見えない天使は描けない ~盲目の彼女が、疵顔の私に恋をした~

浜栗之助

第1章 私は、天使に出会う

第1話 盲目のインスタグラマー

 大学へと続く坂を昇りきったところで、私は変われるはずだった。

 慈悲深い天使が、救いの手を差し伸べてくれるはずだった。


 三月末。

 入学から一年が過ぎ、数年間も続いた異常事態もようやく終わりが見えていた。

 私、塩飽しわく桃子ももこが通う大阪国際語大学も、来年度からはリモート授業も終わり、従来通りの対面授業が増える。

 街中にもマスクを着けない人が多くなった。


 だが仮に彼ら全員がノーマスクになったところで、私は別だ。


「……きゃっ!」


 荒々しく吹き付ける冷たい風に、私の不織布マスクが飛ばされかける。

 慌てて両手で顔を覆う。

 絶対にマスクの下をさらすわけにはいかない。

 どんなにメイクをしても隠し切れない、深くえぐられた傷痕があるからだ。


 誰も私の素顔を見てないよね。

 みんな「変なやつ」と思ってるよね。


 人前だというのに過呼吸と嗚咽が止まらない。

 早く学校に向かわないといけないのに、足が動かない。


 私がわざわざ地元を離れて大阪で進学したのは、ここならば顔面の傷を知られていないからだ。

 リモート授業は本当に良かった。

 でも今年からは対面授業が増える。

 こんな人混みの中へ通うなんて無理だ。 

 以前の状態が永遠に続いた方が、私にとってはずっとマシだったかもしれない。


 汗がにじむほどに力強く握りしめた茶色の封筒には、退学届が入っている。

 篆刻書体で校名が記された校門を見るのも、おそらくこれが最後となるだろう。

 さようなら、何一つ変わることができなかった私の大学生活。


『視覚障がいのハンディキャップを乗り越える!』

『アニメ化決定! TwinBirdsStrike連載中、マンガ家・泉川いずみかわミカ講演会』

『つつじ祭にて開催予定 ~大国大ボランティアサークル~』


 大学正門に威風堂々と立つサークルの看板に、思わず足を止めた。


「凄いよミカ、こんなに頑張ってたんだ」


 泉川ミカは私が最も尊敬するマンガ家だ。

 同時に中学時代に机を並べて勉強、いや絵の練習に励んだ仲間でもある。

 永遠の憧れであり、唯一最高の親友だった。


 だが私たちは、中学の修学旅行の自由行動中に居眠り運転の事故に巻き込まれた。

 私は顔に重傷を負い、ミカは頭を強く打って正常な視力を失った。


同級生ミカにひきかえ、私は全然ダメだ」


 知り合いが努力する姿は前へ進む勇気にもなるが、毒にもなるものだ。

 私は間違いなく後者だ。

 ミカの顔写真から視線を外し、未練を残さぬように早足で校内を通り抜ける。


「退学届、どこに出すんだったっけ」


 キャンパス内に所せましと並ぶ緑豊かな木々、花壇を埋め尽くす色とりどりの花。

 その周囲で和気あいあいと談笑をかわす学生たち。

 学内は春らしい雰囲気で満ちあふれているのに、私と来たら。

 いけない、こんなことばかり考えていたら気が滅入ってしまう。


 タタン、タタン、タタタン……!


