第33話 変化

「お疲れ様です。昨日はパーティー、ありがとうございました」


 雑務をこなすために生徒会室に顔を出すと、そこにはすでに先客がいた。

 奥の机で悩ましげにシャーペンを握る紅羽先輩に声をかけながら入室すると、彼女はぱっと顔を上げる。


「お疲れ様、透くん」


「今日も勉強してるんですか?」


「だったらこんなに頭抱えないんだけどね~」


 そう言って、紅羽先輩はヒラヒラと手元のルーズリーフを掲げた。

 近付いて受け取って読んでみる。


「なるほど、体育祭のスピーチ内容を考えてたんですね」


「そっ。もう来週だからね、今のうちにやっとかないと」


 ルーズリーフ上に書き連ねられた文章にはそこかしこに斜線や消しゴムで消した跡が残っている。

 筆者の苦悩を感じさせるが、実際紅羽先輩は勉強をしているときよりも苦しそうだ。


 ルーズリーフを返すと、紅羽先輩は盛大なため息を零す。


「そんなに悩むなら去年の会長のスピーチを真似したらいいんじゃないですか?」


 俺が適当にそう言うや否や、紅羽先輩の鋭い眼差しが飛んでくる。


「私だってそうしたいよ? けどさ、透くん。君、去年のスピーチの内容覚えてる?」


「…………覚えていませんけど」


「でしょ? スピーチなんて誰の記憶にも残らないもんなの。当然私の頭の中にも。だからこうして一から考えてるってわけ」


「それは大変ですね」


「そっ、大変なの!」


 紅羽先輩はずずいと人差し指を向けてくる。


「全校生徒に向けてするスピーチだけど、彼ら彼女らはスピーチにこれっぽちも興味がないの。そのことをわかった上で考えるのがどれほど虚しいことか……」


「…………いや本当、お疲れ様です」


 全校集会とかで壇上から見ているだけでも集団の興味のなさは窺える。

 スピーチをする紅羽先輩ともなればなおのこと。


 彼女の胸中は察してあまりある。


 俺が心から同情していると、紅羽先輩がきょとんと首を傾げる。


「何他人事みたいに言ってるの?」


「へ?」


「透くんも二学期からは生徒会長になるんだし、今のうちから私のスピーチメモっときなよ~」


「いやいや、なんでそんな話になるんですか」


 寝耳に水な話に仰天する俺に、彼女は淡々と語る。


「だって、一学期で私たちは退任になるわけで、そうなると現役の生徒会役員って透くんだけでしょ? 二学期からはまた会長選挙が始まるけど、当然生徒会役員経験者が有利なわけだし」


