第3話 一緒に暮らそう

 あめりの突然の提案に、私はただ茫然とするほかなかった。


「泊まっていけばいいって言うけど、ご両親はいないの」

「うちはおとんもオカンもおらんねん。お祖父とお祖母が死んでからはうち一人や」

「こんな都会の真っただ中で、視覚障がい者だけで住むって、危ないでしょ」

「目ぇ見えんくても一人で暮らしとる人、ようけおるで」


 あめりは大阪の中心部でたった一人、堂々と生きていた。

 しかも祖父母だけでなく両親も亡くし、天涯孤独の身となっていたなんて。


「おとん達は南大阪でパン屋やっとるで。自然派だから田舎の方がええらしいで」

「ちょっと、生きてるならそう言ってよ!」

「勝手に殺したのはそっちやろ」


 あめりのツッコミに無理に笑おうと試みるが、表情がひきつる。

 こんなふざけた会話をしていても、退学届の書類をなくしたダメージがじわじわと効いてくる。

 時間が経つごとに胸の痛みが激しくなってくる。


「困った、私、どうしたらいいんだろう」


 住んでいたアパートはとっくに解約済み、荷物も岡山に戻している。

 朝帰りなんかしたら親が激怒するだろうし、今から帰るには間に合わないし、八方ふさがりだ。

 何だか知らないうちに喉の奥がひっく、と鳴る。


「どないしたんや、いきなり泣いて」

「出すはずの書類はなくすし、服はクリーニングされてるし、家に戻れないし」

「すまんな、あまり時間とか気にしてへんかった」


 あめりは苦笑いしているが、はっきり言って笑えることではない。

 行動予定を正確にこなせないと不安になる、私はそういうタイプなんだ。


「そういえば桃ちゃん、書類がどうこう言ってたけど」

「退学届だよ。私、三月いっぱいで退学する予定だから」

「なんでや、せっかく同じ専攻の子と仲良くなれたと思ったのに寂しいやないか」


 ずっと押し黙っている私の気持ちを察したのか、目の前に座っていたあめりが私の両肩をぐっと握りしめた。


「一度落ち着いて話きこか。で、いったい何が辛いんや」

「地元ではね、この顔のことでさんざんいじめられてきたんだよ」


 修学旅行中に遭遇した交通事故のせいで、顔に大きな傷痕が残った。

 クラスメイトは私をかばうどころか、嘲りの対象として中傷し続けた。


「それムカつくな。自分のことやないのに腹立ってきたで」

「高校も私立の女子高に行ったけど、その時はまだよかった。途中からリモート授業だけになったしね」

「あれは参ったで、盲学校だと対面授業以外はできんのや」


 私みたいなコミュ障にとっては、リモート授業はむしろありがたい存在だった。

 修学旅行も中止になったし、ラッキー以外の何ものでもなかった。


「大学もずっとリモート授業だったらよかったのにな」

「それで退学か。じゃあ、うちと一緒に通えばええねん」

「無理だね。今日だって大学の前に着くと涙があふれて、足も動かなくなったから」


 私だって好きで退学届なんて書いたんじゃない。

 大学生活で人生を変えたかった。

 自分と仲良くできる人に出会いたかった。


「うちは桃ちゃんが退学するの嫌や。桃ちゃんはうちの天使やさかいに」


 励ますかのように、あめりが私の手を握りしめた。

 体温が直に伝わってくる。

 彼女の優しい気持ちがはっきりと分かる。


「天使だなんて大げさだよ。私たちは今日が初対面なんだよ」

「桃ちゃんに触れとるとな、不思議なぐらいに色が降りてくるんや」

「そんなバカな、自分なんて大した人間じゃないよ」

「うちら普段は光を感じることぐらいしか出来ひん。でもこうしてると、目が見えてた頃と同じように周囲が色味を帯びるんや」


 あめりが部屋の天井付近を指さした。

 