 少し堅めの靴底が、軽快に地面を叩く音が響く。

 石畳敷きの通路の上で、リズミカルに踊る女性の姿があった。

 いや、彼女は踊っているのではなかった。


「やっぱりここは春の景色が最高やな!」


 彼女の両手にしっかりと構えられているのは、安っぽい緑色のカメラ。

 うちの大学の長所は、色とりどりの自然に囲まれていることだ。

 要するに田舎にあるという意味だが、景色の良さは間違いない。


 とはいえ踊りながら写真を撮るなんて、というのが素直な感想だった。

 あんなに全身を動かしてたら、間違いなくブレて最悪の出来になるよ。


 彼女は準備がいいことに、ポップなイラストまで手書きした看板まで立てている。

 少々素人くさくはあるが、昔はマンガ家を目指した私から見ても、そこそこ絵が上手い。


『インスタグラマーGrapeCandy 現在撮影中!』

『Instagram:grapecandyameri2003 フォローしてね!』


 インスタグラムか。

 名前もグレープキャンディ、か。


 あれは陽キャたちが自分たちの楽しさを暴力的に外部へ見せつけるためのアプリであり、私たちにとっては天敵レベル。

 マンガやアニメがどうとか、どのキャラが推しだとか尊いだとか、私好みのネタならばSNSにでも呟いている方が性に合っている。


 大体、あの子は服装からして変だ。

 真っ赤なジャケットに緑色のフレアスカート。堅苦しい黒のローファー。

 タイトルをつけるならば「季節外れのクリスマスツリー」といったところか。


「今日のキャンバスは色で一杯やで! 今度インスタにアップするからみんな見てや!」


 だが不思議なぐらいに、私の視線は彼女に釘付けとなっていた。

 調子よく踊っているけど、いつ転んでしまうか分からない。

 ふと目を離したら倒れているかもしれない。

 楽しげで、同時に危うく儚げな雰囲気を秘めた子だと思った。


有森ありもりあめりさん!」


 妙にゴロがいい名前だな、と思った。


「何度注意したらわかるんですか、勝手に道路を占有しないでください」


 あまりのフリーダムさに業を煮やした大学職員が、大慌てですっ飛んできた。


「占有なんてしてへんで。看板置いて撮影会やっとるだけや」

「それが占有と言うんです」

「大学側の頼みを聞けないようなら、つつじ祭での展覧会は無しにしますからね」


 毅然とした態度で諭す職員に、謎のインスタグラマーは懸命の抗議を続けている。


「話が違うで、つつじ祭でうちの個展やるために写真撮りだめしとるのに」

「これからは事前に学生課への申請をしてください」

「写真なんてその場で閃いて撮るもんやで、前もって手続きするとか無理やー!」


 さすが大阪の大学、ベタベタの関西弁だ。

 やっぱり関西には面白い子がいるものだな。

 京大みたいに頭のいいところだと変人が多くなると言うが、うちみたいな所にもユニークな人がいたんだ。


「興味持っても意味ないか、どうせ辞めるんだから」


 私は気を取り直す。

 今やるべきことは面白い人を探すことじゃなくて、退学届を提出することだ。


「そんなわけで撮影は中止してください。これは大学からの指示ですから」

「イヤやー、せっかく色が降りてきとんのに!」


 さよならグレープキャンディさん。

 たぶんあなたは別世界の住人なんだろうけど、私みたいな陰キャにかかわることなく自分の道を突き進んでください。

 あと他人に迷惑はかけないでください。


 退学すればあの子を二度と目にすることはないだろうし、私は本来の目的である学生課へと急ぐことに決める。

 まったく、とんだタイムロスだ。


「おい有森、いい加減にしろよ」


 大声で駆け寄ってくる男子学生の姿が見えた。


「この声は鷲見すみっちか、こいつ何とかしてや、うちの撮影を邪魔すんねん」

「俺も邪魔しに来たんだよ。いいからまず移動しろ」


 男は韓国アイドルのパクリみたいな外見をしていた。

 金色に染めた髪、品のないピアス。

 手にはドス黒いタトゥーさえ入っている。

 うちの大学の生徒なのか、よく面接を合格できたものだ。


「ちょっと痛い、腕引っ張らんといて」

「まず道の真ん中に看板を置くな。あと適当に投げてる白杖、あれ重要なんだろ」

「ちゃんとあとで回収するさかい、お願いやから写真撮らせて!」

「片付けが先だ、アホ」


 私は不良が嫌いだ。

 あいつらは無能なくせに集団でつるんで、やることはしょぼい悪事と弱い者いじめ。

 世の中の役には立たないくせに迷惑だけはかける厄介な存在だ。


「痛い、鷲見っち、手ぇ放してやー!」


 ちょっと待って。

 その名前、その顔、まさか。

 心臓がどんと一拍、胸を突き破らんばかりに激しく鼓動した。


「あの顔、同級生の……?」


 思わず路上に座り込む。

 鷲見という名前には嫌な記憶がある。


 中学時代のトラウマが脳内いっぱいに蘇る。

 あいつは仲間たちで私の顔の傷痕を執拗にあげつらい、不細工呼ばわりした。

 私たちが描いていたマンガを取り上げ、ヘタクソだとあざ笑った。


「嘘だ、せっかく大阪まで逃げてきたのに、どうしてよりによって大学で……!」


 手に黒く彫られたドクロのタトゥー、地元でも有名な不良の証だ。

 間違いない、あいつは鷲見備和よしかずだ。

 私を不登校に追いやった張本人だ。


「そこにいるの、塩飽じゃないか?」


 まずい、気づかれた。

 インスタグラマーの腕をつかんだまま、金髪男が私の方を振り返った。


「やっぱり塩飽だ。久しぶりだな。まさかお前も同じ大学にいたなんて知らなかった」

「なんや、鷲見っちのツレがおるん?」

「一緒の地元のやつなんだけど、いろいろあってさ」


 私の顔を見るな。

 どうせこの疵顔を笑う気だろう。

 あんたのせいで、私はマスクを外せないまま何年間も学校生活を送ってきたんだ。


「こっち来いよ、久々に話そうぜ」


 黙れ。汚い声をかけるな。

 だが心の中でふつふつと湧き上がる怒りは、喉が詰まって言葉にならなかった。


 あいつはろくな奴じゃない。

 中学時代、私の描いたマンガを見て「下手だ」とバカにしたよね。

 義憤に駆られたミカにカッターで切り付けられたよね、覚えてるんだから。


「そうだ、あのインスタの子も危ない」


 彼女、さっきから手をつかまれてイヤがってるじゃないか。

 このままではきっとひどい目に遭わされる。

 

