第5話 すっぴんなんてとんでもない話や

 あっという間に眠りに落ち、あめりの家で初めての朝を迎えた。

 何かのガラスが反射しているのか、やたらと天井がキラキラしている気がした。


「桃ちゃん助けてや、朝っぱらからムカつくわー!」

「うわ、いきなり入ってこないでよ」

「ちょっと聞いたってよ、あーイライラするわー!」


 思わず布団で顔を覆った。当然ながらノーマスクだ。

 寝る前に読んでいた大量のマンガの山がどさどさと崩れ落ちる。


「騒がしいね、こんな時間から」

「どうもこうもないで、見てやこのインスタのコメント!」


 あめりがアプリ画面を突きつけてきた。

 おそらくは御堂筋みどうすじあたりか、少し斜めに傾いた大阪の風景写真が映し出されている。

 だがハートや拍手のアイコンに混じって、


『何を撮りたいのか分からない。はっきり言って下手』

『この程度の写真を人前にさらせる神経が理解できない』


 見ただけで心にグサグサくる。悪い意味で刺さる。


「あー腹立つわー、心無いコメントってまさにこれや、そう思わん?」

「自分、こんな風に書かれたら一週間は病むよ」


 他人の作品に対するリプライは極力見ないようにしている。

 インスタじゃなくても、たとえばX(Twitter)やpixivでも同じだ。

 いわゆる共感性羞恥というもので、全てが自分にとっての批判と受け取ってしまう。昔からの悪い癖だ。


「よし、こいつに反論したるわ」

「やめようよ、荒らしは無視するのが王道だって言うじゃない」

「クレームはラブコールってやつや。なんか聞いたことがある」


 あめりはスマホの画面に向かい


「アドバイスありがとうございます。ぜひ大阪のお勧め撮影スポットを教えて下さい」

「私が撮れる精一杯の写真をアップしてます。もっと上手くなりますのでご期待ください」


 肉声に合わせ、インスタグラムのコメント欄に丁寧な返信が書き込まれていく。

 音声入力も今はかなり正確になっているようだ。


「よくあんな奴にまともに返事する気になるね」

「何がどうアカンのかはっきり言えん時点でたいしたことないやろ」


 清々しいまでの態度は、なんだか見ている私まで心が晴れてくる。


「昨日テレビでやってた竜田川たつたがわみかさってマンガ家も言うとったで」

「泉川ミカね」

「目を理由で作品をバカにしてくる奴には、私の観察眼はお前より上だって言い返すって」


 泉川ミカはその特異なキャラもあり、ネットでは賛否両論ある。

 繊細な画風と緻密な物語は素晴らしいが、トゲのある発言も多く、嫌いな人はとことん嫌いになる。


「ミカ、本当に交通事故の後で性格が変わっちゃったんだな……」

「そんなことがあるんか」

「急にキレやすくなったり、話しかけても返事しないぐらいマンガに没頭したり」

「うちの学校にも似たようなのおったな」

「そうだ、私の部屋の上にもたくさん写真が飾られていたけど、あれも全部あめりの作品なの?」


 私はあめりの祖母が使っていた部屋に寝泊まりしている。

 風景写真を収めた額縁が少し低めの天井を取り囲み、ちょっとした壮観だった。


「みんなうちが撮りためた写真やで」

「凄い数だね、これで全部なの」

「いやいや、うちの部屋にもようさんあるで。色に囲まれとらんと寂しくて仕方ないねん」


 写真をひとつひとつ指差しては、これは造幣局、これは中之島公園、と解説してくれる。

 もちろん見えているわけではないので、飾っている場所を完全に暗記しているのだろう。

 額の下部に筆書きで撮影地が示されているので間違いない。


「本当に見えてないんだよね。どうして区別がつくんだろう」

「どの写真も微妙に色がちゃうから分かんねん。皮膚感覚でいける」

「もはや超能力のレベルだね」


 ただし、その超能力も写真の質にまでは作用してないようだ。 

 あめりの能力そのものは驚愕に値するのだが、作品自体は正直それほどではない。

 大半がピントがずれているし、手ぶれや傾きも激しい。


「うちのおとん達もえらい気に入っとってな。あめりは天才やって誉めてくれてん。見てや、うちが一番大切にしとるアルバムコレクションやねん」


 あめりは自室から大量のアルバムを持ってきた。

 どうやら額に入りきらなかった作品を収めているようで、大判の写真がぎっしりと詰まっている。

 これらを丁寧にまとめてくれたのも、あめりの祖父母のようだった。


「ブドウ膜炎になったときもな、うちの目は飴ちゃんみたいで綺麗やって」

「さすが大阪」

「あめりのアメは飴ちゃんやのアメや、って言うてくれたん、嬉しかったで」

「なるほど、だからGrapeCandyなのか」

 

