幕間:エマト
幕間1:ナァトの祠
「あなたは誰?」
その青年に向かって、エマトは声をかけた。
「…………」
しかし、彼は黙ったままだ。
「ねえ、そこは登っちゃいけない所なんだよ」
エマトは再び声をかけたが、いくら待っても返事はない。まるで聞こえていないようだ。
そこは村の近くの森の一画だった。樹とその根っこが絡みついた大きな岩で、村ではラゥを祀る祠として大切にされている。エマトの父親が祠守を任されており、彼女は日頃から兄と一緒に手伝っていた。
今日はひとりだったが、祠に飾る花を持ってきたのだ。
すると見知らぬ青年が祠の上に乗り、どっかと座り込んでいる。村の子供が同じことをやろうものなら、晩ごはん抜きの刑にあうこと必須の行為だ。『それができる』ということは、彼は村の人間では無いのだろう。
しかし、誰か大人に見つかるとコトだ。
もう一度、今度は大きな声をあげて呼んでみた。が、彼がこちらに気がつく気配はない。もしかして、本当に耳が聞こえていないのかしら、と不安になる。
エマトはその視界に入ろうと祠を回り込み、そして青年に向けて両手を振った。
するとようやく、青年はエマトのことが目に入ったようだ。しかし怪訝な表情のまま、首をかしげている。
エマトは身振り手振りで、岩から降りるように伝えようとした。「耳が聞こえなくても、口の形を読んで意思疎通をする人もいる」と、兄さんが言っていたのを思い出し、青年に声をかけた。
「ねえ、そこは大事な祠だから、上に登っちゃ駄目だよ」
すると青年は、大きく目を見開いた。どうしたのだろう。なんだか驚いているように見える。すこし怖くなって、エマトは口をつぐんだ。
青年がゆるゆると、岩の上から降りてくる。そしておもむろにエマトの前までやって来ると、目の高さを彼女に合わせ、エマトの顔をじぃっとのぞき込んできた。
自然とエマトも青年の顔を見つめ返すことになる。その青年はエマトが初めて見る色をしていた。燃えるような紅い髪と透き通った琥珀の瞳だ。あまりムルトでは見ない目鼻立ちのせいか、年齢もよくわからない。兄さんと同じくらいだろうか。
しばらく互いに見つめあっていたが、ためらいがちに青年が口を開いた。
「お前、俺のことが、視えるのか?」
「え?」
どういう意味だろう。エマトは不思議に思って、逆に訊ねてみた。
「あの、あなたは誰ですか? 村の人じゃ、ないですよね?」
「おおぉ、すごいな。話もできる」
「えぇ?」
青年は感嘆の声をあげ、ついとエマトに向けて手を伸ばしてきた。意味がわからない。エマトは驚いて、青年の手をふり払ってしまう。
「……本当にすごいなぁ、お前」
そこでようやく、エマトはその青年が『普通の人間』ではないことに気がついた。
見た目は人の姿をしているが、よくよく見ると『彼』からは生きている者の気配がしてこない。かといって、悪霊や幽鬼などの『悪いモノ』にも見えなかった。どちらかと言うと、ラゥのような気配だ。
森には多くの眷属たちが潜んでいたし、彼もそういう存在かもしれない。
エマトは、勇気を出して訊ねてみた。
「あの、あなたは、何? 森に暮らしてるラゥの眷属?」
「ふぅん。そういうふうに考えるってことは、お前はカリムの民か?」
「え、ええと、はい」
「へぇ。なんだか変わった色の髪と瞳だけど……」
青年から無遠慮に首をかしげられて、エマトは瞳を伏せた。
そう言われてしまうのも無理はない。カリムの民は、真っ黒い髪と紅色の瞳を持っているのが『普通』だ。エマトの両親も、十離れた兄も、学び小屋の同窓たちも。全てのカリムの村人が、だ。
しかし、エマトは違った。彼女の髪や瞳は、カリムの色を持っていなかったのだ。