「鷲見っち痛いねん、ええ加減手ぇ放してや」

 

 待ってて、今行くから。

 私は一つ大きく深呼吸し、一目散に駆けた。

 ほとんど無意識のまま、私は彼女の腕を握りしめていた。


「ねえ、私と逃げよう!」

「何やねん、ちょっと、急に手ぇつかまんといてな」

「ごめん、一緒に行くよ!」


 インスタの彼女が見ず知らずだとか、一切考えていなかった。

 ただ鷲見のところから、一刻も早く救い出したかった。


「速い、速すぎるで!」


 入学してから一年、でもリモート授業ばかりで散策したこともないキャンパス。

 どこに行けば何があるかさえ分からない。


「すみませーん、前を空けてください!」


 エジプトから脱出する聖者のように、目の前の道が開けていく。

 少しでも遠くへ。

 鷲見のところから逃げることだけを考えていた。 


「なあ、なんで突然うちの手を引いたん」

「あの鷲見ってのはダメだよ、悪い奴だから!」

「そうなんか、よう分からん」


 どれだけの距離を走ったのか、自分でも判然としなくなった時だった。

 インスタの彼女の足取りが、急激に鈍りだす。

 手に構えた緑色のカメラを四方八方に向け、あろうことかシャッターを押し始めた。


「ちょっとだけスピード落としてや。走りながら写真撮りたいねん」

「え、ブレちゃうよ?」


 逃げている最中だというのに、この子は何を言っているんだろう

 速度を緩めたところで、どうやってカメラを操るつもりなのか。


「今、めっちゃ色が降りてきてんねん、写真撮らなもったいないねん」

「色が……降りてくる?」


 彼女は片手で器用にカメラを構えている。

 景色を確かめることさえしない。

 何を撮影しようとしてるのかも分からない。


「凄いわ、こんなにようさんの種類の色が見えるの、初めてや」


 興奮気味の声をあげながら、何度もシャッターを切り続けている。


 彼女が手にしているのはスマホでもなければ、本格的な一眼レフでもない。

 一枚撮影するたびにネジみたいなものを巻かないといけない、不便そうな使い捨てカメラだった。 


「ねえ、そんなんじゃ綺麗に撮れないでしょ」

「普通にブレるで。でもそれがまたええねん」

「いや、良くないでしょ」


 走ったせいもあるだろうが、彼女の頬はすっかり上気している。

 全身からあふれてくるような笑い声。

 彼女の表情は、今の私からすれば羨望と嫉妬しか起こらないほどだった。 


「そういえば自己紹介しとらんかったな、うちは有森あめり、英語科の一回生や」

「わ、私、私は……」

「えらい息が切れとるな、無理せんと止まりや」


 足取りがおぼつかない。

 さすがにいきなり走りすぎたし、靴は運動用じゃないし、ハード過ぎる。


「この辺はアップダウンが激しいさかい、危ないで」

「そうだね、ちょっと疲れてきた」

「うちの大学、坂がきついし転ぶし……あっ!」


 キャンパス内には、昨晩の雨がまだ乾ききっていない場所があった。

 ぬかるみに爪先を取られた私とあめりが大きくバランスを崩す。

 足が膝から崩れ、もつれ合うように転倒した。


「……あ痛たたた」

「ごめん、今すぐどくから」

「重いわ、あんた上に乗っとるん?」

「そりゃもう、見れば分かると思うけど」

「見えたらの話やろ」


 変な返し方をする子だな。

 転倒した私があめりに覆いかぶさっていることは、誰にも理解できるはずだった。

 だが、彼女はそうではなかった。


「えっ、その目の色、一体……?」


 彼女の不思議な返答の理由が判明した。 

 あめりの両目は、自分たちが知る日本人の瞳、白地に黒の色合いとはまったく違った。


「……どうしたんや、返事ないで」


 それはまるで安物のガラス玉、いや、出来損ないのキャンディのよう。

 いわゆる普通とは違うその顔に、失礼だと分かっていながら息を飲んだ。


「うちの目、綺麗な色やろ。アメちゃんみたいってみんなが言うねん」

「これ、病気だよね……?」

「ブドウ膜炎ってやつやねん。子供の頃からずっとや」

「目、見えてるの」

「見えとるわけないやろ」


 当たり前と言いたげな堂々とした顔で、あめりが大きくうなずいた。


「伊達に盲目のインスタグラマーって名乗っ取るわけやないで」

「インスタ? 写真なんて撮れるの」

「バカにせんといてほしいわ、むしろこの目のおかげで大人気なんや!」


 一切の憂いも屈託もない、心からの笑み。

 あめりとの日々は、衝撃的な出会いと共に始まった。

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