「……なんで俺が生徒会長選挙に立候補する前提の話なんですか」


 呆れ混じりに訊ねると、紅羽先輩は俺を見透かしたような眼差しで言う。


「だって、立候補するでしょ?」


「…………別にまだ何も考えてないですよ」


「え~本当かなぁ~」


 ニマニマと楽しそうに言ってくる紅羽先輩。

 本当に何も考えてないんだけどなぁ。


 妙な居心地の悪さを覚えた俺は、そこで会話を打ち切り、雑務に取りかかることにした。




 ◆ ◆ ◆




 家に帰ると、ちょうどスーツを着た父さんと鉢合わせた。


「今日休みじゃなかったっけ」


「急に仕事が入ってな。今から本社に行ってくるんだ」


「そっか。お疲れ様」


 父さんはいつも忙しそうだが、休みの日まで駆り出されるなんて大変だな。


 革靴を履く父さんの背中をぼんやりと眺めていると、玄関の扉を掴んだところで父さんが振り返った。


「そうだ、味噌汁ありがとうな。美味かったよ」


「二日酔いはとれた?」


「息子の愛情のお陰でな。それじゃな」


「いってらっしゃい」


 玄関扉が閉まり、少しして車のエンジン音が聞こえてくる。

 それを聞きながら俺は洗面所へと向かった。




 本当なら父さんは仕事が休みだったので、今日は奈々は安城さんの家に遊びに行っているらしい。

 久しぶりに静かな家の自室で、俺は学校の課題に取り組んでいた。


 つい先日中間試験が終わったばかりだが、来月には期末試験もある。

 楽しい夏休みを過ごすためにも勉強しておかないとな。


 そんなこんなで一段落ついて軽く伸びをしていると、ポツポツと窓ガラスを叩く雨音に気が付いた。


(予報では今日一日晴れだったけど。……そういえば奈々のやつ、レインコートは持っているよな)


