第2話 共感覚者あめり

「あんたの名前、なんて言うん?」

「塩飽桃子です。あまりいない苗字だから覚えにくいと思うけど」


 彼女の身体を慌てて引っ張り上げた。

 さすがに地面に押し倒したままでは、周囲の視線が集まって恥ずかしい。


「塩飽かぁ、なんかピンとこんなぁ。桃ちゃんでええやろ」

「も、桃ちゃん?」

「うちがグレープキャンディやから桃や。フルーツつながりやし」


 正直な話、あだ名には憧れがあった。

 クラスメイト同士が気さくに呼び合う中、私だけが塩飽としか言われない疎外感。

 とはいえ初対面の子に桃ちゃん呼ばわりは、ちょっと恥ずかしい。


「どんな顔してるん、うちにも見せてや」

「有森さんは、目が悪いんだよね」 

「あめりでええで、堅苦しいのは苦手やし」


 あめりの白い指先が、不意に私の顔のあらゆる部分へと伸びる。

 髪の毛、額、鼻筋。

 生まれたばかりの子供が母親にそうするように、確かめるように撫でてくる。


「すまんな、うちはこうせんと何も見えへんのや」


 あめりの顔をじっと見られない。

 紫色の瞳は、私にとってはあまりに違和感がありすぎる。

 決して奇妙ではない、病気のせいで仕方なくこうなった、それは理解している。

 でも私なら、きっとこんな風に堂々とは振舞えないだろう。


「桃ちゃんは何回生なん、なんの言語を選択しとるん」

「四月からは二回生の予定だったよ、専攻は英語」

「全部うちと一緒や、やったぁ!」


 あめりは大きく両手を広げ、まるで恋人のように私に抱き着いた。


「ちょっとやめてよ、みんながこっち注目してるんだから」

「うちは見てへん。というか見えへん」

「いや、そういう問題じゃなくて、恥ずかしいってこと」

「うちがしたいことして、何が恥ずいねん」


 考え方が違いすぎる。

 自分がやりたいことなんて、他人に見せられるはずがない。

 おとなしく、慎ましく、控えめに生きる。それが世間ってものじゃないのか。


「うーん、はっきり見えへんなぁ」


 私の背中に回した手を上下に動かしながら、あめりが不満そうに呟く。


「桃ちゃんの顔、なんか触っても色味がぜんぶ掴めへんで」

「あれだけ触れば十分でしょ」

「マスクしとるやろ。邪魔や」


 あめりはこっちの事情を汲もうともしない。

 自分の思いをストレートにぶつける、ただそれだけだ。


「ダメ、これだけは絶対に外さないから」

「アカンで、うちは全部見たいんや」


 あめりの指が、遠慮なくマスクの下へ潜り込む。

 背筋にぞわりと走る悪寒。

 顔に深く刻まれた傷痕にまで伸びてくる爪先。

 冗談じゃない。


「やめて下さいっ!」


 思わずあめりの上半身を突き飛ばした。


「何すんねな、いきなり」

「ごめん、そこだけは絶対にダメなんだ」


 視覚障がい者を力任せに拒絶してしまった。

 私は最低の人間だ。

 臓腑の奥底から自己嫌悪が湧き上がってくる。


「すまんかった、そない嫌がるとは思ってへんかった」

「本当にごめんなさい、でも顔だけは勘弁して」


 倒してしまったあめりを起こした瞬間だった。

 不意にニヤリと微笑んだ彼女が、私の肩をがっちり握りしめた。


「顔じゃなかったらええんやな」


 あめりは私にそっと耳打ちする。

 肩口に置かれていた彼女の手が、私の後頭部へと伸びる。

 髪の毛のつむじ近辺から首筋にかけ、優しく慈しむように撫でてくる。


「桃ちゃんの髪、えらく綺麗な色しとんねんな」

「目、見えてないんだよね。どうして色が分かるの」

「形やったら触らんとダメやけど、うちは色やったら気配だけでも見えるねん」


 気配だけで色が分かる、見える。

 比喩とかではなく、彼女ははっきりと言い切った。


「うちがどうやってカメラ使ってたか、不思議だったやろ」

「何を撮影してるのかなとは思った」

「風に乗ってくる空気や温度や匂い、あらゆる感覚がうちにとっては色で見えるねん。凄いやろ」


 以前に読んだマンガで、共感覚という言葉を知った。

 数字に色がついて見えたり、音階がそれぞれ独自の色を持って聞こえてくるものだ。


「桃ちゃんにこうして触っとるとな、身体の形と一緒に色まで見えてくるんや」

「じゃあ、私が今どんな色の服を着てるか分かる?」

「うーん、センスあらへんな。黒と紺とか地味すぎるで、可愛くないわ」


 図星だった。

 彼女は本当に色を把握していた。


