11:お医者先生

 アシュレイの制止もむなしく、その翌日もユタは糸をつむいでいた。

 今日も勢いよく糸車はまわりつづけ、足元のかごには出来上がった糸束が積みあげられている。

 ただ、昨日のケトのこともある。ユタは他の家に出向くのではなく、アシュレイの家の片隅に道具を持ち込むことにした。同じように道具を持ち込んだ女性が何人か集まって、手と口をせわしなく動かしている。


 紡いだ糸は刺繍や編み込みにして、祭の飾りや衣装を彩るそうだ。集まったうちの何人かはせっせと針を動かしていた。紅や緑、黄に蒼。するすると形を成していく模様は、見ているだけでも美しい。ユタはぼんやりと色糸の山を眺めた。


「刺繍。ユタさんもやってみるかい?」


 ユタの視線に気づいたのか、刺繍針を手にしたおばさんが訊ねてくる。


「あー、いえ。刺繍こそ久しぶりすぎて。見ていて綺麗だとは思うんですけど」

「そうかい? そう言って、なんだかんだ上手そうな気がするけどねぇ」

「はは……」

「ま、針も色糸も置いておくからさ。気が向いたら自由に使っとくれ」

「そうですね。ありがとうございます」


 そんな何気ない井戸端会議をしていると、アシュレイが顔を出した。



「ユタ、ちょっと付き合ってくれないか?」

「どうしたの?」


 開口一番そう言い放つアシュレイに、ユタは軽いめまいを覚えた。ケトが聞いたら、またほうきを振り上げそうな台詞だ。


「お医者先生のところだ。ケトにやられた腕、傷口が開いただろう。診てもらいに行くぞ。さっき往診を頼んだら忙しいらしくてな。直接来て欲しいって」

「大丈夫だよ。もうそんなにひどくない」

「馬鹿いうな。嫌だっていうなら、抱えてでも連れて行くぞ」

「なんだって?」


 抗議のユタを制し、アシュレイは続けた。


「それにだ。……リンヴァの見舞いに行こう」

「もしかして容態が?」

「いや、変化は無いらしい。でも様子は気になるだろう?」

「それは、そうだね。わかった、行くよ」

「おう」

「すみません。戻ったら片づけるので、このままで……」


 おばさんたちに言付けると、ユタは席を立つ。

 診療所はランペレスの端にあるそうで、少々歩くそうだ。「できるだけ目立たないほうがいいでしょ?」と、おばさんがフードのついた外套を貸してくれた。アシュレイと一緒に歩いていたら意味がないような気もしたが、ありがたく受け取り頭から被る。

 外套のおかげかどうかはわからないが、道すがら村人に話しかけられることはなかった。




 診療所では、件の医者が迎えてくれた。若く見えるが腕は確かなようで、村人からは『お医者先生』と呼ばれて親しまれているそうだ。少しぼんやりとした雰囲気を持つ男性で、そのままでは誰も医者とは見てくれないかもしれない。

 しかしユタが倒れたとき、周囲の批判の目の中で嫌な顔一つせず治療に当たってくれた、とアシュレイから聞いていた。


「大丈夫そうですね。あと数日もすれば、きっちり傷口もふさがるでしょう」


 お医者先生は、ユタの腕の包帯を巻きなおしながら朗らかに笑った。

 ユタは改まって、礼を述べる。


「お医者先生。その節は、どうもありがとうございました」

「いえいえ、あなたの体力と回復力の賜物ですよ。たいしたものです。ですが、いくら丈夫だからといっても無理と油断はいけません。聞きましたよ? ケトのほうきにやられて腕の傷、開いたんですって?」

「あっと、はい。すみません」

「そうです。お医者先生。もっと言ってやってください。こいつ、ちっともじっとしていないんだから!」

「アシュレイ君に言われてはおしまいでしょうが。君の腕だって、本来ならまだ動かせるようなものではないんですからね!」


 そう言うなりアシュレイの腕をつかみ、包帯を解いていくのだからすごい。

 お医者先生は、しばらくアシュレイの傷口を診ていたが、満足そうにうなずいた。手早く包帯を巻きなおしながら、そっとささやく。


「ただあなた方は、どうやら『そういう類の人』のようですからね。僕も、あまりきつくは言いません。ですが、その手に在る石は大事なものなのでしょう? 自己管理はしっかりなさってくださいね?」


「……」

「…………」

「………………」


 それぞれの疑問と思考の沈黙が、小さな診療室を満たした。


「すごいな……」

「あなたは、何者です?」


 ユタとアシュレイは顔を見合わせる。素直に驚いたアシュレイと、警戒して身がまえたユタを見比べ、お医者先生は声をあげて笑った。どことなく、おもしろがっているようにも見える。


