第35話 惨状
「ふふふっ、透くん、その手どうしたの……っ」
放課後。生徒会室に顔を出すや否や、昨日と同じように長机に向かっていた紅羽先輩が笑いながら訊ねてきた。
こういうところはやっぱり姉弟だなと、健介のリアクションを振り返りつつ、今日何度目かもわからない事情の説明を行う。
「そんなわけでして、定例会議以外はしばらく顔を出せないと思います」
「おっけー。来週の体育祭もその様子だと無理そうだよね」
「はい。申し訳ないですけど」
「大丈夫大丈夫。幸い透くんに割り当ててる作業は実行委員会に押しつけられるしさ」
「押しつけられるって……」
まあ俺に余計な気を遣わせないための方便だろうけど。
ひとまず話は通したので部屋を辞そうとしたその時、ポケットの中のスマホが震えた。
「女の子からかな?」
スマホの画面を確認する俺に、愉快そうな声が飛んでくる。
「ええ。妹からです」
俺がそう返すと、紅羽先輩は「ちぇっ」とつまらなそうに口を尖らせた。
興味を失ったように手元のルーズリーフへ視線を戻した紅羽先輩を横目に、奈々からのメッセージを見る。
『今日から家のことはあたしに任せて!』
「任せてって……」
なんだろう。最後の感嘆符にどうしようもない不安を覚える。
だがまあ、正直この左手の状況では家事をするのも一苦労だし、ありがたい申し出ではあるな。
俺は『頼んだ』とだけ返信をしてから、生徒会室を後にする。
するとそのタイミングで、今度は安城さんからニャインが届いた。
『左手のこと、ななちゃんから訊きました。大丈夫ですか?』
画面越しに安城さんの心配そうな表情が浮かんでくる。
そう深刻になるような怪我でもないが、実情以上に心配していそうな気がした。
『大丈夫だよ。痛みもほとんどないし、半月ほどで完治するらしいから。強いて言えば、日常生活を送るのが少し大変ってことぐらいだね』
気を遣わせないように軽い調子で返す。
『透さんはしばらく、徒歩通学ですよね?』
『うん。自転車は危ないからね』
『だったら今日、私と一緒に帰りませんか? その、この後ななちゃんと家で遊ぶ予定なので……ご迷惑でなければ、ですけど』
以前の俺なら、この申し出を素直に……というよりは鈍感に受け入れていたと思う。
友だちの家に遊びに行くついでに、兄貴を誘ってくれているだけだと。
だけど彼女の好意を知った今、そういう受け取り方はもうできないし、しないと決めていた。
俺は廊下で立ち止まり、画面を見つめる。
メッセージの横についた既読マークが少しだけ俺の気持ちをはやらせた。
少しの逡巡の後、俺は彼女の申し出を受けることにした。
メッセージを返し、その足で昇降口へ向かう。
いつもはリュックスタイルにして背負うことが多い鞄も、今日は右肩にかけている。
なんとも奇妙な感覚のまま昇降口へ着いて靴を履き替えていると、背中に声が飛んできた。
「こんにちは、透さん」
振り返ると、ちょこんという形容が似合う佇まいで安城さんが立っていた。
「こんにちは。あれ? 奈々はいないのか?」
てっきり一緒だと思っていたが。
俺が訊ねると、安城さんはくすりと笑う。
「『あたし、家のことしないといけないの』って言って、先に帰りました。ふふっ」
何やら楽しそうに思い出し笑いを浮かべる安城さん。
きっと彼女の脳裏には得意げな奈々の顔が浮かんでいることだろう。
……なんでだろう。
より一層不安になってきた。
「おっと……」
片手だと、靴を履き替えるのにも一苦労。
靴を履くために右手を動かしていたせいで、鞄の肩紐がずるりと滑り、床に落ちそうになる。
慌てて抱えようとすると、今度は靴を手放す羽目になってままならない。
仕方ないので一度鞄を床に置こうとすると、視界の端にずずいと安城さんの小さな両手が入り込んできた。
「持ちます」
「いや、いいよ」
「持ちます」
「…………いや、い――「持ちます」…………」
