第2章 私は、天使と暮らし始める

第4話 目の見えない彼女と、わたしの新たなる日々

「まもなく、新大阪です」


 あめりとの出会いから一週間、三月も終わりに近づいていた。

 新幹線が駅に到着するチャイムを、こんなに緊張した心持で聴いたことはなかった。

 昨年春、初めての一人暮らしで大阪に来た際は母親が同伴してくれた。

 でも、今年は全く違う。


「おーい、ここや、うちや、あめりや!」


 駅へと進入していく新幹線の窓から見えたのは、紛れもなくあめりだった。

 抹茶オレのペットボトルを持った手を思い切り振っている。炭酸飲料なら大変なことになってるだろう。

 

「改札口で良かったのに」

「だって一秒でも早く桃ちゃんに会いたかったからや」


 確かに私が何号車に乗るのかを出発前に執拗に聞いていたが、なるほどこのためだったか。

 入場券だってタダじゃないというのに、まったく熱心なものだ。


「今日の服装もまた何と言うか、凄いね」

「かわいいやろ、藤色に桃色、桃ちゃんとの再開をイメージしたコーデやねん」


 淡い紫のトップスにピンクのスカート。それも生地が薄くてヒラヒラしている。

 こんなのを私が着たら、死にかけのクラゲにしか見えないだろう。


「服、自分で選んでるんだよね」

「そりゃそうや。部屋の中にあるやつを触って色を見てるで」

「触るだけで色が分かるってのが、超能力みたいでやっぱりピンと来ない」

「昔からやってるからなぁ、むしろ出来ん人の気持ちの方が分からへん」


 今日からいよいよあめりとの生活が始まる。

 母からも口を酸っぱくして言われたが、同棲なんてして大丈夫なんだろうか。

 実は両親にはあめりの目のことは伝えてないんだよね。まあいいか。


「なあ、前に桃ちゃんがうちへ置いてったマンガ、泉川ミカとかいうやつのか?」

「そうだよ。中学の同級生だったんだ」

「待合室でヒマやったからテレビ聴いとったんやけど、その子特集しよったで。すごいな、知り合いなんか」


 あめりがミカのことで驚いてくれるのは、私もなぜか嬉しい。


「あの子は色がよう分からんから、昔覚えた色鉛筆の名前で指定して塗っとるって」

「そうか、ミカもあめりと一緒のやり方をしてたんだ」

「事故のおかげで他の人とは違う世界が見えるようになったから感謝してるって言うてたで。えらいメンタルつよつよな子やな」

「私もびっくりしてるよ、そこまで立ち直っていたなんて」

「周りがうるさくて、よう聞こえんかったけどな」


 あめりの話によると、泉川ミカの作業現場を中継したものだったらしい。

 視覚障がいを抱えながらも大人気作品の連載をこなす姿に、あめりも感銘を受けたみたい。


「私は目が見えなくなったからマンガを描けるようになった、なんてセリフよう言わんわ」

「信じられない、昔は絶対そんな不遜なこと言わなかったよ」

「写実主義やから見えんものは描かんとか、そんな自信満々で生きてみたいわ」

「今でも十分自信ありすぎだけどね」


 ミカは小学生の頃からマンガが好きだったのは確かだが、今の作品のような超絶な画力はなかった。

 まともな視力を失ってなお、どれだけの努力を重ねてきたのだろう。


「最後に言っとったで、うちの大学のつつじ祭で講演会を予定してるって」

「正門にも看板が立ってるんだよ」

「そっかー、桃ちゃんの知り合いがうちの大学来るんか。そりゃ見に行かなアカンやろ」


 新大阪駅から地下鉄にしばらく乗ると、あめりが住む街へ到着する。

 ここは大阪の中心部に近いこともあり、ホームも通行人であふれている。


「ほんと人が多いよね、避けるだけでも大変だよ」

「うちは白杖があるさかいにな、勝手に向こうから避けていきよるわ」


 コツンコツンとリズミカルに地面を叩きながら、点字ブロックの上を器用に歩いていく。

 ホームが狭くなっているところなんて、見ている方が怖いぐらいだ。


「四つ橋線はホームドアないんだね、大丈夫かな」

「昔から何度も来とるからな、平気や」 