「ははっ、褒められても警戒されてもなにも出ませんよ。とりあえず今は『ただの医者と患者』ということにしませんか?」


 笑みを崩さないお医者先生の瞳をユタはしばらく見つめていたが、やがて緊張を解いた。


「そう、ですね」

「ユタ。大丈夫だって。お医者先生に他意はないよ。この人は病気と怪我を治すことしか頭にないんだから。石のことを知っていたのには驚いたけど」

「すみません。治療して下さったのに、失礼を」


 そう言って頭を下げた二人を見て、お医者先生は尚も愉快そうに笑った。


「あなたたちの石のことは、治療していた時に気がついただけです。こちらこそ好奇心に負けてしまいまして、試すような真似をして、すみません」

「好奇心……」

「ええ、僕はちょっと特殊なところで医術を学んだもので。その石について知識があっただけです。まさか本当に診ることになるとは思っていなかったので、自信がなかったんですよ。あなたたちのような《ラゥの司》と呼ばれる存在に」

「それはまた……」

「面白いお医者先生だね」

「驚きました。本当にラゥの司は、グラーチィアに耐性があるんですね。普通であれば、その傷はただ腐敗していくはずなのに。重傷とはいえ、あなた方のそれは普通の傷口でした」

「そうみたいですね。自分では、よくわからないのですが……」


 世間でグラーチィアが恐れられている最大の理由がそれだ。『グラーチィアに襲われれば命はない』と言われる所以でもある。

 グラーチィアから受けた傷口は、周囲の細胞をまき込んで腐敗をすすめ、やがて死に至る。たとえ小さなものでも、傷を負ってしまうと『確実に』生き残れない。その標的となった時、全滅が珍しくないという本当の意味は、そういうことだった。

 だがどういう理屈かわからないが、《ラゥの司》だけはその例外だったのだ。傷口は腐ることなく、回復する。ラゥの術やラゥの言葉を源にするカリュムントや古式術が、グラーチィアに効くことと関係しているのだろうと、ユタは考えていた。


「グラーチィアに襲われたこの村人たちの身体は、腐っていきましたよ。私はどうすることもできなかった。……無念です」

「たくさん、亡くなったんですね」

「ええ」

「すみません。もう少し早く対処できていれば……」


 悔しそうにうつむいたユタを見て、お医者先生は意外そうに口を開いた。


「ユタさんは結構な変わり者ですね。いや、だからこそ《ラゥの司》なのでしょうか?」

「はい?」

「敵対する勢力の人間を助けられなかった、などと悔やんで謝罪するようなルンファーリアの神官を、僕ははじめて見ました。なるほど。アシュレイ君が、体を張ってまであなたを護ろうとするわけだ」

「そんなことは……」

「ありますよ。ユタさん、握手をしましょう。僕はロルダ。ロルダ・エリニッジといいます。今はこの村で医者をしていますが、もとは流れの医者です。困ったことがあれば、なんでも頼ってください」


 そう言って、ロルダはユタへ手を差し出した。


「よろしくロルダ先生。私はユタ。ルンファーリアの第一神官です。今はちょっと、微妙な立場ですが……」

「ルンファーリアの神官がムルトの人間を助けた、というのは《朱》にとってはなかなか衝撃的な事件です。心無いことを言う人もいると思いますが、僕は感謝していますよ。それに貴女は、面白い神官だと思います」


 褒められているのかどうか微妙な気もしたが、ユタは彼の手を握り返す。

 そしてふと、思い至ったことを訊ねてみた。


「ありがとうございます。ところで、特殊な場所で医術を学ばれたとおっしゃいましたが、石のことをご存知ということは、もしかして『エリタリアの医術院』ですか?」

「おや、すごい。さすが博識ですね。では、嫌われたかな?」

「いえ。先生が私の命を救ってくれたことにかわりはありません。それに先生からはその、なんというか、あの一種独特の雰囲気は、感じませんし……」

「あはは、そう言っていただけるとありがたいです。それにしても一種独特の、ですか。言い得て妙ですね」

「医術院? エリタリアにそんなところがあるのか?」


 アシュレイは聞いたことがなかったのだろう。不思議そうに視線をよこした。


 エリタリアは、南大陸の西端に位置する小さな国だ。険しい山々に囲まれており、他国との交流は乏しい。単民族国家で閉鎖的な気質も手伝って、よほどのもの好きか近隣国でもないかぎり、「どこにある国なのかすら知らない」そんな情報量の少ない国だった。


「ああ。小さいけれど技術の進んだ学問と学者の国だから、色々な研究をしているよ。ただちょっと保守的というか、閉鎖的というか。そういう環境もあってさ」

「なるほど。危ないやつも多い、と」


 アシュレイが心得たとばかりに、相槌をうった。


「ええ。閉ざされているのをいいことに、かなりきわどい研究もしていますからね。倫理的に過激な研究者も多いですし」

「ふうん」

「そんな雰囲気に嫌気がさして、僕は国を出たんです」


 表情を曇らせたお医者先生に、ユタとアシュレイは顔を見合わせた。


「それはさておき、お二人はリンヴァに会いに来たのでしょう? 奥の部屋にいますよ。僕は薬を持ってきますから、先に行っていてください。正直、あなたたちの意見を聞きたいと、思っていたところだったんです」

