二〇〇〇年・二

「やぁ。一ヶ月振り」

 ルイは明るいとは言い難い声音で呼び掛けた。

 一ヶ月振りと言われても、雅義にはそんな感覚が無い。この一ヶ月間の朧気な記憶しか残っていないからだ。

「やっぱり、ボンヤリしてるかな……?」

「嗚呼、お前と別れてからの記憶が殆ど無い。体感時間で正味三日ってところだな」

 ルイは申し訳なさそうな顔をした。

 実際、この一ヶ月の間、雅義の世話をしていたのは他ならぬルイである。拾ってきたのは自分だからと、進んでその役を引き受けたのだ。何となくそんな記憶は雅義にも有った。

「君の情報を複製して保存した。もう、君自身に何かをすることはないよ」

 ルイは言った。雅義は何も言わなかった。まだ何かを言いたそうにしていたから。

「……ねえ」

 暫くして、漸くルイが口を開いた。

「一緒に此処から逃げない?」

 雅義は暫し沈黙した。元よりすぐに帰れるものと思うほど呑気ではなかったが、この発言は想定外だった。

「此処に入った以上、生きて出られることはない。勿論この前みたいに短時間の外出は出来るけど、解放されるわけじゃないんだ。だからさ、一緒に逃げようよ」

「逃げてどうなる」

「教授達は追ってくるけど、それを振り切ってさ、何処か静かなところでずっと一緒に暮らそう。誰にも邪魔されないところで」

 瑠依は熱弁した。

 彼女は正気ではない。一ヶ月振りにそう思った。

「『生きて出られることはない』と言うが、そもそも俺を連れてきたのはお前だろ」

「それは……そうなんだけど」

 急にしおらしくなった。そうしていれば少しは可愛げがある。その実態がターミネーターの如きサイボーグだとしても。

 雅義としても、一生此処に軟禁されるのは御免だ。外でやることがある訳でもないが、此処は窮屈過ぎる。

 だが、ルイのような人造人間を造れる組織が、そう安々と見逃してくれる筈はない。たとえ地の果てまででも追ってくることは想像に難くない。

 果たしてそんな者達からずっと逃げていられるだろうか。ルイの提案は有り難い事だが、やや現実味に欠けるものだ。リスクが大き過ぎる。

「何故今更逃げようと?」

「僕は此処で生まれて、此処での生活しか知らないけど、そんな僕でも分かる事はある。教授やその助手達はみんな狂人だ。そんな連中と四六時中一緒に居たら、僕までおかしくなる。それに――」

 ルイは少し言い淀んだが、やがて意を決した様子で口を開いた。

「一目惚れなんだ、君に」

「知ってる」

 雅義はあっさり答えた。

 ルイはみるみるうちに耳まで赤くなっていった。

「あー、その、それで、君をこれ以上閉じ込めておきたくなくて……」

 ルイの声は尻すぼみだった。

 雅義は再び黙考した。

 逃げ出せるチャンスはそう多くないだろう。隠れ家はいくつも用意してあるが、其処とて安全とは言えない。常に移動し続けることを強いられる可能性が高い。そして何より懸念すべきなのが、追手の存在。

 ルイは此処で生まれたと言う。それからどれ程の期間が経っているかは分からないが、何も知らない自分一人よりはある程度情報を持っているルイが共に居た方が、より安全なところへ逃げられるのではないだろうか。足手まといになるような弱者ならこちらの負担が増えるだけだが、ルイは恐らくそうではない。雅義より単純な身体能力は勝っているだろう。身体構造的に人間でない以上、魔術の行使は難しいかもしれないが、それは自分の能力で幾らか補えるはずだ。