「心配だ、たぶんこれから毎日あめりが転落してないか気にすると思う」

「大げさやな、そんなんじゃうちと一緒に暮らせへんで」


 階段を上がったところには、数多くの小さな売店が並んでいる。

 岡山時代の最寄り駅は無人駅だったし、駅前にコンビニさえなかった。

 こんな大きさの店舗で商売が成り立つあたり、さすが都会だ。


「なあ桃ちゃん、チーズケーキの新製品が出とるやろ。何味って書いとる?」


 突然の質問が飛んできた。


「いつもこの匂いのとこで曲がるから、違いがあると分かるんや」


 視覚障がい者が周囲の様子を探るやり方はいくつかある。

 一つは白杖を使って段差などを検知する方法。

 音声情報、時には壁からの反射を利用して空間の広さを把握する技術。

 そして案外バカにできないのが、お店の匂いを記憶して位置を知ることだ。


「あそこのシューアイス、子供の頃によう買ってもらったで。今でもたまに食べるけどな」

「アイスの匂いで分かるの?」

「店から流れとる音やな。すべてが歩く時のヒントや」


 大勢の乗客の話声が反響する地下鉄駅構内で、細かい音も聞き逃さない。

 視覚以外のあめりの神経は、私たちよりもはるかに鋭敏になっているようだ。


「あ、この匂いなら私でも分かるかもしれない」

「これは大阪人なら全員一発やろ、豚まんの匂いが分からへんのはおらんで」

「岡山にお土産で買っていったら喜ばれたけどね」


 力強い足どりで駅内を闊歩するあめりの姿がうらやましくもあった。

 ステイホームが喧伝される以前から、自分はマスクで顔を隠さないと外に出ることさえ難しかった。

 でもあめりは誰にも遠慮することなく、通路の中央を堂々と歩いている。


「すまんなぁ桃ちゃん、まだ三月やのに大阪まで呼び出したりして」

「履修登録をやりたいんだよね。でもどうせアプリでやるんだから、一緒じゃなくてもいいのに」

「分かってへんなぁ、うちは桃ちゃんとリアルタイムで登録したいんやで」


 同じ高校から大阪国際語大学に進学した人はいなかったから、昨年は必然的に一人で授業を登録した。

 誰かと一緒に仲良く履修登録するなんて、私みたいなぼっちにはあり得ないと諦めていた。


「とりあえず適当なとこに入って座ろか。そこで作業しようや」


 近くのコーヒー店に腰を落ち着け、プリントされた授業のシラバスを広げる。

 あめりのiPhoneからは、何かを操作するたびに色々な音声が鳴り続けていた。


「読み上げ機能って実際に利用する人、初めて見た」

「うちらは中学のころから当たり前やけどな。むしろないとスマホ使えんで」


 よく見ると液晶画面の触り方が自分とはまるで違う。

 タップがダブルだったり、ホームボタンを何度も押していたり、時々画面にものすごく目を近づけたり。


「触るだけで色が分かるんじゃなかったっけ」

「スマホの画面ってコンピュータで補正しとるそうやん。それやと色が見えんのや」

「機械だと伝わってこないんだ」

「うちがインスタに上げとる写真かて、昔のカメラみたいにフィルムで撮影してるんやで」


 ようやく履修希望科目をを入力し終え、テーブルに置かれた紅茶で喉を潤す。

 年に一度の面倒な儀式の終了だ。


「あめりは去年の登録をどうやってたの。アプリでやれって言うからすごく戸惑ったけど」

「うちの大学、ボランティアサークルってのがあんねん。そこの子が手伝ってくれたんや」


 そのサークルの名を聞いたのは、あめりとの初対面の日以来だ。

 なるほど、鷲見のやつがあめりにちょっかいを出してたのはそういう理由か。

 あいつが近づきやすい環境にいるのは、はっきり言って不愉快だ。


「なあ桃ちゃん、うちの話聞いとるか?」


 すこし苛立ち気味だった私を案じたのか、あめりがテーブルに乗り出すように身を寄せてきた。


「ごめん、何か話しかけてたのかな」

「さっきから通路のとこを蛍光レッドが何回も通過してるんやけど、イチゴかいな」

「蛍光レッドが横を……? なるほど、分かった」

 

