6:グラーチィア

「何をやっているんだ! アシュレイ・ハーノルド!」


 ギルの姿が見えなくなったところで、ユタは叫んだ。


「いや、グラーチィアが相手なら味方はいたほうがいいだろう。手伝うぞ?」

「な、な……」

「大丈夫だって。むしろ助かったよ。あんたを見ていたらなんだか肝が据わってさ。俺だけだったら決断できなかったと思う。礼をいうよ」

「……」


 そのあっけらかんとした様子に、ユタは呆れかえったが、当人は飄々としたものだ。そしてアシュレイはふと、気になったことを訊ねてみた。


「なあ、神官殿?」

「何だ。アシュレイ・ハーノルド」

「あんた、さっき俺がグラーチィアに襲われたことがあるかって訊いただろ。どうしてあんなことを訊いたんだ?」

「別に。グラーチィアの気配を感じとれているようだったし、遭遇した経験があるのかと思って。それならアレの恐ろしさは身にしみているだろう。兵を退くことにも、納得してもらえるだろうと思っただけ」


 ユタの言に、アシュレイは困ったように頬をかく。


「いや、ソコじゃなくてさ。あんたは『襲われたことがあるか』と訊いただろ? 普通に考えれば、グラーチィアに襲われた時点で命はない。それが常識だ。さっきの話じゃないが、確かに一緒にいたキャラバン隊は全滅したよ。だけどあんたはどこか、俺がグラーチィアに襲われても生き残ったことを、確信していたように見えた」

「それは、別に深い意図はないよ」


 説明する様子のないユタにあきらめたのか、アシュレイは視線をはずした。


「悪い。へんなこと聞いたな。あんたとなら色々と話せるような気がしてさ」

「話?」

「んん。グラーチィアと出会ったときの、あの『妙な感じ』についてとか」

「……」

「『あいつらは一体何なのか?』とかだよ。グラーチィアと出会ったときの所感を話せる相手なんて、なかなかいないだろ?」


 驚きいっぱいの表情で、ユタはアシュレイを見つめた。


「なるほどね。やはり君は……」


 ユタが言いかけた、その時、 キ―――――――― と、形容しがたい歪んだ音をたて、真っ黒な物体が姿を現した。


「げっ」

「グラーチィア!」


 突然現れた黒い影、すべての色が入り混じったその色は、自らの身体の一筋を目にもとまらぬ速さで飛ばしてきた。咄嗟に剣を抜いて、アシュレイは身構える。


「くそっ」

「馬鹿っ、やめっ……」


 応戦しようとするアシュレイを止めようとユタは動いたが、黒の触手はすでに彼の目の前に迫っている。


「間に合わない。やられる」そう確信し、アシュレイは衝撃に備えた。が、別方向からの「何か」にぶつかられ、アシュレイは吹っ飛ばされた。


「痛っ」

「なんだ?」


 それはなんとユタだった。黒い触手がアシュレイに触れる寸前、ユタは彼めがけて体当たりをかまし、触手の軌道から彼をずらしたのだ。そして彼女はあろうことか、その勢いで吹っ飛ばされてしまった。そのまま崖の斜面を転がり落ちていく。


