第2章

15:不思議な少年


 それからのひと月は、多忙を極めた。


 条約の練りこみと調整を重ね、ルンファーリアとトンコウを飛びまわる日々に、いい加減疲れが見えはじめた、そんな時分だ。


 ユタは、ひとりの少年と出会った。


 先方の都合で予定がずれこみ、思わぬ時間が空いたのだ。いい機会だといわんばかりに、ユタは神殿の書庫が集まる棟をうろついていた。リンヴァの例の症状について、文献を調べてみようと思ったのだ。


 一般開放エリアを抜け、立ち入り禁止の立て札を無視して進む。さらに奥の資料室を進み、扉にかけられた術封印すらこじ開けて薄暗い通路を行くと、やがて巨大な本棚が整然と並ぶ書庫に出る。部屋が締めきられていたためだろう、埃とカビの臭いが鼻をついた。


 本棚にはところ狭しと書物が並べられ、それぞれが重厚な存在感を放っている。絶版書、禁書、秘密文書や封印書、そういった表沙汰にできない類の書籍文献が保管されている部屋だった。通常、人が出入りする場所ではない。


 リンヴァの症状を考えると、表の保管庫には文献がないとふんでのことだったが、それでも目当ての文献を見つけ出すのは骨が折れそうだ。ユタはため息をついて、目についた医療の資料、歴史の文献などを手に取り目を通してゆく。


 近ごろの忙しさから、周りを見る余裕がなかったからかもしれない。

 部屋に入ったときも、文献を探している間も、それらの文字に目を走らせている間も、ユタは『ソレ』に気がつかなかった。普段の彼女では、考えられないことだ。

 文献の山に一区切りがつき、ふと横に目を向けると――――


 その少年は、ユタの傍に立っていた。


 八つか、九つくらいだろうか。あどけない、というよりも感情のこもらない瞳で見つめてくる少年を見て、ユタは久方ぶりに背すじの凍る感覚を覚えた。全く、気配がなかったのだ。

 それは、今までクシを通したことがないようなボサボサの銀髪と、夜空のような深く青い瞳をした少年だった。


「君は、誰?」


 ユタの口から、思わず声がもれる。ユタには彼が、ただの少年には見えなかったのだ。閉ざされているはずの立ち入り禁止書庫にいきなり現れたから、というだけではない。

 何かが、ひっかかった。


「ここは、勝手に入り込んでいい場所じゃないよ。どうやって入ったの?」


 できるだけゆっくりと、慎重に問いかける。その少年はちょこんと首をかしげると、乾いた声で不思議がった。


「どうやって? あなたは変なことを聞く。僕は、ずっとここにいる。気がついたときから、ずっと。あなたこそ、どうしたの? ここは、誰も、入ってこない。そして、誰も、出られない。そう、なっていた、はずなのに」

「……」

「不思議な人。ここに、入ってくることが、できるなんて」


 声、というよりささやきに近いその声色に、ふたたび背筋がひやりとしたが、何気ない様子を装って、ユタは少年に話しかける。


「私は、この部屋に調べものをしにきたんだ」

「その本?」

「ああ、これは読んでいる途中だよ」

「その本、グラーチィアの、歴史について、書いてある。グラーチィアの、出現記録と、その被害。正体についての、検証。グラーチィアと、カリュムントの関係。グラーチィアの出現は、大昔から確認されている。だけど、カリュムントの、史跡が、途絶えたのを境に、その数が、激増した……」

「!?」


 突然、語りだした少年にも驚いたが、その内容にユタは度肝を抜かれた。まさしくユタが読んでいた本に書かれていたことだったからだ。読んだ本の内容を正確に覚えておく、という才を持つ人はまれに見るが、この書庫の本を? しかも本の外装を見ただけで? と考えだすとキリがない。