 あめりの言葉は、傍から聞いていればまったく意味不明だっただろう。

 だが私は彼女の持つ特殊能力を知っている。以心伝心というほどではないが、言いたいことは伝わった。


「期間限定のイチゴパフェだよ。みんなが注文しているんだろうね」

「頼もう! うち蛍光レッド好きやねんから」

「せめてイチゴが好きって言おうよ」


 運ばれてきたパフェは、本場のあまおうが丸ごと乗った見た目にも美しい逸品。

 ほんのりと雪のようにかかった粉砂糖が演出する色のコントラストも絶品だ。


「最高やな、頭の中が赤一色に染まっていくで。そこに白い点がいくつも入っとるねん」

「砂糖までちゃんと見えてるんだ、凄いね」


 そう言うとあめりはバッグから緑色のカメラを取り出す。

 親に聞いてみたところ、昔は修学旅行などで人気のあった使い捨てカメラらしい。


 ジージーと何かのダイヤルを回す音が響く。

 懸命に手探りしながらレンズをパフェの正面へ向けると、何度も上部のボタンを押す。


「この位置が一番ええわ。蛍光レッドがめっちゃ刺さる」

「なんで分かるんだろう。それ、たぶんインスタ映えする写真と似た角度になってると思う」

「やっぱり同じ人間やさかい、どんな場所がええかはみんな共通なんや」


 写真を撮り終えたあめりは電光石火の速さでスプーンを握り、大粒のイチゴにむしゃぶりついた。


 しかもまっすぐ口に入るわけではない。

 顔や手をクリームと粉砂糖でべとべとにしながら、子供が好物に飛びつくような感じで食べる。


「なあ桃ちゃん、このやたら酸っぱいの何や? これイチゴやないやろ、色が違う」

「ブルーベリーじゃない。色も綺麗だから入れたんじゃないかな」

「ブドウ色に赤紫が差し込んどるからブドウやと確信しとったけどな。紛らわしいなぁ」


 私はいつも通りにゆっくりと食べる。

 マスクを堂々と外せれば早いのだが、人前ではお手拭きなどで頬の傷痕を隠しながらになるので、どうしても時間がかかってしまう。 


「ちょっとあめり、ダメだよ、器を舐めるなんて行儀悪い」

「人間、舌の先の感覚が一番鋭いんやで。イチゴの果汁でクリームがピンクに染まっとることまで分かる」

「それはいいとして、みんな見てるし、その……」


 申し訳ないが、周囲からの視線が恥ずかしかった。

 あめりには事情があるんだろうけど、私には耐えられない空気だ。


「桃ちゃんの顔の色味、たまご色に蛍光レモンがちらちら差しとるな」

「れ、レモン? 私の顔が?」

「この前は『灰紫』やら『暗い灰色』やらが見えたから、今日は元気そうで嬉しいで」


 黄色を感じ取ったのは、私の服装のせいだろう。

 新幹線に乗ることもあり、地味な色合いの普段着は着ないように母から注意されていた。

 あめりの鋭い感覚は、服の変化まで把握してしまう。


「なぁ桃ちゃん、カメラのフィルムが余っとんねん。一枚撮ってええか?」

「ダメでしょ。お店の人が嫌がるかもしれないから」

「桃ちゃんならな、うちにとっての『百枚目の天使』になってくれる気がするねん」

「百枚目っていったい……。えっ、ちょ、ちょっと待って、近づきすぎ!」


 無機質に光るレンズが、強引に私の前へ迫る。

 私の顔が反射している。

 円弧で歪んだ醜いマスク姿が、さらに自己嫌悪を引き起こさせる。


「お願いだからやめてくれる、あめり」

「どうしたんや、そんな大声出して」

「私は天使なんかじゃないから。写真はやめて」


 思わずテーブルを叩いた。

 パフェのグラスが、瀟洒な小皿が、甲高い響きを立てた。

 周囲の目が私たちの席へと集中するのに耐えられず、思わず両手で顔を覆い隠した。


「……すまん、うちが悪かったわ」


 何分もに感じられる沈黙の果てに、あめりがようやく口を開いた。


「桃ちゃん、そこまで写真アカンのやな」

「こっちこそごめんね。『そこまで』嫌いなんだよ」


 写真だけは絶対にごめんだ。

 体育祭や修学旅行はすべて休むようにしていたし、卒業アルバムの撮影すら拒否した。

 自分の顔がわかるものは、似顔絵一枚たりとも残したくない。


「マスクの上からなら構わんと思ったんやけどな」


 あめりは手探りで伝票を拾うと、大きくため息をついた。


 無言のまま店を出る。

 中心部の賑やかさだけなら、地元の岡山も大阪も決して大差はない。

 だが中心地を過ぎてもなお続く大通りの喧騒は、まさに大都会そのものだ。


「靭の街はな、お祖父やお祖母が昔からずっと住んどるねん」

「古い町並みなんだね」


 あめりの白杖が人波を切り開く。

 私は彼女の背中だけを見つめながら、おずおずと進む。


「この辺なら杖なしで歩くことも可能や。どこに何があるか全部知っとる」

「車とか来たら危ないでしょ」

「平気や、当たってきたら慰謝料取るねん」


 以前にあめりの家を訪れた際は、初対面ということで緊張しまくっていた。

 周囲の景色をのんびり眺める余裕などなかった。


「ここがうつぼ公園や。うちのお気に入りの場所や」


 都市部とは思えないほどに大きな公園が見える。

 何かのスポーツ施設があるのだろうか、道行く人たちもジャージ姿が目立つ。


「お疲れさん、着いたで」

「数日ぶりなのに懐かしい感じがするね、あめりの家」

「桃ちゃん、何を眠たいこと言うとるねん」


 あめりはにこやかに笑いながら振り向き、私の両肩を握りしめた。


「今日からはあめりの家やないやろ」

「そうだね、お邪魔します」


 アカンわ、とばかりにあめりが大きく息をついた。


「ここが桃ちゃんの家や。畏まる必要なんてあらへんで」

「……ただいま」

「よろし、よう言えたで」


 一度は断念しかけた大阪での大学生活が、再び始まろうとしていた。

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