第7話Ep9.甘ったるい
「――それだけですか」
ポツリと響いたサトルの声は固い。
レナは先ほどまでと同じように、緩やかにそれを肯定した。
「そうだね、それだけだ。――納得いかないかい?」
「納得いかない……。そんなことは――いえ、やっぱりそういうことなのかもしれません」
サトルは俯き、両手で抱えたカップを爪の先で叩いた。カツカツと尖った音が一定のリズムで響く。わずかに残ったココアが揺れる。
「僕はレナ先輩のこと、現実的な合理主義者だと思ってました。理系だし。だから、なんか、なんというか……」
「たかだか思い出なんてもののためにこんな面倒な暗号を考えて他人に強要するとは思えない?」
「……ええ、まあ、そういうことなんだと思います」
先回りして言われた言葉にサトルは曖昧に頷いた。
レナは「ふーーっ」と長い息を吐きだした。腕を組んでどこか遠くを見て、それからサトルと目を合わせる。
「サトルくん。確かに君が思っているように、私はどちらかと言えば現実的な合理主義者だ。現状彼に不満があるわけではないけれど、三年後もシュンスケくんと付き合っていると断言するほどお花畑ではない。彼との関係が今後どうなるかはわからない。三年よりずっと先まで付き合っているかもしれないし、もしかしたら卒業を待たず別れるかもしれない。――けどね」
身体を逸らして天を見上げる。
その顔は変わらず、優しく、穏やかで――晴れやかだった。
「それとこれとは別の話さ。普段は合理的に暮らしたいという気持ちと、手間がかかっても特別な思い出がほしいという気持ちは両立する。それに、ね、サトルくん。私の記憶が正しければ、君は去年の文化祭で文芸部の部誌を買っていたね」
「はい。それが?」
「読んだかい?」
「ええ、まあ、ざっとは。……あー」
サトルは何かに気付いたかのように声を上げた。茶色い水面が微かに揺れる。
去年の部誌のことなどわからないエミはその先の発言を静かに待った。
「レナ先輩の書いたやつ。あれ、あれは……、なんですか? えす、えふ……?」
話すにつれて何かに気付いたような表情は困惑に変わり、元々早くない話し声がさらに遅くなり間延びしていく。
エミは内心ズッコケそうになるのを必死にこらえた。
(えぇ……サトル先輩…………)
「うるさいな、SF恋愛小説だ!」
そんな彼をレナが一喝する。微かに赤くなった顔を誤魔化すように、
「――コホン、まあそういうことだ。言ったろう、人をカテゴライズする方法は色々ある。理系の合理主義者というのもまた私の一面だが、図書委員委員長で文芸部部長というのも、これまた紛れもない事実だよ。SF恋愛小説を書いたりする、ね」
「……はあああーーー」
サトルは大きくため息をつき残ったココアを飲み干した。底に溜まったココアはどろりと濃くて、ひどく甘い。
その反応にレナは身を乗り出した。その動作は芝居がかったように大袈裟で、けれどアニメのキャラクターのように楽しそうだった。
「あっ、ため息ついたな。最初につかないと約束したのに。針千本飲ませるぞ」
「さっき死んで生き返ったとこなのでこの一時間半の記憶ないです」
「仕方ないな、そういうことにしておいてやろうじゃないか。――まったく、君には浪漫がないよねサトルくん。シュンスケくんを見習いたまえよ。彼は文句ひとつ言わず私の提案に乗ってくれたぞ」
「はあ、そんなこと言われましても」
小気味いい会話に甘い空気が刻まれる。それらはゆったりと混ざりほどけ散っていく。解散に向かうその雰囲気の中、エミは先輩がひとつ聞き忘れていることに気が付いた。
「……あのー、委員長」
「うん? なんだいエミちゃん」
「その、さっき先輩が言ってた……このタイミングでそういうのを打ち明けることにした理由って、何かあるんですか?」
「――ああ、そう言えば聞き忘れてましたね。どうしてこのまま隠し通さないで僕らに話すことにしたんです?」
「ああ、それかい」
サトルが身体を起こし、反対にレナは椅子に深く腰掛けた。脚を組んでぶらぶらとつま先を揺らす。
「――なに、簡単な理由だよ。最初に言ったように深い意味なんてない。価値観が変わり気が変わった。それだけさ」
「それだけ、って……。もう少し説明してもらえませんか?」
眉を寄せるサトルにレナは窓の外を向いた。片手でバサリと長い髪をなびかせる。
「そうだね……。同輩だと少々面倒くさい。どこが好きだどっちからだどこまでいっただ、根掘り葉掘り聞かれるのは目に見えている。その点君たちはちょうどいい。控え目な後輩、実にいい。こういうことを言いふらすタイプではないだろうし、言いふらされたところで共通の知り合いなんてほぼいない。いやぁ実にちょうどいい」
「……つまり?」
図書委員長はにこりとふたりを見た。眼鏡の奥の瞳がいたずらっぽく光る。
「つまりね、サトルくん、エミちゃん。私は初めてできた彼氏の話を誰かに聞いてほしかった――いや、正確に言うならば、誰かに自慢したかったんだよ」
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