 ユタのそんな心情をよそに、少年は続けた。


「でもその本は、隠された。時の権力者にとって、都合が悪かったから。多くの場合、歴史には、隠された真実がある。そう、ウィスが、教えてくれた」

「……ウィス?」

「うん。ウィスは、僕に、色々、教えて、くれるんだ」

「ウィス、というのは君の先生? どこにいるの?」

「ウィスは、いつも一緒、ほら……」


 そう言って差し出された少年の左腕を見て、ユタは大きく目を見開いた。と、同時にひどい混乱が襲ってくる。それこそムルトとの条約のことが、頭から吹き飛んでしまうくらいに。

 感情のみえない青い瞳で見つめてくる、その少年の左手には――


「ラゥの、石!?」


 思わず少年の左手をつかんだユタに、少年は淡々とささやいた。


「そうだね、僕はずっと、ラゥと、一緒にいる、だから」

「そう、なの?」


 ユタは、必死の思いで表情を作った。ラゥの司ならば何故、こんな場所に閉じ込められている。ラゥの司を集め、庇護しているはずの、このルンファーリアで。


「君はいつ、ウィスと出会ったの?」


 少年は首をかしげる。


「さあ? ウィスが、言うには、僕は『生まれたときから、ずっと、ラゥの司』らしい、から。よく、わからない」

「そんな……」


『確かにエトラスのしたことは大罪だ。けれど、私も考えたことはあるんだよ。生まれつきラゥを手にしている者が居れば、とね』


 遠い昔、クルスがつぶやいた一言が、頭をよぎる。

 その言葉を、具現化したような少年が目の前に立っている。しかも、古い書庫に『軟禁』された状態で。

 『クルスに問いただす必要がある』そう決めると、ユタは動揺する心臓をなだめつつ、少年の顔を見つめた。


「ねえ。君の名前は?」

「名前、ああ。たしか呼称のこと。ウィスに、聞いたことがある」

「ウィス、ということは、君と一緒にいるラゥはウィスティアリア?」

「あなたは、ウィスのことを、知っているの?」


 少年の声が、かすかに揺れた。


「ウィスと直接話したことはないよ。でも、ほら……」


 ユタは、自分の腕を少年に見せるようにかざした。ユタの腕に小さな石が光る。


「ラゥの、石?」

「ああ。私の手にも、君と同じように石がついている」

「へえ。一緒、だね」

「そうだね。私も君と同じ《ラゥの司》なんだ。ウィスティアリアのことは、私と一緒にいるラゥから聞いたことがある」

「ラゥの、司。あなたも……?」

「そうだよ。君のことは、どう呼べばいいかな?」

「さあ? 僕のこと、呼ぶような、モノは、居ないから」

「そう」

「あ、でも、ウィスは、僕のことを、——・—って呼ぶ。だから、——・—、かな」

「——・—。とてもいい名前だ。でもその発音はウィスたち、ラゥのものだね。人では音にするのが難しい。だからここでの名前を君にあげたいのだけれど、いいかな?」

「僕の、名前……?」


 少年の無機質な表情に、はじめて変化が見えた。青い目を見開き、息を呑む。


「ファローリィヒト、というのはどうだろう? 愛称としてはファート、かな」

「ファローリィヒト。……ファート」

「どう?」


 少年は、しばらくその音を反芻していたが、やがて顔をあげた。


「うん。ファート。なんだか、不思議な、感じがする。ウィスに、呼ばれたとき、とは、似ている、けど少し違う。不思議だ」

「そう。よろしく、ファート。私の名前はユタ。本当の名前はユィータというのだけれど、呼びにくいからユタでいい」

「ユィタ?」

「ああ。その方が発音しやすいかな? それなら、そう呼んでもいいよ」

「ユィタ」

「ん?」

「また、ここに、来て、くれる?」


 少年の不器用で、かすかな、かすかな感情。


「ああ。必ずくるよ」



『独りは、さびしいもの……』


 ユタはその足で、法皇のもとを目指した。


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