第36話 堂々巡り
キッチンの惨状を目の当たりにし、片付けに取りかかろうとした俺を、奈々は慌てて制してきた。
「おにぃは怪我人なんだからここはあたしに任せて」と胸を張られてしまったが、なぜこの期に及んでそんな自信満々な態度をとれるのかが不思議だった。
だが、俺と同じ光景を目にしていた安城さんが手伝いを申し出てくれたので、俺は二人に任せることにした。
片付けを一任した俺に、奈々は今度こそ得意げに「お風呂入れといたから入ってきなよ」と言ってくる。
どうやら料理だけでなく、本当に
昨日怪我したばかりなので湯船に浸かるのは良くないらしいが、折角準備してくれたのなら少しだけでも浸かろう。
そう思って浴室に入り、風呂フタを片手で動かして――俺は固まった。
そこに張られているはずのお湯はなく、僅かに底の部分が濡れているだけにとどまっていた。
不思議に思ってモニターを見るが、風呂張りの操作はされている。
原因を求めて視線を彷徨わせると、浴槽の栓を閉めるボタンが押されていないことに気が付いた。
「ここまで来るといっそ芸術的だな」
確かに普段から風呂の準備なんかも俺がしていたから、こういうミスがあってもおかしくない。
おかしくないが……奈々、もう高校生なんだけどなぁ。
俺の育て方が悪かったか。
そんなことを思いつつ、左手をあまり濡らさないように気を配りながらシャワーを浴びる。
片手が使えなくなって色々と不便を感じることは多かったが、入浴はその中でもトップクラスの難易度を誇る。
頭や体を洗おうにも、片手しか使えないのでどうにも届かないところが出てきてしまう。
何より悪戯に左手を濡らさないよう気を配っていると、重心が傾いて転けそうになる。
風呂場で転けたらさらに怪我が増えそうなので、かなり注意を払った。
そうしてなんとかシャワーを浴び終え、洗面所の棚からタオルを取り出そうとして気が付いた。
「……あれ?」
普段は洗濯を終えたタオルを綺麗にたたんで並べてあるはずの場所に、タオルは一枚も置かれていなかった。
仕方がないので近くの収納から来客用のタオルを取り出して全身を拭いた。
廊下に出るとカレーのいい匂いが鼻をつく。
どうやら今日の夕飯はカレーらしい。
扉を開けると、キッチンに二人がいた。
「あ、おにぃ。お湯加減どうだった?」
「肝心のお湯がなかったことを除けば気持ちよかったな」
「うぇっ?!」
「栓、締め忘れてたぞ」
「…………あはは、あたしってばおっちょこちょいだなぁ」
「それ自分で言っても可愛くないから」
舌を出して可愛い子ぶる奈々を睨みつつ、タオルの一件を訊ねる。
「そういえば奈々、洗面所のタオル知らないか? 一枚もなかったんだけど」
「…………あ」
一瞬きょとんとした表情を浮かべていた奈々だったが、やがて何かを思い出したように気まずげに顔を逸らす。
それから「いやぁ……」と曖昧な声を零しながら人差し指をピンと立てた。
「そ、そのぉ……おにぃ大変そうだし、あたしが洗濯もしておこうと思ってさ。それで、たぶん間違えて纏めて洗っちゃった、かも……?」
「どうやったら間違えて洗濯するんだ……」
この半日で妹のポンコツっぷりをまざまざと見せつけられている気がする。
なんだか猛烈に心配になってきた。
こいつ、一人で生きていけるのか?
「ま、まあまあ、そんなことよりさ! ほら、ご飯できるから! 座って座って! あーちゃんと一緒に作ったんだよっ」
「片付けだけじゃなくて料理まで……ごめんね、安城さん」
「い、いえっ。調理実習みたいで楽しかったですからっ」
コトコトと鍋をかき回していた安城さんが独特の感想を零す。
ふと時計を見るとすっかり夕飯時だ。
「折角なら安城さんも食べて行きなよ。お家の用意がなかったらだけど」
「いいんですか?」
「もちろん」
「マ、ママに訊いてみますっ」
そう言って安城さんはスマホを取り出した。
なんだか嬉しそうにお母さんへ連絡をしている。
返信はすぐに来たらしく、安城さんは「ご相伴に預からせていただきますっ」と畏まって言うものだから、俺は奈々と一緒に噴き出した。
◆ ◆ ◆
カレーというのはやはり万能の料理で、これまでろくに料理のしたことのない奈々が作ってもとても美味しかった。
これまでのポンコツっぷりから少し警戒していたが杞憂だったらしい。
それこそ炊飯をミスしていてもなんら不思議ではなかったし。
だがまあ、安城さんも手伝ってくれていたわけだし、そんな初歩的なミスは起こらないか。
そんなこんなで夕食の片付けも終わり、すっかり遅い時間になる。
「安城さん、送っていくよ」
「そ、そんな、悪いです……。透さん、怪我もされているのに」
「足じゃなくて手だから大丈夫だよ。それに色々とお世話になったのに、一人で帰ってもらうのも申し訳ないしさ」
「じゃああたしが送ってくるよ。おにぃは休んでなよ」
「…………」
「な、なに?」
「前は俺に送らせて自分は一人アニメを見てたのにな」
俺はいつぞやの日のことを引き合いに出す。
すると奈々は明らかに狼狽えた。
「そ、それは、おにぃとあーちゃんを二人にするためで……あーもう! おにぃの意地悪!」
あの頃はあれこれ画策していたらしいが、安城さんの想いを知った今となってはその必要もなくなった。
流石にあの時の対応は素ではなかったらしい。
奈々が薄情な人間じゃなくてホッとするが、彼女の申し出はなんの問題解決にもなっていない。
「奈々が送ったらなんの意味もないだろ」
「へ?」
「いやだってお前、帰りは一人じゃん。この時間に女の子が一人なのが危なくて送るのに、堂々巡りじゃねえか」
俺が言うと、奈々は固まった。
言葉の意味を図りかねている、といった様子だ。
やがて奈々はぷるぷると震えながら叫び出す。
「っ、……お、おにぃは本当心配性すぎ! ていうかシスコンすぎだから! このシスコン!」
「いやシスコン関係ねえだろ……」
普通に家族の身を案じていただけなのに、ひでぇ物言いだ。
怒っているのかなんなのかわからない態度で、そのまま奈々はプリプリと廊下へ出て行く。
呆然とする俺と安城さんに、「ほら、行くよ!」と声が飛んできた。
「い、行きましょうか」
「うん、そうだね」
俺と安城さんは顔を見合わせて、小さく笑い合ってから奈々の背中を追いかけた。
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