おそらくエマトの父親が、『森の祠の守役』という村でも重要な責を担う立場でなければ、彼女がカリムの民として育てられることはなかっただろう。両親がそのことに、どこかで負い目を感じていることも、他の村人たちがどことなくよそよそしいことも、自分の容姿が原因だということは、身に染みていた。
しかしそんなエマトの沈む心情をよそに、件の青年は彼女の瞳をのぞき込み、そして納得したようにうなずいた。
「ふぅん。確かに変わった毛色だけど、カリムの血は濃いみたいだな」
「え?」
「ああ。なまじ村の他のやつらよりも、カリュムントの力は強いんじゃないか? 俺のことが分かるんだから。これまでも声だけ聞こえるような奴や、姿だけ見える奴は居たけれど、『見える・話せる・触れる』が三拍子そろった奴とは、そうそう出会わないから。あんまり久しぶりだっただから、全然気がつかなかったよ」
勝手にひとりで納得し、笑っている青年に、エマトはほんの少しだけ腹をたてた。
「あの、結局あなたは何なの?」
「俺はリロン。この祠で眠っているラゥが、目を覚ますのを待っているんだ」
リロンと名乗った青年は、祠を見つめながらつぶやいた。
「この祠で、っていうことは……『ナァト』を?」
「おっ、さすがだな。よく知っている」
「それは、まあ。その、リロンは、ラゥではないの?」
「ん? ああ。俺はラゥじゃないよ。なんて言うんだろうな? 俺みたいな奴のこと。元は人間だったけど、ずっと昔に死んでいるから。……幽霊、とかかな?」
「そうなの? でもずっと待っていたというけれど、あなたのこと今まで見たことがないよ?」
「そりゃそうだ。ここに戻ってきたのは、百年くらいぶりだからな。ナァトがいつ目を覚ますのかなんて、俺にはわからないし。ずっと待ち続けてはいるけれど、ずっとここに座って居るというわけじゃない」
「……なんか、へりくつ」
エマトのぼやきに青年は吹きだし、大声で笑い転げた。なにげに失礼な人(?)だ。
「はははっ。やっぱりお前、面白いな。俺はしばらくここに居るつもりだし、良かったら話し相手になってくれよ。お前、名前は?」
「……エマト」
「エマト、か。よろしくな? で、どうだ?」
「空いている時間でいいなら。ほとんど毎日、花を供えに祠には来るし」
「ああ、なるほど。エマトは祠守の家の者なんだな。助かるよ。ありがとう」
リロンはにかっと笑い、エマトに手を差し出してきた。エマトはほんの少しためらったものの、リロンの手を握る。その手のひらは、意外なことに暖かかった。
「おーい! エマトぉー?」
遠くから、名前を呼ぶ声がする。ホン兄さんの声だ。
「ホン兄さん?」
「エマト。まだこっちにいたのか。遅いから心配したんだぞ?」
「ああ……と、ごめんなさい」
思ったよりも時間が経っていたらしい。いつの間にか森は薄暗くなっていた。しかしエマトの手は、まだリロンと繋がれたままだ。
「ほら、帰るぞ」
「…………」
「ん? どうした?」
何も言われないということは、兄さんにはリロンが視えていないのだろうか。エマトは驚き、ちらりと彼の方をうかがった。リロンは少しだけ名残惜しそうにエマトから離れ、「行け」とでも言うように手を振った。
「ううん。……なんでもない」
「そうか?」
「うん」
エマトは兄の側へと走り、帰路につく。振り返ってみると、リロンは再び祠の上に座りこみ、どこか遠くを眺めていた。彼はいったい何者なのだろう。
「また明日、来てみよう」
そう、エマトは思った。
「ねえ父さん。森の祠は『ナァト』を祀っているんだよね?」
エマトはその晩、父親に訊ねてみた。彼は祠を任されている。もしかすると、何か知っているかもしれないと思ったのだ。
「ん? ああ。そうだ。あの祠は『ラゥ・ナァト』を祀っている。どうした? 祠で何かあったのか? 今日は帰りが遅いと、ホンが迎えに行ったようだったが」