「桃ちゃん、もう少し自分の見せ方を意識しいや」

「たとえば?」

「肌の保湿ちゃんとしとらんやろ。ガサガサやで」

「出会って数分でずいぶん痛いところを突いてくるね」

「ちょっと待って、インスタにDM届いたねん、確認させてや」


 彼女が手にしたiPhoneからは「写真見ました、今度一緒に撮影会しましょう」などの音声が流れてくる。

 プライバシーもへったくれもない。


「桃ちゃんはインスタやってへんの?」

「いやいや、あれは陽キャ向けのSNSだから、私なんかには縁がないよ」

「誰がどんなアプリ使おうが勝手や、ほれインストールしいや」


 あめりに言われるままにInstagramをインストールし、フォローもする。

 彼女のアカウントには、色とりどりの写真が並んでいる。

 この大学だけでなく、中之島公園や靭公園、大阪城といった名所旧跡をくまなく抑えている。

 それだけではない。

 道端に咲いている花や、雨に煙る近所の景色など、日常を切り取ったスナップも映っている。


「さっき、気配だけで色が分かるって言ったよね。それで撮影するのを決めてるの?」

「もちろんやで。例えばこの辺りやとな」 


 あめりはぐっと瞼を閉じた。

 開いていたとしても何も見えないはずだが、それでも光を遮断することで意識を集中しているのだろう。


「桃ちゃん、あそこに花壇があるやろ」

「ある。凄いね、本当に雰囲気を感じてるんだ」

「紅梅色、カーネーション色、いや桃色やろか。蛍光ピンクやエメラルドも入っとる」

「ずいぶんマニアックな色指定だね」

 

 私たちが普段考えてる色は、いわゆる原色というものだ。

 赤、青、黄色、そうした単純にとらえることしかしない。

 微妙なニュアンスについては、視力によってまさに一目瞭然だからだ。


「桃ちゃん、『天使の色鉛筆』って持っとらんかったか」

「あー、あった、小学校の時に学校で買わされたやつ」

「うちの頭ん中にある色情報はな、すべて『天使の色鉛筆』が基準なんや」


 その鉛筆は、図工の時間にお絵描きをするときの定番だった。

 缶ケースに描かれた白い羽の生えた天使の絵、小さいころによく模写したものだ。

 今は別の企業に譲渡され、昔みたいな天使のパッケージでなくなってしまったのが残念だ。


「でも桃色はあったけど、紅梅色とかカーネーション色とかあったっけ」

「うちが買うてもろたの、六十色入りやったねん」

「いいな、友達のが十八色入りで、それだけでも憧れだったのに」

「お祖母が『今のうちにようさんの色に触れとき』言うて買うてくれたんや」


 あめりのことを少しだけ理解できた気がした。

 視力を失っても色の感覚を維持できてるのは、天使の色鉛筆のおかげなのか。


「あめりは今でも絵を描いてるの」

「いや、もう絵はやらへんで。さすがに見えんと辛いさかいに」

「だよね。でも服の色が分かるんだったらまだ――って大変あめり、スカートが泥だらけだよ!」


 他人事だというのに、私の顔面が真っ青になった。


「えー、ほんまかいな。そういえば芝生がずいぶんぬかっとるわ」

「この生地だとクリーニングに出さないとダメかも」

「桃ちゃんの服もえらく汚れとんとちゃうか。さっき触ったときにぬるっとしたで」


 冷汗が出てきた。

 お尻のあたりにべっとりと泥やら草やらが付着し、ひどく湿っている。

 さすがにこの格好で帰るのは恥ずかしい。

 最悪エキナカの服屋で何か買わないとダメかも。


「なぁ、うちとこ来ぇへんか」


 あめりがおずおずと口を開いた。


「うちの近くに知り合いのクリーニング屋があんねん。そこやったら早いし安いで」

「でもいきなり家に行くのも図々しいでしょ」

「気にせんでええよ、こっから遠くあらへんし」


 帰りの時間が少し遅くなるだろうけど、やむを得ない。

 クリーニングを終えてから新幹線に乗ると親に連絡しておけば、岡山駅まで迎えに来るときも楽だろうし。


「その前にちょっと学生課へ寄らせて。出さないといけない書類が……、え、うそ⁉」

「どうしたん、桃ちゃん」


 退学届けが入った封筒をどこかに落とした。

 あまりの急展開に、完全に頭から消えていた。


「大事な封筒、落としたかもしれない」

「アカンわ、すぐ探しにいかんと」

「そうだね、あめりはここで待ってて」


 大慌てで走り出そうとした瞬間だった。

 GrapeCandyと書かれた黒い看板とリュック、そして白い杖を持った男の姿が見えた。

 