「何か、あったのですか?」

「ここではなんとも。まずはリンヴァを、見ていただけますか?」


 奥の部屋に入るとリンヴァがいた。頭には包帯が巻かれ、青白い顔で横たわっている。息はあるようだが浅く、ひどく弱っていることが見てとれた。


 と同時に、ユタとアシュレイは、そろって息をのんだ。

 お医者先生の腕は確かだ。傷の処置は的確だろう。大怪我であっても普通の傷なら回復が見込める。しかし相手はグラーチィアだ。あのときのリンヴァは、身体のほとんどをグラーチィアに飲み込まれていた。―――― にもかかわらず、


「アシュレイ。これって……」

「ああ。リンヴァの傷が……」

「そうなんです。彼の傷は『腐敗していない』」


 静かに部屋に入ってきたお医者先生はそうつぶやくと、色をなくしたユタとアシュレイを横目に、リンヴァの包帯を取り替えていく。


「やはり、それほど異常ですか。この傷は」


 言葉の出ない二人に、彼は続けた。


「はじめは普通の傷だと思っていたんです。しかし一向に回復の気配がない。不思議に思っていたところ、彼の傷がグラーチィアによるものだと聞いたのです」


 お医者先生は手を止め、顔をあげた。


「驚きました。グラーチィアと接触していながら、その傷口は腐敗しない。かといって、あなたたちのように回復していくわけでもない。……正直、お手上げでしてね」


 ユタとアシュレイも、驚きを禁じえなかった。


「どういう、ことだろう?」

「リンヴァが《ラゥの司》だった、ってことか?」

「いや。それなら石があるはずだし、傷も回復していくんじゃない?」

「まあ、だよな……」


 立ち尽くすしかないユタとアシュレイだったが、ふとある既視感を覚えた。力なく横たわるリンヴァを見ていると感じる、目隠しをしたまま崖の淵にたっているような、落ち着かない感じ、言いようのない不安と焦燥感。

 二人は確かめ合うように視線を交わした。


「なあユタ。さっきから思っていたんだが、この感じって……」

「ああ。アシュレイも感じるってことは、私の気のせいじゃないな」

 これは ―———


「「グラーチィアだ」」


「なんですって?」

「リンヴァから、グラーチィアの気配がするんです。先生」


 眉根を寄せたお医者先生に、アシュレイは説明した。


「そんな……」

「この子が何かしら特殊な状態なのか、あのグラーチィアが特殊だったのか。いずれにしても、ただ事じゃない。私もこんなことは初めてだ」


 アシュレイがお医者先生に訊ねた。


「お医者先生。こういう症状について、エリタリアに文献や資料はないのかな。技術や医療が発達している国なら、手がかりがあるんじゃないか?」

「実は、それは僕も考えたんです。エリタリアになら、この傷に関する情報があるかもしれない。ですが情報があったとしても、入手できないと思います」


 苦々しくつぶやいて、お医者先生は首を振る。


「それは閉鎖的だから、ってことですか。それとも先生が国を出た身の上だから?」

「確かにそれもありますが、それだけではありません。あの国は、この症状について情報を持っていたとしても、意図的に隠していると思うからです。僕のツテを使っても、開示されることはまずないでしょう」

「……」

「あの国の医療技術は高い。医術院はそのなかでも最高峰の施設です。ですが先ほども言いましたように、ひどく保守的で秘密主義でもあるんです。技術が他国に渡らないようにとの名目ではありましたが、特に医術院における『聖霊・ラゥ』と『グラーチィア』に関する研究。これらについては厳重に、かつ巧妙に隠されていました」

「そっか。まあ、技術も立派な国家資産だしな。……ん? なんで医療技術がラゥとグラーチィアの研究とつながるんだ? 別モノじゃ」



「それはそうと……」

「ええ? 流すのかよ?」


 ユタは無理やり話をさえぎり、アシュレイをにらんだ。


「それより、今はリンヴァのことだろう? 目的のものがあるかどうか分からないけど、ルンファーリアにもグラーチィアに関する資料はいくらかある。最初からエリタリアの医術院をあてにするのは現実的じゃない。探すにしても時間がかかることだ。今在る知識でどうにもならない以上、ここで推測を話していても結論は出ないよ」

「まあ、確かに」


 ユタは顔を上げると、お医者先生へと向き直った。


「お医者先生、お願いがあります」

「なんでしょう? ユタさん」

「リンヴァのこと、お願いできますか」


 ユタの頼みに、彼はうなずく。


「それはもちろんです。このままには、できません」

「もしかしたら、先生に危険が及ぶかもしれません」

「それは……」

「何故リンヴァからグラーチィアの気配がするのか、原因がわからない以上ありえることです。それを承知の上でお願いします。彼を、お願いできますか?」

「……わかりました。引き受けましょう」

「私も調べてみますが、こんな状況です。ですが、何かわかればお伝えします」

「ふふ。期待せずにお待ちしますよ」


 お医者先生は笑い、そして申し訳なさそうにつぶやいた。


「ユタさん」

「はい?」

「その、ありがとうございます。本当に……」

「とんでもないです。リンヴァのこと、よろしくお願いします」



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