「うーん。よくわからないの。あのね、ナァトに縁がある人で、『リロン』って名前の男の人を、知らない?」
「リロン、リロンか? 父さんにも、ちょっと心あたりがないなぁ」
「そう」
父親にも解らないらしい。そうなるとお手上げだ。先々代の祠守だった祖父は早くに亡くなったと聞いている。父は祖父から祠守を引き継いでから、すでに三十年だと言っていた。村で一番、祠について詳しいのは彼のはずだ。
「どうかしたのか?」
「あ、ううん。その、森の祠のこと、もっとよく知りたいと思って……」
当然、何事かと疑われたが、ここで祠で見たことを話してどうなるものではない。言って悪いことではないのだろうが、エマトは何となく誤魔化してしまった。
「まあいい。リロンという名前に覚えはないが、ナァトと縁が深い人間というなら『紅鷹』が一番だろうなぁ」
「紅鷹。ナァトの《ラゥの司》?」
「そうだ。ユィートネルムの唄にもあるだろう? ラゥ・ナァト、つまり銀糸のナァトに魅入られ、共に神話の大戦を戦った英雄だ」
「どんな人、だったのかな?」
父さんは、ちょっと困ったように教えてくれた。
「さあなぁ? 紅鷹については、どういうわけか遺跡や文献がほとんど残ってないんだよ。唄にある以上のことは、あまりわからないんだ」
「きっと、すごく強い人だったんじゃないか?」
「ホン兄さん」
そこでホンが会話に入ってくる。どことなくウキウキと、楽しそうだ。
「だって、世界を剣で割ってしまうくらいだろう? きっととんでもなく強くて……あと、紅鷹って名前だし、なんだか紅くて、鷹っぽいんじゃないか? 空を飛べるとか目つきがものすごく鋭い、とか」
「おいおい……」
「だって父さん。英雄と呼ばれるくらいだし、そういう憧れってあるだろ?」
「まあ、なあ。父さんにも身に覚えはあるが、なぁ?」
「だろ?」
「ふぅん?」
エマトには、二人が目を輝かす『英雄』への憧れとやらは理解できなかったが、兄の言う『紅鷹』についての印象は、しっくりくるものだった。
リロンは燃えるような紅い髪に、鋭い琥珀色の瞳をしていた。もしかしたら……
「父さん。ナァトって森の祠の中で眠っているの? いつか目を覚ますの?」
エマトがそう口にした途端、父さんと兄さんの表情が凍り付いた。
「エマト……なぜ、そんなことを訊く?」
「え……?」
「やはり、祠で何かあったのか? 答えなさい!」
普段と違う父のその様子に、エマトは驚き恐怖した。
「ご、ごめんなさい」
「何があったかと聞いているんだ!」
「ひっ」
「父さん!」
ホンがあわててエマトをかばい、抱き寄せる。そういう兄の手も震えていることに、エマトは気がついた。
「父さん、俺がエマトを迎えに行ったとき、祠に異常はなかったよ」
「……」
「エマト、そうなのか?」
どういうことなのだろう。自分が言ったことはそれほど『おかしな』ことだったのだろうか? 父と兄がこれほど動揺するなんて。
「ごめんなさい。今日、祠の側で居眠りをしちゃったの。そしたら変な夢を見て……」
「変な夢? どんな夢だ?」
「よくわかんない。祠の側に男の人が立っていて、その人は自分のことを「リロン」って言って、その人が祠で眠っている人を、って。その、ごめんなさい」
とっさに誤魔化してしまったが、それほどの嘘は言っていない……はずだ。
エマトの言葉に、父さんはため息をついた。
「エマト。あの森の祠は『ラゥ・ナァトを祀っている』だけだ。適当なことを、外で口にしてはいけないよ」
「はい。ごめんなさい」
納得はいかなかったが、父や兄の様子を見るに『何か』あるのだろう。
やはり明日もう一度、祠に行ってみようとエマトは思った。
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