 家に奈々の自転車はなかったので、学校帰りにそのまま安城さんの家に行ったんだろう。

 この雨の中レインコートなしに帰ってくるのは難しいが……果たして、俺の予感は当たったらしい。


 数分後、奈々からニャインが届いた。


『ごめんおにぃ、レインコート置いて着ちゃった。雨も止みそうにないし、持ってきてくれない?』


「いつも持って行くだけ持って行けって言ってるのに……」


 やれやれと思いながら妹に言われた場所からレインコートを持ち出し、傘を片手に家を出た。


 安城さんの家までの道のりは幸いなことに先日の全力疾走中に覚えていた。

 十五分ほどで、目的の洋館が見えてくる。


 レインコートを持ってきただけなのでインターフォンを押さず、奈々にニャインを送る。

 程なくして玄関扉が開く。


 奈々が現れたのかと思ったが、そこには制服姿の安城さんがいた。


「こ、こんばんは。透さん」


「こんばんは。奈々は?」


「今リビングでアニメを見ているところで……あと五分ほどで終わるので……」


「あいつ……」


 人を呼び出しておきながら待たせるなんてとんでもない妹だ。


「あ、あのっ、ななちゃんが来るまで上がりませんか? 雨も降っていますし……」


「じゃあ、お言葉に甘えて」


 門扉をくぐり、建物中に入る。

 前に来たときは余裕がなかったが、こうしてじっくりと眺めてみるとエントランス部分は広くて高い。


「今日お母さんは?」


「に、二階にいます。……呼んできましょうか?」


「いやいいよ。そういうつもりで聞いたんじゃなかったから」


 俺がそう言うと、安城さんはこくりと頷き、じぃっと俺を見上げてきた。


「安城さん……?」


「今日、学校で透さんのこと見かけました」


「ああ、朝の。……できれば忘れて欲しいな」


 昇降口での健介との一幕を見られたことを思いだし、気恥ずかしくなる。

 俺がそう言うと、安城さんは不思議そうに古典と小首を傾げた。


「どうしてですか?」


「なんというか……友だちとじゃれ合ってるところを見られるのは恥ずかしいからね」


 気恥ずかしさから顔を背ける。


「私は嬉しかったですけど……」


「え?」


 独り言のような声量で呟かれた言葉に思わず安城さんの方を見ると、彼女は彼女で顔を赤くして俯きがちになっていた。


「……その、透さんはいつも大人っぽいから。でも今日、新しい透さんを見ることができて……私、もっと透さんのこと知りたい、です」


「そ、そっか……」


 こういうとき、俺という人間は気が利かない。

 嬉しいやら恥ずかしいやら、ともかく視線を彷徨わせることしかできなかった。


 そんなときだった。

 奥の扉が開き、奈々が現れた。


「お待たせ~」


「本当だよ」


 口ではそう言いながらも、ナイスなタイミングで現れたことにホッとしていた。

 奈々は俺と安城さんを交互に見ると、にんまりと笑う。


「なになに、もしかしてお取り込み中だったり~?」


「うるさい、早く帰るぞ」


「はいは~い。じゃね、あーちゃん。お邪魔しました~」


「また明日ね、ななちゃん。……透さんも」


「うん、それじゃあ」


 雨が降っているのでお見送りは玄関先までにしてもらい、俺と奈々は安城家を後にする。

 レインコートを着て自転車を押してきた奈々が、俺を見てきょとんとした。


「おにぃ、歩いてきたんだ」


「雨降ってるからな。奈々は先に帰っといてくれ」


 俺がそう言うと、奈々はじぃと俺の顔を見つめてきた。

 それからきぃっと自転車を押し、俺の横に並ぶ。


「ううん、あたしも歩いて帰るよ。わざわざレインコート持ってきてもらったんだし」


「そう思ってるなら兄よりもアニメを優先しないでほしいものだけどな」


「それはそれ、これはこれ」


 にへへと笑う奈々にやれやれと肩を竦めながら、俺たちは歩き出す。

 すると、奈々は自転車を引きながら俺の右側に強引に入ってきた。


「レインコートあるんだから入らなくてもいいだろ」


「極力濡れたくないの~」


「たくっ」


 奈々を傘の中に入れて歩く。

 なんだか機嫌がいいな。


「そういえば聞いておきたいんだが」


「ん?」


「今日レインコートを忘れたのは、俺と安城さんを会わせるためにわざと……とかじゃないよな?」


 こいつには俺と安城さんを引き合わせるために色々と根回しをした前科がある。

 今回も変に気を回していたのなら、もうその必要がないことぐらい言っておかないとな。


 俺の疑念は、しかし杞憂だったらしく。

 奈々が被ったフードが横に揺れる。


「ううん、今日は普通に素直に完璧に忘れただけだよ。あたしミニマリストだから、荷物はなるべく減らしてるんだよね~」


「それで忘れたら世話ないだろ」


 呆れながら、傘を持っていない左手をポンポンと奈々の頭の上に乗せる。

 いつもの何気ないやり取り……のつもりだった。


「――!」


 奈々はパッとこちらを向くと、俺の左手から逃れるように傘の外に出た。

 驚く俺に、奈々はむっとした顔を浮かべ、


「やっぱりあたし、先に帰る」


 そう言って、慌てた様子で自転車に足をかけた。


「おい、気をつけ――」


 何かから逃げるようなその慌てように危機感を覚えた俺が呼び止めるのと同時。

 走り出した奈々の自転車が、雨に濡れた地面でずるりと滑った。


 反射的に傘を手放し、横転しかけた自転車から奈々を引き寄せる。


「――ぃっ」


 ガシャンと自転車が倒れる音に合わせて、俺は奈々を抱きかかえながらその場に尻餅をついた。

 受け身を取った左手に鈍い痛みが走り、思わず顔を顰める。


 そうしながら俺は腕の中にいる奈々に声をかけた。


「おい、大丈夫か」


「っ、う、うん……ありがと」


「あんな乱暴に走り出すからだ。……まあ怪我がないならいいけど」


 お尻にじんわりと雨が染み込んでくる。

 ゆっくりと奈々を立ち上がらせると、その場に立ち尽くす奈々に拾い上げた傘を手渡しながら、自転車の状態を確認する。


 幸い、壊れているところはなさそうだったし、鞄も防水カバーで覆われている。


 自転車を起こし終えて奈々の方を振り返ろうとした時だった。

 突然服を引っ張られた。


「奈々……?」


 振り向くと、いつの間にか真後ろに立っていた奈々が俺の服を掴んでいる。

 傘とフードに隠れて表情はうかがい知れないが、彼女は俺の声かけにも反応しない。


 ……まだ混乱してるのか。


 転けかけたのだから無理もないか。


 そう思って元気づけようと言葉を探していると、不意にずずいと奈々が傘を差しだしてきた。


「ん、返す」


「おう。じゃあ俺も自転車返すな」


 お互いに傘と自転車を入れ替える。

 そうして奈々は今度は自転車に跨がることなく歩き出した。


 俺も慌てて隣に続く。


「あはは、おにぃビショビショじゃん」


「誰のせいだ、誰の」

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