裏面世界
竜山藍音
二〇〇〇年・一
二十世紀最後の年、一月六日。
後にシャーロック・ホームズの再来として神秘世界にその名を轟かす
今注目したい場所は、
そこに若い男女が二人。男の方がもう一方を押し倒している形だ。強姦でもしようというのか。実際それはこの退廃的な街では日常茶飯事だ。だが、よく見ればそうではないとわかる。青年の方は冷徹さすら感じる無表情であり、性的興奮状態にあるとは見受けられないし、何より少女の方だ。悪戯っぽい笑みを浮かべ、自らに覆いかぶさる男を楽しそうに見つめているではないか。これから強姦されようという女が、無抵抗に押し倒されたままそんな表情を浮かべているとは考えにくい。
「……俺に何の用だ」
男が口を開いた。実際のところ、彼は先程から後をつけてくる女を尋問すべくここで待ち伏せ、逃さないように押し倒したのだった。
「君、面白い形してるね」
女は質問には答えず、やはり楽しそうに言った。
青年は怪訝そうな顔をした。ほんの一瞬だけだが。注意深く見ていた人でもなければ、彼はずっと無表情に見えているに違いない。だが、少女はきちんと見ていた。
「嗚呼、外見上の話じゃあないよ。外見的には普通の美男子だし、僕の好みど真ん中だ。大胆にも押し倒してくれたから、このまま犯されるのかと思ってドキドキしたよ。それもアリだと思ったからね」
それはそれとして、と女は続ける。
「面白いって言ったのは、魂の形のことさ。ちょっと興味があるな」
「そっちこそ、面白い体をしているな。『ターミネーター』の世界に迷い込んだのかと思った」
男は相変わらず殆ど表情を変えずに返した。
彼は彼女の姿を初めて認識した時、彼女を狂人だと思った。この寒い中、キャミソールの上から薄手のロングコートを羽織っただけの格好で、勿論コートの前は閉じられておらず、しかもミニスカート、手袋もしてはいるがドライビング用と思しきハーフフィンガーグローブという、肌色の多い服装だったからだ。冬らしいのはニーハイブーツくらいか。全てのアイテムが黒で統一されているのは理性的とも狂気的とも取れるが、今回は妄執じみた狂気の沙汰だと感じていた。
しかし、彼女を観察してみて考えを改めることになった。彼女の肉体は、人間のようにしか見えないが、人体ではない。機械を生体組織で覆ったサイボーグ・ガイノイドの類だ。寒さを感じる機能がないなら、服装などどうでも良かろう。
「ますます興味深い。普通気が付くはずはないんだけどな」
女は少し目を細めて言った。やや警戒した時の癖だ。
「俺は魔術が見える。だから分かった」
「『魔力が』じゃなくて、『魔術が見える』のか。いやぁ本当に面白いな。でも、そんなベラベラ喋っていいのかい? 君、情報屋なんだろう?」
黒尽くめ女は目を細めるのをやめた。
「当然対価は貰う。お前の情報を話せ」
理不尽な押し売り。この街ではやはりよくあることだ。
「僕が情報を持ち逃げするとは思わないのかい?」
「もしそんなことをすれば、この街からお前の居場所が無くなるだけだ。俺にダメージは無い」
女はにんまり笑った。
「気に入ったよ。僕のことを教えてあげる」
そう言いながら彼女の右手は、目の前の男の背後に回されていた。当然、それに気付かない男ではない。押さえつけていたはずの手が、いつの間にか片方外されているのだから。
「お前、いつの間――」
言い終わることは出来なかった。青年の後ろに回された女の手が、彼をグイと引き寄せた為である。重力の助けも借りて、一気に両者の顔が近付く。そのまま、唇が重ね合わされた。
青年は驚き身を起こそうとしたが、サイボーグ少女の万力のような腕力には敵わず、結局されるがままにするしかなかった。
どれほどそうしていただろうか。三十秒か、一分か。はたまた三分経っただろうか。男の体はようやく解放された。
自然、眼前の女に視線が向く。彼女は蕩けきった表情で、男の方へ熱い視線を向けていた。やはり彼女は狂っているのかもしれない。男はそう思った。
「何をした」
男は身を起こしながら問いかけた。
少女は未だトロンとした顔をしていたが、自分の世界に入り込んではいなかった。少なくとも、質問に答えられる程度には。
「なにって、キスだよぉ……」
「そっちじゃない。お前『世界』に何かしただろ」
青年が険しい声音で再度問うと、やっと女は体を起こした。表情も多少はマシになったが、すぐに長い前髪で何故か虹彩の赤い右眼が隠された。
「『世界』のテクスチャを裏返したんだ。まあ、詳しいことは行ってから説明するよ」
「行く? 何処へ」
「僕を造った魔術師のところさ。ところで、自己紹介がまだだったね」
言われてみればその通り。互いに名前すら知らない状態でキスを交わしたのだ。やはりこの女は狂っている。彼はそう断定した。
女は立ち上がりながらコートのポケットに手を入れた。取り出されたのは一枚の名刺。
「僕はルイ。よろしく」
差し出された名刺には、ただ「ルイ」とのみ書かれていた。源氏名か何かだろうか。場所の事もあって、そんなことが頭を過ぎった。
