19:予感と焦燥

「ねえ、ユィタ。これは、どういう意味?」


 ファートが名前を得て、しばらく時が過ぎた。

 ムルトとの条約のこともあったが、ユタは空いた時間をできるだけファートと共に過ごしている。今も資料室から持ち出した本を、庭にひろげていた。


 未だに表情は乏しいものの、ファートはよく喋るようになった。ユタにまとわりついて、ことあるごとに疑問を口にしてくる。

 もともとウィスから教わっていたのだろう。ファートは文字も読めれば算術もできた。禁書ばかりの書庫の本を教材にしていたからか、偏りはあったものの歴史や地理、政治、経済、それぞれ深いところまで話が通じる。結構な知識だ。


 しかしユタには、かすかな懸念もあった。

 彼の知識はあくまで『情報』であり、彼自身の所感や善悪といった意思や意志が、一切盛り込まれていなかったのだ。 


――例えば、歴史。

 とある国の末期、乱心した王が王宮に国民を集めて虐殺した。その犠牲者は千を超え『血の祭日』として歴史に残っている。しかしその王は善政をしいたことでも知られており、その豹変の謎は、後の歴史家たちの関心を集めていた。

 人々は言う。「民を虐殺するなんて酷い王だ」「いやいや、賢王が乱心したのは側近に裏切られたからに違いない」「殺された人が、かわいそう」などなど。

 しかしファートに言わせると、

『王が民を虐殺した。血の祭日と呼ばれている。王の乱心については謎が残っていて、歴史家によって様々な推測がある。歴史には、時の権力者によって意図的に事実が隠されることがある、とウィスは言っている』なのだ。

 知識としては申し分がない。情報の裏を推測し、真意をくみ取ることもできる。

 しかし、あまりにもそっけない。その情報について、ファート自身が何を思い、考え、感じたのか、そういった自身の感情や思考だけが、すっぽり抜け落ちていた。

 そのことに気づいて以来、ユタは極力『ファートがどう感じたのか』を聞くようにしていた。はじめのうちこそ戸惑ったものの、ファートは「自分で考えること」がよほど面白かったのだろう。もしくは単純に、ユタが話を聞いてくれることが嬉しかったのかもしれない。

 つたないながらも、少しずつ『感情』を見せてくるようになっていた。



「そういえば、ユィタは、何を調べに、書庫に、来ていたの?」


 ふと思いだしたようで、ファートが尋ねてきた。

 リンヴァとお医者先生には申し訳ないことだが、なんだかんだと後回しにしてしまっていた案件だ。アシュレイとの次の談合は三日後に控えており、確かにそろそろ、有力な情報が欲しかった。


「ああ。グラーチィアの傷痕について、珍しい症例がないか探していてね」

「グラーチィアの、傷痕? 誰か、怪我を、したの?」

「そうだよ。でも、その傷の症状が少し変わっていてね。医者にも原因がわからない。だから、ここの本に手がかりがないかと思ったんだ」


 ファートはユタの言葉を聞き、「うーん」と思案をめぐらせた。そして、本に載っていただろうことを、いつものように情報として言葉に連ねる。


「グラーチィアからの、傷。通常、グラーチィアに、傷をつけられると、傷口から、腐敗が全身にまわり、死亡する。例外はある。ラゥの司、それから、えっと」


 ファートが言いあぐねている。珍しい。しかし―――—


「それから、えっと、なんだっけ、グラ、グラチィエイト……」

「……え、何? 何それ!?」


 しかし、いつものように聞き手に徹しようとしていたユタは、知らない言葉の登場に飛び上がった。

 驚いたのはファートだ。青い瞳をめいっぱい見開いて、身体をビクリと強ばらせている。


「な、何? どう、したの? ユィタ」

「ご、ごめん、ファート。今、なんて言った? もう一回!」

「え、ええ? えっと、……グラチィエイト?」

「それ! そのグラチィエイト。グラチィエイトって何? 何のこと?」

「え、えっと、ある医学の、本に書いて、あった。確か、グラーチィアから傷を負って、ごくごく稀に、傷口が腐らず生きのびた、例があった、って。グラチィエイト、っていうのは、本の著者が、つけた名称みたいだったけれど。あ、ちょっと、待ってて……」