「ああっ。くそっ」


 アシュレイは悪態をつくと、ユタを追って崖から身を躍らせた。



「い、痛ったぁ」


 ユタはぼうっとする意識のなか、自分が落下していることを知った。

 とっさにアシュレイを突き飛ばしたまではいいものの、勢いを殺しきれずに崖から落ちてしまったのだ。失態を悔やみつつ、下方を確認すると水が見えた。ペレス河だろうか。

 タムタを呼ぶか。いや、水に落ちれば何とかなるだろう。

 立て直して、あのグラーチィアを何とかしなくては。


「………?」

「………」

「うわあああっ」


 自らの置かれている状況を把握したユタは、大声で叫んだ。

グラーチィアから庇って突き飛ばしたはずのアシュレイに、自分の身体は抱えこまれていたのだ。ユタの意識は一気に覚醒する。


「馬鹿! 離せ! なんで一緒に落ちてるんだ。グラーチィアは!」


 ユタは離れようともがいたが、拘束は一向に外れる様子はない。この馬鹿力。


「いてっ。馬鹿とはなんだ、口閉じてろよ。舌かむぞ」


 アシュレイは、ユタを抱える腕の力を弛めることなく言い放つ。

 言いたいことは山ほどあったが、水面が近づいていたのも事実だ。ユタは息を深く吸うと、目を閉じた。


 水は、思いのほか深かった。

 落ちた衝撃で、髪留めが外れて髪が水に漂いだす。幸い河の流れは緩やかだ。邪魔をする髪を掻き分けて手足をばたつかせていると、力強い腕に引き上げられた。


「グラーチィアは?」


 水面に出たユタは、アシュレイにしがみついたまま叫ぶ。


「上だ!」


 崖上を見上げると、黒い触手が霞のように消えていくのが見えた。


「消えた、のか?」

「そんな。私たちを追ってこないなんて」


 二人はしばらく崖を見上げて呆然としていたが、沈黙に耐えかねたのだろう、アシュレイがユタに声をかける。


「ええっと、その、大丈夫か?」

「何がだ」


 アシュレイはユタを抱えたまま固まり、ユタはアシュレイをにらみすえた。


「いや、とっさのことで力任せに扱っちまったし、その、怪我とか」


 崖から転がり落ちておいて、なんとも間抜けな問いであったが、アシュレイにしてみれば大真面目である。抱えあげたときの、その軽さに驚いた。もちろん今は水の浮力もあるだろうが。この細く軽い身体から、本当に先ほどの剣戟が繰り出されていたのだろうか。アシュレイは首をかしげるほかない。


 ユタは水中で絡みついてくる髪を払い、アシュレイを見上げた。


「そっちこそ大丈夫か? 鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしているぞ。それより離してもらえないか? 自分で泳げる」

「あ、ああ」


 呆然と手を離したアシュレイだったが、なぜかユタから目が離せなかった。


「何? 私の顔に、何かついている?」

「あ、ああ。いや。その、何でもない」


 ユタは眉をひそめ、そして訊ねた。


「何故、助けた?」

「……何のことだ?」

「さっきも言っただろう。何故君も一緒になって落ちてきたんだ。しかも私を庇うような真似までして」

「あんただって助けてくれただろ? 俺のこと。だから、それはお互い様だ」

 こともなげに、アシュレイはそう答える。

「敵なのに?」

「敵なのに、って。だから、あんたも俺をかばっただろうが」

「そう」

「そうだよ」


 ユタは納得した。

 このアシュレイ・ハーノルドという男は、『こう』であるからこそ、事情の根深いムルトという土地をまとめ上げることができたのだろう。『敵対する人間』であるはずの自分を、こうして庇うという。それも、おそらくは無意識に。それは並大抵のことではない。