「……俺は
「うん、知ってる」
ルイは頷いた。
「だろうな。だから名乗った」
「変わってるね、君」
お前に言われたくない。雅義は心底そう思い、深い溜め息をついた。
「君も魔術師だから、釈迦に説法だとは思うけど――」
一時間程後。厳重な警備が敷かれた施設の一室で、ルイはそう切り出した。彼女は自分の体がここで作り出されたと言い、この施設を「
「『世界』は一つのテクスチャの上に存在する」
手にしたコピー紙を、机の上に置く。そこには大宅市中心部のおおまかな地図が印刷されている。
雅義は頷いた。彼ら魔術師にとって、それは常識だ。こちらから観測できないだけで、他にも世界は存在するし、その世界のルールがこの世界のルールと同一であるとは限らない。ルイは便宜上一枚の紙で表そうとしたようだが、実際には無数に並んでいる、或いは散らばっていると考えられている。何しろ観測できないので、あくまでも学術的な予測に過ぎないが。
「これを今いる世界だと仮定する」
ルイは地図の上に小さいテディー・ベアを置いた。ご丁寧に、黒い服を着せられている。つまりはこれがルイの代わりというわけだ。
ちなみに現在は、彼女が「裏返した」と言った状態から更に裏返し、元の状態に戻っている。「裏返し」ている方が移動が楽だということらしい。
雅義はここまでを理解したと示すように頷いた。
「さっき僕がやったのはこういうことさ」
そう言いながらテディー・ベアを再び持ち上げ、地図を裏返した。そして、同じ場所にテディー・ベアを置き直す。
地図の裏面には、全く同じ地図が印刷されていた。この説明をする為に、ルイがわざわざ用意したのである。
見かけ上は先程と何も変わらない。地図の同じ位置にテディー・ベアは座っている。変わったのは紙の表裏のみ。即ち『世界』のテクスチャ。
「『世界』のテクスチャの裏側に、全く同じ『世界』があると?」
「厳密には違うところもあるよ。例えば動物がいないとか。裏側にあるのは大昔に組み上げられた大魔術さ。僕はこれを『裏面世界』と呼んでいる。
訊きたいことは他にも山程あったが、一先ず雅義は何も言わなかった。
「勿論、僕がそうしようと思えば他の人を『裏面世界』に連れて行くことも出来る。さっきやってみせたように」
ルイは、これで説明は終わったとばかりに、紙に火をつけた。魔術ではなく、ポケットから取り出したライターで。テディー・ベアを棚に戻し、雅義の方へ向き直る。
「それよりもさ、君のことが気になるんだよ。ただの魔術師じゃあり得ない能力を持ってるから」
それにその魂の形、とルイが言いかけたところで、部屋の戸が音を立てて開いた。
入って来たのは老人の域に差し掛かった男。背は高そうだがだいぶ猫背で、彫りが深い顔を爬虫類のように左右に動かす癖が見て取れる。彼は研究者然とした、或いはマッド・サイエンティストじみた鋭い目つきで雅義を観察した。
「瑠璃子、それは?」
なんと冷淡なことか。見ず知らずの人物を指して「それ」呼ばわりとは。
「あらお父様。いらっしゃらなかったので、お出かけでもなさっているのかと思っていました。こちらは先程知り合った方で、魂の形が興味深かったので拉致して参りました」
先程までのルイとはまるで別人のような口調。上辺だけの上品さ。この街の由緒ある魔術師の家系には、けして珍しいものではない。雅義はこの年老いた男の素性を推し量ろうとしたが、これといって手掛かりは得られなかった。今しがた瑠璃子と呼ばれたルイと同様に。
「そうか。ではそこの、ついて来い」
今度はそこの呼ばわりか。やはり人として見られていないらしい。雅義は自らの迂闊さを呪った。
ルイはここを「研究所」と呼んだ。それはルイを開発した場所に相応しい名称ではあるが、これでは何を研究しているのか分かったものではない。広く見れば魔術の研究所なのだろうが、場合によっては雅義が人体実験の材料にされたとてもおかしくはないのだ。
だが、老人の言に背くことは自殺行為である。明らかに雅義より格上の魔術師。勝ち目はない。そして後ろにルイ。逃げ場もない。
「また会おうね。……生きて戻って来られたら」
後ろから、雅義にのみ聞こえる音量でルイの声がした。なんと殺伐たる文言か。あたかも生きて戻れたら奇跡だとでもいうような言葉。
だが、それが却って雅義の心を軽くした。もとよりこんな末法の世の如き街で、情報屋などという胡乱な立場に身をおいているのだ。危険など今更ではないか。いつか来ると分かりきっていたその時が、今ようやく現実のものとして目の前に現れただけのこと。どのみち逃げ場もないのだ。
「……最高だ」
雅義は自虐的に呟き、確かな足取りで老人の後を追った。
ルイは扉が閉まるまで黙って見つめていたが、その顔にはありありと不満が表れていた。そしてその両眼は、燃え上がるような赤――
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