 雅義は腹をくくった。

「分かった。一緒に行こう」

 ルイの顔がパッと明るくなる。

 ただし、と何か言おうとしたルイに先んじるように口を挟む。

「あらゆる事を説明してもらうからな」

 ルイは力強く頷いた。

「そうと決まれば早速行動だ。用意は?」

「完璧。荷物とかないし」

「良し。俺も着の身着のまま拉致されたからこのままでいい。行こう」

 ルイは再び頷き、指を鳴らした。

 世界が裏返る。

「セキュリティに記録を残さず出るには、こうするのが一番」

 そう言いながら先導する彼女について行くと、驚くほどあっさりと外に出た。更に暫く歩き、あの日二人が出会った路地で、ルイは再び指を鳴らした。

「正直、裏面世界は生活には向いてない。僕は人間じゃないから平気だけど、君はそうもいかない」

 ルイは再び歩き出した。

 追手が来るまで一日しか猶予はないと、裏面世界を歩いている間に聞かされた。本当に危険になったら裏面世界に逃げ込めるというのは大きなアドバンテージだが、生活するのはこの世界でなければ難しい。如何にして追手に諦めさせるか、それが喫緊の課題だ。

 例えば、早速追いかけてきている一人の男を、如何にして撃退するか。

 雅義は低く口笛を吹いた。ルイの足が止まる。

 それを確認した次の瞬間、勢いよく振り返り、男を指差す。その指先から雷が放たれ、真っ直ぐ追手の男に向かった。しかし、そこにはもう居ない。

「転移魔術か……」

 再び振り返ると、男はルイの前に立っていた。

「逃げようとしても無駄だ。お前の位置情報は常に研究所でモニターされている。何処へ行こうが、お前の居場所は筒抜――」

 言い終わるのを待たず、ルイの回し蹴りが炸裂した。だが、やはり空振り。男は隣のビルの屋上から、こちらを見下ろしていた。

「佐久間……ッ」

 ルイが歯噛みする。ここまでの間に、雅義は魔術を組み立て終えていた。

 もう一度指先を男に向ける。飛び出す雷撃。男はその場から動くことなく直撃し、そのまま路地へ落下した。

「悪いな。転移遅延くらいの魔術は使える。数秒の遅延でも、これなら致命的だろ」

「もう聞こえちゃいないでしょ」

 ルイが呆れたように言った。

「おい、何が一日だ。一時間保たなかったじゃないか」

 ルイは少々バツが悪そうにした。

「位置情報が送られてるとは思わなくて」

「気付かなかった俺にも責任はあるが、何とか出来ないか?」

「一度電源を落として、再起動するまでの間に、僕を再整備するしかない」

「分かった」

 雅義は指を鳴らした。世界が再び裏返る。

「!?」

 ルイが驚愕の顔を浮かべた。

「原理は知らないが、俺は一度見た魔術を自分のものに出来る。最悪俺一人でも裏面世界へのアクセスは可能だ。急げ、俺の家へ行くぞ」

 二人は駆け出した。五分ほどで雅義の家に飛び込み、再び表面へ帰る。そこには数多のコンピュータと工具類が雑然と並んでいた。

「位置情報の送信を行っている魔術が見えた。対処するから電源を切ってくれ」

「再起動までの時間は?」

「三分でいい」

 ルイは頷くと床の上で横たわり、こめかみに指を押し当てた。電源のコマンドを入力し終えたのか、その手が力なく落ちる。

 雅義は躊躇いなく彼女のキャミソールを脱がし、胸の中央に手を当てた。ズッと手が潜り込むような感覚。手探りで問題の回路を探し出し、送信機能を書き換える。

 ルイが目を覚ましたのは、丁度雅義が手を離したところだった。

「わ、えっち」

「仕方ないだろ。直接触れなきゃ潜れないし、そんなに深く入れはしない。そうするしかなかった」

「事前に言ってくれれば良かったのに。もうお嫁に行けないよ」

「俺が貰ってやるから気にするな。生き残れたら、だけどな」

 軽口を叩きながら服を着直すルイを眺め、自分の処置に間違いがないことを確認する。ヨシ。

「これからどうする。此処へ来たことは割れてるはずだ」

 ルイはドアを一瞥した後、雅義へ向き直った。

「この部屋、魔術的な防御は?」

「そう悪くはない。だが、物理的な攻撃にはせいぜい三時間保つかどうかってところだ」

 ルイは少し口角を上げた。満足ということか。

「じゃあ取り敢えず、僕のこと話そうか」

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