 そう言って、ファートは書庫へ入っていく。しばらく奥でごそごそと動いていたが、一冊の分厚い本を抱えて戻ってきた。本も本人も、うっすらとホコリをかぶっている。


「この本に、書いて、あったんだ。えっと、うん、ここ」


 ファートから本を受け取ると、ユタは彼が指差した項に目を走らせた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  グラーチィアによる裂傷の特異例について

   患者α:三十歳 / 男 / カサランド人 / 病歴認められず


ルンガ地方アスー村 旅の途中、グラーチィアに襲われる。ルンガ軍が患者αの生存を確認。救護塔へ収容するも 患部の腐敗が認められず。

特異例として特別救護塔へ移送、経過観察を開始。


7/9: 

治療をつづけるも、患部に変化はなし。腐敗は認められず。回復も認められず。

7/15:

突如、意識が回復。それを境に傷が回復をはじめる。

8/1:

傷口は完治。脅威の回復力。起き上がり、歩行可能。

8/3:

家族と面会するが要領を得ない。彼らを認識せず、支離滅裂な言動をとる。

記憶の混乱と思われるが、特異例ということもあり調書をとることになる。



患者αは、自らを「アイナ」だと名のった。

ムルトの民に一族を滅ぼされ、その復讐を誓っているという。アイナはアイナであり、患者αについての情報は、いっさい持ち合わせていなかった。

アイナと患者αの共通点は二つ。

同じ年齢であること。

ともに自分の子を、三歳で亡くしているということ。



8/7:

患者αが凶暴性を増す。その言葉は怒りと恨みに満ちており、職員にいきなり殴りかかることもあった。拘束具の着用を決定。

8/10:

患者αが死亡。

なんらかの術を使用し、それが暴走したものと思われる。術の詳細は不明。術の使用に身体が耐えられなかったことによる体組織の欠損が死因と診断。

職員5名が殉職、1名が重症。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



 ユタは、そこまで読んで本を閉じた。

 書かれていた内容は、確かにリンヴァの症状と酷似している。そしてこれが本当に同じ症例であるならば、リンヴァは『リンヴァとは違う誰か』となって目を覚まし、何かしらの術を使う可能性がある、ということになる。



 このアイナという人格が『どこから』きたのか。

 ユタとアシュレイが、リンヴァから感じたグラーチィアの気配。

 エリタリア医術院の研究。

 そして、ユタが知っていること。

 『カリムの民』が滅びた理由。

 グラーチィアの正体と、ナァトの力。


 なんとも言えない、いやな予感が脳裏をよぎる。


 ファートが不安げにユタの顔をのぞきこんできた。ユタは安心させるように笑いかけ、彼の頭に手を伸ばす。

 約束より早いが、明日アシュレイと会って、この話をしよう。ファートの銀の髪を撫でながら、そう考えた時だ。


「ユタ様!」


 息を切らせたノルカが走りこんできた。ファートがビクリと飛び上がり、ユタの後ろに身を隠す。彼の背中を撫で、ユタも身構えた。


「どうした? ノルカ」


 そう訊ねながらも、ユタの頭には警鐘が鳴り響いている。


「ユタ様。ムルトで、大きな爆発があったと報告が。……ムルトの草原が、火の海だそうです」


 その報に、ユタは頭を垂れた。深く長く息を吐き、思考を切り替える。


「すぐに向かう。ノルカは部隊の編成をお願い。ファート、悪いね。ちょっと出かけてくる」

「ユィタ。どこか、行くの? 危ないところ?」


 ファートがユタを見上げ、かすかに眉根を寄せた。


「そんな顔しないで。大丈夫。じきに戻るよ」

「わかった。……いってらっしゃい。気をつけてね」

「ん。いってきます」


 硬い表情のまま固まっているファートの頭を撫で、ユタはきびすを返した。


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