 ただ、その事実が、ユタは嬉しいと思った。


「ぷっ、あっははははっ」


 いきなり笑い出したユタに、アシュレイは赤面する。


「な、なんだよ。おい! 笑うなって」


 アシュレイの抗議を無視し、ユタは笑い続けた。


「あはは……ああ、久しぶりにこんな風に笑った気がする。ごめん、悪い。君がおかしくて笑ったというわけじゃないんだけど」

「じゃあなんだよ」

「たぶん、さっき崖の上で、君が笑ったのと同じ理由だよ」

「……」

「さてと。まずは水から出よう。これ以上流されても困るし、あのグラーチィアのことも調べないといけない」


 そう言うと、ユタは岸へ向かって泳ぎだした。しかたなくアシュレイも後を追う。


「ねえ。アシュレイ・ハーノルド」


 ユタは、アシュレイに背を向けたまま声をかけた。


「なんだよ」

「歳、いくつ?」


 あまりに唐突な質問に、アシュレイは沈みかける。


「……25だ」


 アシュレイは意識せず、普段から歳を訊ねられたとき答える年齢を口にした。実年齢を伝えると、どうしてもつじつまが合わなくなってしまうのだ。自分の年齢は。


「いや、そうじゃなくて。えっと、じゃあ訊き方を変える。この世に生まれてから、どのくらい経つの?」


 今度は完全に、アシュレイのバタ足は止まってしまった。


「なんで。いや、やっぱりあんたも、そうなのか?」

「さぁね。で?」


 アシュレイが答えあぐねていると、ユタは自分も足を休めて彼へと身体を向けた。


「……156年」


 ユタの催促に、彼は蚊の鳴くような声で答えた。すると彼女はにやりと笑う。


「156歳か。なるほどね。それなら合点がいく」


 ユタは再び泳ぎだし、アシュレイは黙って後を追った。やっとのことで岸に辿りつくと、彼は問うた。


「あんたも、《ラゥの司》なんだな」

「まあね。君と同じだよ。アシュレイ・ハーノルド」


 驚きなのか、喜びなのか。どうにも形容しがたい表情を浮かべたアシュレイを見て、ユタは笑った。


「そんな顔しなくても。それだけ長く生きてきて、同類とは出会わなかったの?」

「いや。そういうわけじゃ、ないけど」

「ふむ?」

「久しぶりすぎて。出会うのは50年年ぶりぐらいだ。あんたは違うのか? ユタ」

「おや。やっと名前で呼んでくれたね」

「嫌か?」

「いや、そのほうがいい」


 ユタはアシュレイと会話をしながらも、てきぱき身支度をすすめている。

 ずぶぬれの上着を脱ぎ、絞って水気をきる。沈んでしまった髪留めの代わりに腰紐を割いてヒモをつくり、髪をまとめてくくった。


「ルンファーリアの神殿では、それほど珍しくないんだよ。《ラゥの司》」

「そう、なのか?」

「まあね。そもそもクルス皇が『そう』だからっていうのもあるだろうし。ラゥの司と『繋ぎ』を持とうとしてもいるし」

「そうか。いや、本当に久しぶりだったから。なんだか嬉しくてさ」


 アシュレイも水を絞った外套を羽織ると、照れくさそうに頬をかいた。


「俺のことも『アシュレイ』でいい。それに堅苦しい言葉遣いじゃなくてもいいぞ。楽に話してくれると、ありがたい」

「いいの? 敵と馴れ馴れしく話したりして」

「まあ、ギルは……うるさそうだな。でも、形式ばかり取り繕って、相手が見えなくなるよりは、ずっといい」

「なるほど。ありがたくそうするよ。ただ、こういう話し方はじつは元からだから、そこは許してもらえるとありがたいかな?」

「いや。そのほうが、ユタには似合っていると思う」

「………」

「なんだ」

「いや、アシュレイさ。周りから『たらし』って、言われたりしない?」


 自覚はないものの、それは確かによく揶揄される言葉だった。アシュレイはゴホンと咳払いをして、話題をそらす。


「とにかく、今はあのグラーチィアを何とかしないと。このままにはしておけないだろう?」

「そうだね。でも、あれは消えてしまったように見えた。てっきりこちらを追ってくると思ったんだけど。二人も《ラゥの司》がいたのに」

「それなんだけどさ。やっぱりあいつらって、俺たちみたいなのに寄ってくるのか?」

「ああ。たしかにグラーチィアは《ラゥの司》に、寄っていく傾向はある。でも同じように人の集まる場所にも寄っていくから何ともね。そうだな。……少し、待ってもらえる?」


 ユタが腰の吊り袋から小さな空色の石を取り出すと、アシュレイは感嘆の声をあげた。


「珍しいな。伝石か」


『伝石』と呼ばれるその石は、遠い場所にいる者と会話ができるという希少品だ。一つの石を二つに割って別々に持つと、離れていても互いの声を届けることができるのだ。ルンファーリアをはじめ、各国の軍では連絡手段として重宝されており、ユタの持つ石の片割れは、副官のノルカが持っていた。



 ユタは石に向かって、話しかける。


「あーあー。ノルカ? 聞こえる?」


 しばらくすると、慌てた様子のノルカの声が返ってきた。


『ユタ様! よかった。ご無事ですか?』

「大丈夫。すまない、連絡が遅れてしまって。そちらの状況は?」


 時間を無駄にはできない。できるだけ早く状況を確認して、できるならノルカたちをこの地域から遠ざけなければ。


『グラーチィアを確認後、臨戦態勢のまま距離をとっています。ユタ様、早くお戻りください。相手がグラーチィアですと、ユタ様がいないと話になりません』


 ノルカがユタを頼るのも無理はない。第一神官無しにグラーチィアを相手取るなど自殺行為だ。ただ今は、先ほどのグラーチィアに対処するが先決だった。


「ノルカ。今すぐ国境まで、退却して欲しい」

『は。た、退却ですか?』


 唐突な上官の命に、思わず間抜けな声を出してしまったノルカだったが、あわてて取り直して聞き返す。


『ちょっと待ってください。何事ですか。グラーチィアは?』

「いいから。国境で後援のアーヴェルと合流して、そのまま待機。グラーチィア出現の報を本国に早馬走らせて」

『そんな。ユタ様はどうされるのです?』

「私はすぐには戻れない。あのグラーチィアと接触したのに、見失ってしまったんだ。消滅した可能性もあるけれど、同じ場所で軍が待機したままだと狙われる可能性がある。私はこのまま、消えたグラーチィアを探す。急いで」


