこと、ね?」
ラトゥータはファートの寝顔をぼんやりと見つめ、つぶやいた。ユタも観念したようにうなだれる。
「ああ、考えれば考えるほど、わからなくなる」
ユタは「お手上げだ」と言わんばかりに首をすくめると、仰向けに倒れこんだ。
「どうしてクルスは、こんなことをしたんだろう?」
そうぼやきながら、ユタはファートの髪を撫でる。
「そうね。正直私にも、全くわからないわ」
「うううぅ」
「ふふ」
呻いたユタの隣に自分も腰をおろすと、ラトゥータは笑った。
「ねえ、ラタ。この子、すごいんだよ」
「どうしたの?」
「たぶん、ウィスから教えてもらっていたんだろうね。ファートは聖霊言語を使いこなしているんだ。話すのも、書くのも両方」
「それは……すごいわね」
ラトゥータは率直に驚いた。
聖霊言語というのは『聖霊・ラゥが使う言語』のことを指す。ラゥやその眷属との意思疎通に使われる他、多くの術の大元、基礎言語にもなっている。
ラゥの言葉はカリムの民が使っていたとも伝わるが、体系化されていない。人の使う音や文字で言語化するのは難しい上に、ラゥとの相性や本人の適性に大きく左右されるため、『使いこなす』というのは容易でないのだ。
ラゥとの相性は抜群のはずの《ラゥの司》であっても、聞き取れない、意味がわからない言葉が出てきて困るくらいだ。
「うん。あの部屋の本を教材にしていたなら、分からなくもないのだけど。それだけでなくて何というか、ウィスとの共存がとても自然で、とても上手くいっている」
「ええ、それは私も感じるわ。生まれつき……本当に“無理やり”《ラゥの司》にされたのか疑問に思うくらい。ごく自然に、ひずみなく、ラゥに魅入られているように思えるもの」
ラトゥータはうなずき、ユタは宙を仰いだ。
「そうなんだよ。じつはこの間、ファートにラゥの術を教えてみたんだ」
「……大丈夫だったの?」
「うん。というよりも、上手く教えられなかった。この子、すべて感覚だけでやってのけたんだ。力の制御もできているようだった。ラゥとどのように協力すれば、どう術が発動するのか、教わらなくても知っているんだ」
「すごい」
「ああ、とてもすごいことだと思う。でも『力を使う』ということに、この子自身の感情や意志はやっぱり薄くてさ。最近は、感情の起伏もすこしずつ見えるようになってきたけれど、彼のなかで、善悪とか好き嫌いとか、そういった基準はまだ定まっていないんだと思う」
「それは……」
「うん。私はそれが、……とても怖い」
「ん、うぅ、んん」
ユタの隣で、ファートがもぞもぞと身じろぎをした。
「あ、起きた? ファート」
「ユィタ?」
「ん、どうした?」
ファートはゆるゆると身体を起こし、伸びをした。しかしラトゥータの姿を認めると、恥ずかしそうにユタの後ろに隠れてしまう。
ユタに促され、やっとのことで「こんにちは」と小さく挨拶をしたが、ラトゥータが挨拶を返すと、やはり恥ずかしそうにユタの後ろに隠れてしまった。
この少年は、ユタになついているのだ。無条件に親鳥を慕う雛のように。もしかしたら、本当に母親だと感じているのかもしれない。ユタもまんざらではないように見える。ラトゥータはそう思ったが、そこはあえて口にしなかった。
彼女はいたずらそうに微笑むと、ユタの瞳を見据えた。
「らしくないわね。ユタ。それこそ『あなたは』どうしたいの?」
「ラタ?」
ユタは、困惑の表情で見上げてくるファートの髪を指で梳いた。この数ヶ月で銀の髪は、後ろで編み込めるほどに伸びている。止まっていた時間を取り戻すかのように、この少年は日々変化しているのだ。
「後のことは気にしないで。ユタの思うとおりにしたらいいわ」
「……ありがとう、ラタ」
しばらくして、ユタはレイティアのもとを訪ねた。
事前に連絡などしていない。しかし目的の人は、神殿深部の白い部屋でユタのことを待っていた。
「レイティア」
「やあユタ、久しぶりだね」
その人は、銀の瞳を細めて微笑みかけてくる。長く揺れる白髪と柔らかいその表情に、ユタは出会ってしばらくの間、彼のことを女の人だと勘違いしていたことを思いだした。
「怪我も、いいみたいだね」
「うん。もう大丈夫」
ユタは、包帯の残る腕をぷらぷらと振ってみせる。
「良かった。ひどい怪我みたいだったから、心配していたんだ。……それにしてもその髪型、ずいぶんと思い切ったねえ。触ってもいい?」
そう言ってレイティアは、おもむろに短くなったユタの髪を撫でた。ユタもユタで、大人しくされるがままになっている。彼は愛おしそうにユタを撫でまわしながら「そういえば……」と可笑しそうに言ってきた。