そういえば安城さんって意外とこういう強情なところあるんだよな。
それも自分勝手という意味ではなくて、相手のことを思ってのことになると本当に譲らない。
短い付き合いだけどそのことを悟っていた俺は、「……じゃあ、お願いするよ」と半ば諦めながら鞄を差し出した。
すると安城さんは嬉しそうに「お預かりします」と微笑んだ。
もしかして、俺を誘ったのは最初からこのつもりだったのだろうか。
そんなことを思いつつ靴を履き替え、学校を出る。
「ななちゃん、夕食を作るって張り切ってましたよ」
「家のことって、料理もするつもりだったのか」
てっきり掃除とか洗濯とか、そういうものだと思ってた。
「ななちゃんは普段料理とかするんですか?」
「いいや、まったく。料理どころか家事全般俺に丸投げだよ」
「ふふっ、透さんのことを信用してるんですね」
「あれはそういうのとは違うと思うけどなー」
安城さんはどこか微笑ましそうに言うが、家でダラダラしている奈々の姿を見ている俺としては異を唱えたい。
あれは単純に自堕落なだけだ。
それをわかった上で全部俺がしているのも悪いんだろうが。
「じゃあななちゃんのご飯を食べるのは初めてなんですか?」
「記憶にある限りではないな。ああでも、この間の誕生日にもらったマフィンは食べた」
「美味しかったでしょう?」
「うん」
俺が頷くと、安城さんは思い出すように言う。
「ママと三人で作ったんです。ななちゃん、一生懸命作ってました」
「…………まあ、それはなんとなく伝わってたよ」
安く済んでどうのこうのと言っていたが、市販のものを買うよりも手間がかかっていることはわかっている。
しかしまあ、安城さんに改めて言われるとなんだか照れくさいな。
俺は空いている右手でぽりぽりと頬を掻く。
そんな俺を安城さんはにこにこと見つめていた。
自転車では十五分ほどで着く道も、歩くと三十分以上かかる。
その間俺たちは話をしていた。
これから来る梅雨のこと。
来週の体育祭や、七月の期末考査。
それから、待ち望んだ夏休みのことなど。
そんなことを話していると、あっという間に家が見えてきた。
鍵穴に鍵を挿してガチャガチャと回していると、家中からドタドタという音が聞こえてきた。
ちょうど扉を開くと同時、どこか慌てた様子で奈々が現れた。
「お、おかえり~」
視線を所在なげに彷徨わせ、引きつった笑みを浮かべる奈々。
家に足を踏み入れてすぐに、俺はそんな妹の様子をジッと見つめる。
「ただいま。なあ、奈々。お前何か――」
「あ、あのさぁ、おにぃ。帰ってきてもらったところ悪いんだけど、ちょっと買い物頼まれてくれない? いや-、食材がちょっと足りなくて」
「……何が足りないんだ?」
「え? ええっと……お砂糖と、お醤油と、あとみりん」
「全部ある」
その辺りの調味料は普段からきらさないようにしている。
俺が即答すると、奈々はさらに視線を彷徨わせ、
「えと、じゃあ包丁」
「それもう食材じゃないだろ」
思わず突っ込んでしまった。
最早思考回路が停止してしまったのか、口を半開きにして固まる奈々に、俺は鋭い眼差しを向ける。
「なあ、奈々。お前さっきから何を隠してるんだ?」
いいながら、靴を脱いで上がる。
すると俺の進行方向を塞ぐように奈々が割って入ってきた。
「…………」
俺はフェイントをかけながら奈々を抜き去り、リビングの扉を開ける。
そうして、俺の視線は自然とキッチンへと吸い込まれた。
嵐が通り過ぎたのかと見紛うような惨状だった。
キッチンの収納は至る所が開き、物が散乱している。
何をどうしたらこうなるんだと、呆然とする俺の耳朶を、奈々の力ない笑い声が打つ。
「あは、あはは」
「あは、あはは」
俺は壊れかけのオモチャみたいに振り返りながら、奈々の笑い声を繰り返した。
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