 品性のかけらもない金色の髪、ダサい合成皮革の上着。

 手の甲に刻まれたドクロのタトゥー。


「おーい有森、どこだ、忘れ物だぞ!」


 まずい、鷲見だ。

 せっかく逃げたというのに、あめりの忘れ物を届けるために追いかけて来たんだ。


「鷲見っちか、うちはここや」


 親し気にぶんぶんと手を振るあめりをよそに、私は思い切り背中を向けた。

 中学を卒業してから何年も経っているのに、あいつの顔をまともに見られない。

 ひどい悪口を言われ続けたトラウマが蘇り、心臓が激しく胸を打つ。


「悪いな、わざわざ持ってきてくれたんやな」

「塩飽、なんでいきなり逃げ出すんだ。そんなに俺の顔を見るのがイヤか」


 ああ、イヤだね。

 言葉にならない罵倒を、心の中でつぶやいた。


 私は下を向いたままあめりに近づく。

 奴の顔は見ない。

 身体が硬直して、何もできなくなってしまうから。


「あめり、クリーニング屋に行くんでしょ。急ぐよ」


 彼女の手を再び握りしめ、またも鷲見のもとから逃げ出した。


「桃ちゃん速すぎるわ、おっかないわ」

「ごめんね、しっかりつかまっていて!」


 大学前の急坂を、息もつかずに駆け下りていく。

 私の左腕に密着するあめりの身体が、驚くほどに軽く感じられた。


「あめり、定期券を出しておいて」

「なんでえらい急かすねん、そんなに鷲見っち嫌いか」

「ごめん、事情はあとで説明するから!」


 自動改札を走り抜け、電車へと駆け込む。

 汗まみれの顔で、何度も大きく息をついた。


「悪かったね、無理をさせて」

「あいつ、ただのボランティアサークルの子やで。うちの看板描いてくれたりしとるし」


 鷲見のやつ、ボランティアなんてやっていたのか。

 顔に似合わないし、実に図々しい。

 就活に向けていい人アピールでもしているつもりなんだろうか。


「桃ちゃん、うちはここで降りるで。乗り換えや」

「そうなんだ、ごめん、ぼんやりしてた」


 あめりが私を気遣ったのか、額にそっと手を触れる。


「汗ひどいな、メイク落ちるやろ」

「大丈夫、すっぴんだから」

「それアカンで、人前ですっぴんとか」


 最初の電車で数駅、乗り換えて一駅、これであめりの最寄り駅へ到着する。

 白杖と点字ブロックを駆使してスムーズに歩くあめりの姿が頼もしい。


「凄いね、こんな混んでる駅の中をすいすい動けて」

「子供のころから慣れとるさかいにな。それに大阪の人はええ人ばかりや」

「そっか、私ももう少し大阪のことを知っとけばよかった」


 岡山から大阪の大学に入ったけど、学校の閉鎖でほとんど学校に通わずに過ごした。

 一人暮らしの家も完全に無駄となり、三月で解約したのが惜しまれるが、仕方ない。


「お疲れさん、とりあえず着るもん用意するわ」


 あめりの家は、大きな公園の近くにある一軒家。

 小ぶりながらも庭もあり、天井はやや低いが立派な二階建て。

 少し黄色く染まった壁の色は、昔からの人の営みを感じさせる風格があった。


 色褪せたジャージに着替え、私は彼女がクリーニング屋から戻るのを待つ。

 奥の畳部屋には、おそらくは遺影であろう、祖父母の写真が飾られている。

 あめりに色鉛筆を買ってくれたという祖母は、残念ながらもうこの世にいないみたいだ。


 非常に整然とした家だった。

 足元には余計なものがなく、壁にはあちこちに手すりがある。

 祖父母のためかもしれないが、視覚障がい者が自活するにはベストだろう。

 あれ、あめりって一人暮らしなのかな。


「遅うなってすまんな、桃ちゃんの服も出してきたで」

「何時間ぐらいで出来上がるの?」

「明日の午前中には終わるで。早いやろ」


 ちょっと待って。

 話が違わないか。

 私はてっきり夜までに洗濯が終わるつもりだったんだけど。


「じゃあ、今晩に岡山に戻れないじゃない」

「せやな」


 せやな、じゃないでしょ。

 あまりにあっけらかんと語りすぎでしょ。

 今日中に帰宅する約束を破られて激怒する母親の顔が、リアルすぎるぐらいに脳裏に浮かんだ。


「やばい、親にどう言い訳しよう……」

「ごめんって頭下げれば済む話やろ」

「うちは厳しいんだよ、今晩に帰らなかったら怒られるんだよ。ホテル泊まりなんて絶対許してくれないよ」

「ずいぶん大げさに話す子やな、桃ちゃんは」


 何か知らないけど涙が出てきた。

 あめりのやつ、全然反省する気配が感じられない。

 だって「すぐ出来る」といったら数時間を想定するでしょ、普通。


「なあ、ホテル泊まりやったらアカン言うたな」

「そうだよ、どこの男といるのかって勘ぐられちゃう」

「相手が男やったら怒るんやな」


 彼女は私に顔を寄せ、自信満々な笑みを見せた。

 自らの胸を力強く叩き、「心配いらん」と豪語する。


「女の家ならかまへんのやろ。うちに泊まってけば済む話や」

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