「桃色がたくさん見えへんか? 蛍光ピンクだったりブドウ色だったりもするで」

「写真がいっぱい飾ってるね。これ、あめりが撮ったの?」

「せや。お祖母が気に入ってくれてな、うちの部屋にもようさん飾っとるで」


 色のない世界に生きるあめりにとって、どんな手段であっても色味を感じられることは何よりの喜びだった。

 その手助けをできる天使というのが、私なんかでいいのだろうか。


「うちな、写真の個展やりたい思うてんねん」

「個展って実際に写真を飾るの? インスタじゃなくて」

「そうや、お祖母が亡くなる前に約束しててん。いつかうちの個展やるさかいに、必ず見に来てやって」

「すごいね、私も見に行きたいよ」

「応援しててや、必ずうちの写真展、開催してみせるわ」


 視覚障害は、傍から見れば絶望的な境遇だ。

 だが彼女はそんな状況でもしっかりと目標を持ち、強く生きている。

 そのことがまぶしくもあり、うらやましくもあった。


「せやからな、退学なんて言わんといて。うちと一緒に大学行こうや」

「気持ちはうれしいんだけどね、でも」


 私の心には、もう一つ大きな引っ掛かりがあった。

 キャンパスで見かけた鷲見の存在だ。


「そういえば桃ちゃん、声を聴いただけで逃げ出しとったな、あれなんでや」

「あいつ、私の中学の同級生なんだよ」

「話し相手になれてええやん、何がアカンねん」

「さっきいじめられた話をしたでしょ、あの中心にいたのが鷲見なんだ」


 何がボランティアサークルだ、白々しい。

 人のことをさんざんいじめたくせに。

 髪の毛は金髪、両手にはびっしりとドクロのタトゥー、ただの不良じゃないか。


「悪い奴には思えんのやけどな」

「私だけじゃないんだ。友達を転校に追いやったのもあいつなんだ」


 同級生の泉川ミカも、私と同じく修学旅行中に交通事故に遭った。

 正常な視力を失うほどの大怪我をしたにもかかわらず、鷲見は彼女のことも愚弄した。

 ミカは怒りのあまりにカッターで鷲見を切りつけ、その代償として転校を余儀なくされた。


「鷲見さえいなければ、あめりの提案だって素直に聞けたと思うんだけどね」

「大丈夫や、うちがなんとかしたる」

「あめりが私を守ってくれるの?」

「そうや。もうちょっかいは出させへん。うちも鷲見っちと話すのやめるで」


 頬を膨らませながら、あめりは憤っていた。

 白杖でぶん殴ってやるとまで言い出したので、さすがにそれは止めるしかない。

 でもあめりの気持ちが、本当にうれしかった。


「電話の音がするで。うちのやないわ」

「やばい、お母さんに遅くなることを連絡してなかった」


 案の定、画面には母の名前が書かれている。


「なんや、桃ちゃんのおかんか。だったら話が早そうやな」

「えっ。どういうこと?」

「うちに任しとき、悪いようにはせんさかいに」


 あめりは私のスマホを奪い取り、初対面の母と馴れ馴れしく話し始めた。

 何かの目論見があるのか、小憎らしい微笑みを浮かべている。

 

「初めまして、うち、有森あめり言います。おんなじ大学の友達やねん」


 相変わらずの関西弁で、臆面もなく話しかける勇気に感服する。

 だがあめりが母に何を伝えたいのか、私にはさっぱり分からない。


「お母さん、ひとこと言わせて下さい。桃ちゃんに大学続けさせてください」

「待ってよ、大学を辞めるのは家族会議で決めたことなんだよ」

「うるさいな、ちょっと黙っとって」


 あめりの目が真剣だった。

 会ったばかりの私のために、どうしてここまで出来るんだろう。


「桃ちゃん、大学に友達がおらんくて寂しがってるだけなんです」

「ずいぶんはっきりと言いにくいことを話すね」

 

 とはいえそれは間違いない。多分うちの親も熟知しているはず。

 わざわざ告げられる方の身にもなってほしいけど。


「うちが友達になれば、桃ちゃんもまた大学行けると思うねん」


 電話の向こうの母の顔が容易に浮かぶ。

 間違いなく口をポカーンと開けているはずだ。


「責任もって卒業まで面倒見るさかいに、お願いします、あと三年通わせたって下さい」

 

 でも待ってほしい。

 卒業までと言われても、私はもう住んでいたアパートも解約している。

 岡山に戻るしかないし、新幹線で通学するのはあまりに非現実的だ。 

 一体、どうやって。


「桃ちゃんが、うちの家で二人暮らしすればええんです!」


 ねえ、それ本気で言ってるのかな。

 見ず知らずの人に提案されて「はいそうですか」となるなんて、普通ならあり得ない。

 

「うちやったら家賃も一切かからへんし、月々の食費とか入れてくれたら十分ですわ」


 言葉を失ってるのは母だけではない、私もだ。

 どうしてこんなことに、今日になって、いきなり。


「まだアカンですか、何か心配事あるんですか、絶対悪いようにはならへんって」


 んー、と考え込むような声を洩らし、あめりが天井を向いた。

 うちの母だって一筋縄ではない。安易な思い付きに乗ってくる人ではない。


「分かりました。ほなら桃ちゃん自身がOK出したらええってことで」


 あめりは「勝った」と言わんばかりの顔をしている。

 本当に押し切ってしまったのか、初対面の子との同棲許可を、勢いだけで。


「さあ、あとは桃ちゃんの言葉次第や。大学行きたい、って言えばええ」

「いや、その話、私と一切相談していないでしょ」

「相談なんてしてたらまた元に戻るだけや。人生は即断即決せなアカンことがあるで」


 強引すぎる。

 親元を離れるのは人生の一大イベント、そこには様々な逡巡もある。

 まして同棲となれば、さらに一段階上の思い切りが必要だ。

 それを今、この場で、私に。

 