 子供時代について語るあめりは、驚くほどに饒舌だった。


「子供の頃は絵描くのが大好きやってん。それでお祖母が『天使の色鉛筆』を買うてくれたんや」

「昔はカメラが趣味じゃなかったんだね」

「写真なんていっこも興味あらへんかった」

「そうなんだ、意外」

「毎日のように画用紙やらカレンダーの裏やらに天使の絵を描いとったで。今でも何も見んくても描ける」


 私も絵が大好きで、小学校でも図工の時間が一番好きだった。

 絵画が得意だったミカと仲良くなってからは、彼女の家で暗くなるまでマンガを描いたものだ。


「じゃあ、いつから写真を撮るようになったの」

「盲学校の中学部の時や。ブドウ膜炎が悪化してもうて、手術したんやけど完全に目が見えなくなったんや」

「そうか、それじゃ絵が描けなくなっちゃうね」

「色だけは分かるから、原因はそれだけやないけどな」


 絵が好きな子の視力が奪われるなんて、あまりに残酷すぎると思う。

 私とミカも中学時代の交通事故で運命の暗転を経験しているが、あめりもまた同じ辛さを味わっていた。


「その時な、お祖父が古いカメラをくれたんや。あめりなら撮れるやろって」

「この前使っていたのは使い捨てカメラだったよね」

「目ぇが見えんからフィルム入れられへんねん。使い捨てのなら最初からフィルム入りやから楽なんや」


 天井近くに並べて飾られた額縁に顔をやりながら、あめりはしきりに呟き続けた。

 お祖父とお祖母にもインスタ教えてやりたいねん、天国でうちの写真を見せたりたいねん、と。


「前も言うたけど、今のうちの夢は個展をやることなんや」


 あめりはどんと大きく胸を張り、自信満々に笑った。


「アルバムに入っとる写真を一斉に展示して、お祖父とお祖母喜ばしたるねん」

「でもそれ、結構お金かかるでしょ」

「実は話も進んどるねん。今度のつつじ祭にうちのブース出させてくれへんかって、大学と交渉しとるんや」

「凄い、楽しみ! ミカの講演会もあるし、絶対に行かないと」


 会話が弾んだところで、あめりがポンとひとつ手を打った。


「外はめっちゃいい天気やし、靭公園に行かへん、個展のための写真を撮りだめしたいんや」

「……二人で?」

「当たり前やろ、なんで桃ちゃん置いてかなアカンの」


 はっきり言えば気乗りしなかったのは事実だが、あめりは私を気遣うこともない。

 強引に手を引き、なぜか台所へと誘導した。


「出かけるのはいいとして、どうして台所に?」

「化粧するんや。若い女がすっぴんで外出られるかいな」


 洗面台ではなく、台所の流しにずらりと化粧品が並んでいる。

 実に奇妙な光景だ。


「うちは古い家やから、お湯が出るのここしかないねん」

「水じゃダメなの?」

「当たり前や、冷たい水じゃ肌が傷むで」


 まずはぬるま湯で素肌を温めた後、石鹸を擦り込むようにして洗顔する。

 化粧水や乳液などを手のひらにとり、優しく丸く頬の表面に広げていく。

 視覚障がいがあるとは思えないほどに手際がいい。


「桃ちゃんの顔を触ってて感じたんやけど、ちゃんと保湿しとらんやろ」

「特に化粧とか興味ないし、まだギリギリ十代だからする必要ないよ」

「アカンで、それが若い女の言うことか。今から化粧するさかい、よう見とき」


 あめりの化粧は常に両手を使う。

 真ん中から左右に拡げるようにすることで仕上がりのズレを防ぐらしい。

 両手の指を使って器用に口紅とグロスをつけたあめりは、すっかり整った顔を私に近づけた。

 寝起き時点の顔が嘘のように、艶やかで光り輝く肌に変身していた。


「どうやらうちの最初の仕事は決まったみたいやな」

「……何?」

「桃ちゃんにメイク教える。すっぴんなんてとんでもない話や。プチプラでええから化粧品揃えや」


 あめりの顔はまったく笑っていない。ちょっと怖い。

 面倒だなんて言ったら殴られそうだ。


「わかった、洗顔と保湿だけでもちゃんとやるよ」

「保湿は寝る前には必須やで。サボったら白杖でどつくで」


 私はあめりの指導のもと、洗顔の基礎を一から学ぶ羽目になった。


「ええか、しっかり石鹸の泡立てて、もうイヤやって叫ぶまで洗いや」

「大げさな表現だなぁ」

「洗顔は基本や。気合入れてやらんと泡が残って肌が突っ張るで」


 まさか大学生にもなって顔の洗い方を教わることになるなんて。

 しかもあめりは自分で化粧した仕上がりを見ることが出来ないのに、だ。


「あめりが化粧をしても、自分じゃどんな顔か分からないんだよね」

「肌で感じる色がちゃうわ。それに外に出る時の気合もちゃう」


 あめり曰く、メイクをした際に得られる「やるぞ」という高揚感がたまらないらしい。

 まったく分からない世界だ。


「桃ちゃん、その調子やとファンデとか口紅とかも塗ったことないやろ」