 ノルカは息をのみ、心得たとばかりに答えた。


『了解しました。ユタ様、お気をつけて』


 パタパタと騒がしい音を立て、ノルカの通信は途切れた。



「アシュレイ。聞いての通り、ルンファーリア軍のほうにはグラーチィアは来ていないみたい。他にこの辺りで、グラーチィアが引き寄せられそうな心当たりはある?」


 アシュレイはしばらく思案したが、愕然とつぶやいた。


「……ランペレス」

「え?」

「この近くで、人が大勢集まるところ。朱の本拠地だ。朱の軍もそこに戻っているはずだ。規模も大きい。可能性は高い、と思う」

「ランペレスか」

「くそ。戦えない人も多いのに」

「とにかく急いで行ってみよう。まだランペレスに向かったと決まったわけじゃない。村は人が多いとはいえ、こっちは《ラゥの司》二人だ。グラーチィアがこっちに来る可能性だって高いんだから」

「あ、ああ。すまない。そうだな」


 周囲の地形を見渡し、ユタは訊ねた。


「アシュレイ。この辺りに見覚えはある? それほど流されたようには思わなかったけれど、アルトゥスの辺り?」


 アシュレイは河と崖を見比べて、それに同意する。


「あ、ああ。この辺りはアルトゥスだ。それほど離れてはいないが、ちょっと厄介だな。崖に囲まれている場所だ。ランペレスまで行くには、崖を超えるか、河を下ってから迂回するか。いずれにしても時間がかかりすぎる」


 ユタはそれを聞いて、眉を寄せた。が、すぐに表情を隠す。


「アシュレイ、君は、」

「なんだ?」

「いや。確かに、それは厄介だね」

「ああ、どうしたもんか」

「アシュレイ。越えなきゃいけないのは、この崖?」


 ユタは目の前に立ちはだかる斜面を見上げた。傾斜はそこまで急ではないが、上の方で水が湧いているのだろう、岩肌がほんのりと濡れている。のっぺりとした岩が多く、足掛かりとなる凹凸も少ない。よじ登るのは骨が折れそうだ。


「登るのは、ちょっと難しそうだ」

「ああ、以前はランペレスに抜ける洞窟があったんだが。今は通れない」

「なぜ?」

「水が溜まって、足場が無くなってるんだ」

「船は?」

「どうだろう。通路が複雑だし、岩も入り組んでいるから、難しいと思う」

「そっか。洞窟の、空間としての広さはどのくらい?」

「ん、ああ、そうだな。それなりに広いけど。なにか良い案でもあるのか?」

「そうだなぁ。試してみないとなんとも。いや、タムタなら」

「なんだ?」

「ちょっと離れていて」


 ユタはアシュレイから少し離れると、自分の影を見つめてささやいた。


「おいで。タムタ」


 彼女の影から飛び出してきたのは、大きな黒い毛を持つ獣だった。虎のような体躯をしているが模様はなく、額のあたりからひらひらと揺れる触覚が生えている。

 こちらをじいぃっと見つめてくる金の瞳に、アシュレイはおもわず息をのんだ。


「見たことのない獣だな。ルンファーリアの騎獣か?」

「イーロゥという獣だよ。名前はタムタ。私の相棒、かな。タムタの同族とは、私もめったにお目にかからないから、確かにすごく珍しいと思う。こうやって、私の影に棲んでいるんだ。この子の脚なら、洞窟の中を渡れないかな?」


 ユタが耳の後ろをなでてやると、タムタは「当然!」とでもいうように、低く喉を鳴らした。そしてアシュレイに向けて頭を突き出してくる。どうやら「撫でろ」ということらしい。

 主を見ると笑って頷いたので、アシュレイはおそるおそるタムタの後頭部に触れてみた。丸みがあってふわふわしている。これは癖になりそうだ……。こんな状況にもかかわらず、アシュレイはそう思った。撫でる手が止まらない。


「アシュレイ? 気持ちはわかるけど」

「あ、ああ。悪い」


 アシュレイはバツが悪そうにタムタから手を離す。どことなく、名残惜しそうだ。


「ふふっ」

「なんだよ」

「いや? たとえ非常時でも、そういう『平常心』を自力で持ち続けられるのは、やっぱり強みだから。さすがだと思っただけだよ」

「茶化すなよ」

「ごめんごめん。まぁ、上手くグラーチィアをなんとかできたら、タムタをもふもふする権利を進呈するとしよう」

「なんだそれ。なかなか魅力的な誘いだな」

「でしょ? とにかく、その洞窟とやらに行ってみよう。タムタで通るのも難しいようなら、他の道を探さないといけないし」

「そうだな。急がばまわれ、か」

「そうそう」


 二人と一匹は、洞窟へと足を向けた。

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