「ユタ、クルスと大喧嘩したんだって?」
「やっぱり。聞いてたかぁ」
うんざりした様子で、ユタはレイティアの隣に座る。この双子は、たいして会話などしていないように見えて、すべて筒抜けなのだ。どちらかに話をすると、ほぼ確実にもう一方にも伝わってしまう。
レイティアは、首をかしげた。
「まあねぇ。クルスは落ち込んでいたようだけど、何があったの?」
「落ち込んで、って。っはああぁぁぁぁぁぁぁぁ」
ユタは盛大なため息を漏らす。表ではあれだけつっけんどんだったくせに、実は落ち込んでいた、なんて。そんな『裏情報』は知りたくなかった。
血を分けた兄弟の情けない姿を、しれっと漏らしたレイティアは、笑ってユタの言葉を待つ。
「それがさ……」
事情を説明すると、さすがにレイティアも表情を曇らせた。
非常に珍しいことだが、彼も知らなかったのだろうか。それとも『事情を知っていて』、それゆえの憂いだろうか。
「ねえ、レイティア。なんでクルスは、あんなことをしたんだろう?」
「ユタ……」
苦い顔でうつむくユタの髪を、再びレイティアは優しく梳いた。ユタはその白く細い手に、甘えるようにすり寄ると、うつむいたままつぶやく。
「わかってる。なんの考えもなく、あんなことをするクルスじゃない。でも……」
「でも、なんでそんなことをしたのか、わからないのが気持ち悪い……か」
「ううぅぅ」
「本当にユタって、何気に学者気質というか……そういう所、あるよね」
くすりと笑いながら、レイティアはユタの愚痴に相槌をうつ。
しばらく黙り込んでいたが、ユタはぽそりと口を開いた。
その眼には、静かな決意がみえる。
「レイティア。ひとつ、考えていることがあるんだ」
「ん?」
実のところ、レイティアはユタが何をしようとしているか、見当がついていた。レイティアの銀の瞳に『ユタの未来』は映らない。しかし、幼い彼女を拾ってから数百年、そばで見守ってきた経験が、それを知らしめた。
「あの子を、ファートを連れて、この国を出ようかと思ってる」
「ファート、例の少年の名前だね?」
「うん。名前なんて無い、って言うから勝手につけた」
「どこかで聞いたような話だなぁ」
「ファローリィヒト、愛称で言えば『ファート』だね」
「これはまた」
「ふふ。いい名前でしょ?」
レイティアは少し気まずそうに目をそらした。血は繋がらなくとも、似るものだ。
「でさ、ファートと一緒に旅をしようと思うんだ」
「ルンファーリアを出る、か。でも彼を連れ出すとなると、いつもの『ふらり旅』じゃ通らないかもしれないよ?」
「うん。そうだね。そう思う」
「そうだね、って」
レイティアはあきれたが、ユタは淡々としたものだ。
「しかも『ファート』っていう機密事項を外に連れ出すわけだ。国から追われることになるかもしれない。クルスは彼の処遇を私に任せてくれたけれど、納得しない面子も多そうだから。秘密裏に、ってことで特務あたりの仕事になるんじゃないかな」
「怖いことを、言うね」
「ふふ。そうだね。でも……」
「もう、決めた?」
さらりとそう言われてしまい、ユタは養い親を見上げた。その表情は笑ってはいるが、どこか憂いを帯びている。
「うん。やっぱり叶わないなぁ。レイティアには」
「でもユタ、僕は心配だよ。昔ならこんな心配しなかっただろうけど、でも近ごろこの国は、なんだか怖くなることがある」
「そうだね。この国は変わった。いや、変わらざるをえなかった。大きくなりすぎたんだ。今回のことだって、何か複雑な事情があったんだろうとは、思ってる。クルスだって『ラゥの司を意図的に造った』とは、言ってはいないもの。でも、このままじゃ、いけないと思う」
「うん。そうだね」
レイティアは黙し、目を閉じた。
「さて、と」
「もう行くの?」
「うん。どうせなら早いほうがいいから。今夜中には発つよ」
「そっか。あいかわらず、僕の瞳に君の未来は映らないけれど……」
もう直接、見守ることはできなくなる。けれども、愛しい養い子の幸せを祈って。
「ユタの未来に、幸多からんことを」
レイティアは静かに、ユタの額に口づけをした。
「ありがとう。レイティア」
難しい顔をしているユタに、レイティアは意地悪な茶々をいれる。
「リャトゥーンの彼にもよろしく。一緒に行くんでしょ?」
「なっ、ん、で」
あからさまに動揺するユタを見て、養い親の片割れは声をあげて笑った。
「……いってらっしゃい。ユタ」
「いってきます。レイティア父さん」
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