「ずっとマスクして生活してたから、したことない」

「アカンな、そんなんじゃ外に出ようという気なんて起きひんで」


 私の身体があめりにがっちりと掴まれた。

 明らかに何かを企んでいる様子、口元の笑みがいやらしい。 


「うちが直々に化粧したるで。なに塗ってほしい?」

「なんでもいいけど、頬に触れないのでお願い」


 傷痕に触らずに化粧できるものは、口紅かアイカラーぐらいしかない。

 とはいえ他人に目元をいじられるのは怖い。

 必然的に口紅を選択することになった。


「しばらく動かんといてや。マスクは外してるやろな」

「外したよ。恥ずかしいけど」


 あめりは両手の小指に、薄いピンクの口紅を塗る。


「桃ちゃんの肌は蛍光レモン色を感じるさかい、カーネーションあたりが合うで」

「でもいくら綺麗に塗っても、結局マスクで隠すから意味ないでしょ」

「もう、桃ちゃんはこの辺の意識から変えんとアカンで」


 あめりの両小指が、私の上唇の中心部に触れる。

 ひんやりとした感触と同時に、まるで空気に味があるかのような不思議な気配が伝わっていく。

 瑞々しい果実を思わせる、柔らかくて甘い感覚だった。


「口紅はな、こうやって両手使って左右に引っ張るように塗るんや」

「落書きみたいにならないかな」

「ならんならん、うちのテクニックを信用しいや」


 指先に神経を集中して、唇から外れることなく紅を引いていく。

 化粧など無縁だと考えられていた視覚障がいの女性が身に着けた、世の中を生き抜く技だった。


「次は下唇や。しかし桃ちゃん、今までスキンケアとかしとらん割には唇はぷるぷるやな」


 あめりは冗談めかした口調で話しながら、私の柔らかな口唇を弄ぶ。

 不思議と不快感はない。

 あめりの指先が左右に伸びていくと、唇を触れられた跡がほのかに温かみを帯びていく。


「ほんまはグロスで仕上げたいとこやけどな。レモンのアイスに桃を載せたみたいな色味を感じるで」


 ここは台所であり、洗面台と違って鏡はない。

 自分の顔を見るのは恥ずかしいし、はっきり言えば拒絶感もある。

 だが今は鏡が欲しかった。

 あめりが引いてくれた口紅の出来栄えを確認したくてたまらなかった。


「ええな、最高やな、うちが男やったらチューしとるで」

「やめてよ、冗談でも恥ずかしいから」


 ダメだ、あめりの歯の浮くような言葉に耐えられない。

 申し訳ないが速攻でマスクを着用させてもらう。


「もったいないなぁ、せっかくの色味が消えてもうたわ」

「ごめん、やっぱりちょっと恥ずかしいよ、これ」

「化粧で変わるのは顔やないで、自信や。自信があれば何でもできる」

「どこかで聞いたセリフだね」

「まあええ、ちゃっちゃと着替えようや、公園混んでまうで」


 あめりは自室へ戻り、ピンクのスカートに水色のトップスを合わせた。

 本人に言わせれば「春の装い」ということらしい。


 緑色の使い捨てカメラをトートバッグに入れると、少し底の高いゴシックロリータ風の靴を履く。

 あめりの戦闘準備は整ったようだった。


「あれ、なんか鳴っとる」


 インスタに何らかのコメントが書かれたことを告げるアラームだった。


「また悪口だったらどうしよう」

「そんなもん消したればええねん、もしくは百倍のイヤミで返したるわ」


 アプリ上部のハートマークをタッチすると、コメント主のアカウント名が記載されている。


「これは三葉みつは先輩やな」

「知ってる人なの?」

「タイ語を専攻しとる先輩でな、えらい美人なんや」

 

『いつも最高の写真をありがとうございます。春ならではの新鮮な色合いが画面からも伝わってきます』


 大学生が書いたとは思えないほどに丁寧で、善良な人格がにじむような文章だった。


「会ったことあるの?」

「つつじ祭の実行役員をやってるんや。例の個展の話も三葉先輩を通じて進めとる」

「本当にやる気なんだね」

「当たり前や、うちら家族の夢やからな。動画も作ろうと思ってるんやで」


 盲目のインスタグラマーGrapeCandyの創作、というテーマで撮影する予定らしい。

 光を失った少女がいかにして写真と出会い、世界の色を感じ取り、人気写真家になった経緯に迫る――


「同じ大学生なのに、あめりもその三葉という人も積極的で凄いな、うらやましいよ」

「桃ちゃんが卑屈になることないで、さあ公園へ出発や」


 あめりが少し乱暴に引き戸を開く。

 隙間から差し込むうららかな春の日差しが、化粧したての肌を照らす。

 爽やかな風が吹き抜けていく街中へ、二人で勢いよく飛び出していった。

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