「明日になったら桃ちゃんは岡山に戻るやろ。それで何かが変わるんか」

「プラスにはならないかもしれないけど、親と話して決めたことだから仕方ないよ」

「大阪に悪い思い出しか残らへんで。大学から逃げた、大阪から逃げた、それだけや」


 そうだ、私は明日には地元に戻るつもりだ。

 今まで通りに自宅に引きこもって、どこにも行けないままで終わるんだ。


「うちは目ぇが見えんくなっても、インスタでいつも写真上げとる。人生なんて諦めんかったら変わるんや。他人のせいにしよったらアカンで」


 あの交通事故がなければ、鷲見が私たちをバカにしなければ。

 他人に人生のすべてを決められたまま、終わってしまうなんて――


「イヤだよ、このままなんて絶対イヤだ」


 あめりが大きく息を吸いこみ、私の両肩を力いっぱい握りしめる。

 電話の向こうの母がびっくりするであろう大声で叫んだ。


「ここでビシッと言うたり!」

「何を言えばいいの」

「大学に行きたい、大阪に残りたい、それだけ自分の声で伝えるんや」


 大阪の大学に行けば、トラウマもコミュ障も克服できると思っていた。

 実際は何も変わらなかったし、挙句こんな状態にした張本人さえ大学にいた。


「本当に、私のことを守ってくれるの」

「ほんまやで。一生幸せにしたるわ」

「……それじゃプロポーズだよ。大げさすぎるよ」


 不思議な色をした両瞳が、じっと私を見据えていた。

 あめりと一緒だったら、話相手に不自由することもない。

 孤独を恐れることもない。

 変われるかもしれない。


「わかった、その電話貸して」

「もともと桃ちゃんのやけどな」


 私は覚悟を決めた。


「お母さん、私を大学に行かせてください。この家から通わせてください!」


 電話先の母へ向かい、思い切り頭を下げた。

 他人の家だというのに、近所迷惑なほどに大きな声が出た。


「だから今日は岡山に戻らない。明日また、自分の考えを伝える」


 最後に小さくごめんと呟いて、私は電話を切った。

 親に対してここまで自分を主張したのは、生まれて初めてだった。


「よう言えたで。その度胸があれば大丈夫や」


 あめりが拍手で私を迎えてくれた。

 まだ何も変わったわけじゃないのに、優勝でもした気分だ。


「今日は桃ちゃんの独立記念日やな。うちにとっても助かるわ」

「あめりにはメリットあるの?」

「個展やるとき、誰か目ぇ見える人が一緒におった方が楽やろ」

「……そういうことか」


 なるほど、私にやたら決断を促していた理由が分かった。


「さて、桃ちゃんが心変わりしたら大変やからな。実家帰る前に何かここに置いてってもらうで」

「人質ってわけか」

「せや。そうせな『やっぱり予定変更』となるやろ」

「まったく信用されてないなぁ」


 とはいえこの場に置いていけるほど重要なものなんて特にない。

 強いて言えば、大学に来る前に買ったマンガの単行本ぐらいだ。


「とりあえず一番重要なのはこれ、泉川ミカの新刊」

「知らん名前やな」

「うそ、有名だよ。『TwinBirdsStrike』は映画化も決まってるぐらいの作品だし」

「マンガも映画も見られたら苦労せえへん」

「そうだったね、ごめん」

「謝らんでええ、いちいちペコペコしとったら視覚障がい者と生活なんてでけへん」


 この通り、私は決して天使なんかじゃない。

 顔に醜い傷痕を残しておいて、天使なんて自称できる柄じゃない。

 むしろ私にとってのあめりこそが、人生を変えてくれる天使かもしれなかった。


「心配しないで、必ずここに戻ってくるから」

「ホンマやな? 帰ってこんかったら古本屋に売るで」

「私は天使なんでしょ。いなくなったらあめりが気の毒だし」


 少し意地悪に言葉を返した私に、あめりは満面の笑顔で飛びついてくる。

 背中にしっかりと手を回すと、その華奢な身体を預けてきた。

 

「はよ帰ってきてや、ここが桃ちゃんの家やさかいに」

「……うん」

「きっとお祖母も天国で喜んどる。な、そうやろ」


 居間の隣に飾られたあめりの祖母の遺影が、優しい顔で微笑んでいた。

 二人でいろいろと語り続けた夜は、あっという間に過ぎていった。


「お世話になります」


 天井近くに貼られた笑顔の写真に向け、私は思わず一礼していた。

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